第七十四話 登紀と未来の魂の叫び
懐かしい痛み、懐かしい手のひらの感触。
右の頬に焼けるような熱い痺れを感じながらも、私はその感覚にどうしてか、懐かしさを感じずにはいられなかった。
いや、懐かしさと、そして、愛おしさを。
「あ・・・・・・」
顔を上げ、私を叩いた人物に向き直る。それは私が知っている人。そして・・・・・・かつて、愛した人。
「・・・・・・晴樹、さん」
もう七十年以上も前に他界した、懐かしい夫の姿がそこにあった。
「この阿呆がっ、見とれんわ!」
ああ、間違いなく晴樹さんだ。その物言いは間違いなく私の亡き夫のそれやった。
でも、どう反応してええのか分からん、ほんまに久しぶりに会えたかと思たら、なんか怒っとるみたいやし、一体なんなんな?
「お前はあの少年が好きなんやろ?」
その言葉にずきり、という痛みが走る。心から湧き出る言葉、それは『浮気』、『裏切り』、そして『不誠実』・・・・・・
「はい」
多くは語る必要が無い。妻と言うのはそういうものでなければならない、少なくともあの時代は。
「ほれやったら、なんな! その態度は!!」
懐かしいその叱りつけに、意味が飲み込めず「え?」と声が出てしまう。態度って・・・・・・私は未来君が酷い目に遭って、それを何とかしたくて、それで・・・・・・
「男が困難に立ち向かっとるんやないか! ほんな時に女がすることは何や、泣き叫んで相手にすがるんか!」
えっ・・・・・・あ!
「ちゃうやろ。ほんまにお前が好きな男やったら、その背中に活を入れてやらんでどないすんや!!」
ああ、そうだ、その通りだ。
私は長い時を生きて来た大おばあちゃんや。やけんそのせいで、どこか未来君を下に見とったんやな。大事にせなあかん、守ったらなあかん、そんな風に上から目線で、彼を保護する立場みたいに思っとった。
ほなけどほれは間違いや。ほんまに好きあっとるんやったら、へたこれそうなときには気合を入れたらなあかんやないか。ほうやって女は男を支えたらなあかん、今の時代のコンプラなんとかには合わんかもしれんけど、それが私たちの時代の正しい男と女の姿やないか。
今私は何を言うた? 代わりに私が身代わりになる? ほんな事をして未来君が喜ぶはずがないやないか。あの真面目な性格の彼が自分の代わりに私が死んだやなんて知ったら、どんだけ彼が苦しむんか。
今、私がやるべき事は!!
未だヒザをついて、赤い月に向かって絶望している未来君を見る。彼は壊れたかもしれへん。やったら、私が活を入れんでどうすんや!
「晴樹さん!」
おおきに、の言葉は必要なかった。お互い長年連れ添った間柄なんやから、言葉なんか一言で済む、そういうもんやったやないか、私たちは。
晴樹さんは満足そうに頷きながら、その姿をスゥッ、と薄めて行って、そして、消えた。
「あ・・・・・・」
彼の向こうにあったのは、彼ら神ノ山一族が眠るお墓だった。そうや、ここは晴樹さん達のお墓がある墓地やった。
私の不甲斐なさを見兼ねて、わざわざそれを教えに来てくれたんやなぁ。
「ありがとう、晴樹さん」
私に大事なことを思い出させてくれて。ほんで、私が未来君を好きでいても、ほれを怒らんでくれて。
きっ! と結界の中の未来君を見上げて息を吸い込む。胸を大きく張り、可能な限り肺に空気を送り込んで、想いの丈を、思いっきり。
吐き出す!
「しゃんとせんかーーいっ! あまのみらいーーっ!」
この場にいる私以外の全員が、私の絶叫に、びくっ! と跳ね上がったのが背中から伝わる。ほなけどほんなんどうでもええ、今はただ、彼に活を、愛の鞭を叩きつける!
「私が見とるでーっ! 好きな女の前でほんな恥さらしてどないする、かっこつけんかーーいっ!!」
「過去がなんや! おまはんの名前は『未来』やろ、いつまでもどくれとらんでさっさと立たんか、この臆病者がーーーっ!!」
ほうや、私は何を遠慮しとったんやろ。この時代におるべき人間ちゃうとか思て、どこか誰とも距離を置いた付き合い方をしとったやないか。大好きな未来君に対してさえも。
ほなけんどほんなんおかしいわ。どの時代で生きとっても人と人とは対等なんや。まっすぐに向き合ってしっかりと受け止め合っていく、ほれが正しい付き合い方やないか。
まぶたに熱いものが込み上げてくる。叫ぶたびに私は何かわからん感動が湧き上がって来る。今まで未来君との間にあった『見えない壁』が、叫ぶたびに割れて砕けて行くのを感じていた。嬉しさと悲しさをないまぜにした涙がひとしずく、私の目からぽろっ、と零れた。
さぁ、答えてや!
「立ってーっ! 頑張れーーーっ! 未来くーーーーんっ!!」
その涙の雫は、地面に落ちる直前に、ふっ、と消えた。
◇ ◇ ◇
目に入るのは、赤い月。
何も聞こえない、何も感じない。僕は人形、どこにも『自分』がない、からっぽの置き物。
(なんだろう、何か、何か、大事なことを、しなくちゃ、いけなかった、ような・・・・・・)
でも、体が動かない。手も足も冷え切って、まるで人形のように力を込めることが出来ない。
(ああ、僕はもう、おしまい、なんだな・・・・・・)
大事なものは、もうなにもない。なにもかもが、うそだった。僕の生き方も、真面目さも、父さんや母さん、本田君や渡辺君、友達。あと、なんだったかな、偉い人が集まった集団。
そして、僕が好きだった人。でも、もう、その顔も、名前も、思い出せない・・・・・・
その時、まんまるの赤い月の真ん中に、なにかがきらり、と光った。なんだろう?
それはたちまち大きくなり、真っ直ぐ僕に向かって落ちてくる・・・・・え、水?
どっばあぁっ!
直径1mほどの水玉が僕の頭に直撃し、そのまま全身を滝のようにずぶ濡れにして、僕の周りに水しぶきを上げる。足元の魔法陣に沿ってまるでミルククラウンのように奇麗な円を描く。
かぶった水を全身で感じる。なんだろう、どうしてこの水はこんなにすがすがしいんだろう。自分自身の心を洗い流すかのようなその水、唇あたりに感じる潤いをそっと舐めてみる・・・・・・しょっぱい。
(これ・・・・・・涙?)
『立ってーっ! 頑張れーーーっ!』
えっ、あ!
声が聞こえた。知っている声、でも聞いたことのないような、心からの絶叫。
(登紀、さん・・・・・・?)
『未来くーーーーんっ!!』
彼女の言葉が、叫びが、僕の心に飛び込んできた。
そうだ、登紀さんだ。思い出した、僕が好きな人、好きになった人。その彼女が今、何の遠慮も無しに僕の中に入り込んでくる、その神秘的なイメージも、長い時を生きて来た呪いも全部投げ捨てて、まるで裸の魂のまま、裸の僕の魂に、しがみついて来ている。
『そうだ未来、立てーっ!』
『しっかりしなさい、登紀さん見てるわよー!』
父さん、母さん。ああ、そういや、いたんだ。
『天野、ここ一番気合を入れろ!』
『カッコつけてみろー!』
『ふぁいっとー!』
本田君、渡辺君・・・・・・物静かな宮本さんまで、大声出してくれている。
『頑張れ、若人!』
『動け、立て、進めっ!』
『プロジェクトの天王山が今よ、君の為に動いた人を無駄にしないで!』
会長、社長。そして時遡プロジェクトリーダーの専務・・・・・・
『行け! アマノっ!』
『リカオンなんぞ噛み殺せ! 人間の強さ見せてやれ!』
『お願い、勝って!』
『病を乗り越えろ、君ならできる!』
王さん、ヤボさん、ピーターさん、アバさん、ベルッティさん。かつて僕と一緒に”あの船”にいた仲間たちが、僕に応援を送ってくれている。
『あの壁画を、銅鐸の絵を塗り替えてしまえっ!』
『そうだ、ここから新たな伝承を始めようではないか』
『呪いなど古臭いものに、現代人が屈してどうする! 医学は負ける気はないぞ!』
『さぁ、アドレナリンを沸き立たせたまえ』
『こごがふんばりどごろだよ、さぁ立って』
『Animate!』
『八百万の神とて恐るる事はない、君の中に宿る神を示せ!』
水原さん、大荻さん、橘医師、Dr.リヒター、門田さん、マルガリータさん、白雲さん。
人生の先輩たち、僕の呪いの為に集まってくれた世界中の偉人たちが、僕を奮い立たせようとしてくれている。
『GO、アタック・ボーイ!』
僕にとって、本当に頼りになる人。かつて登紀さんと一緒に僕たちを救ってくれた人、鐘巻さん。
『天野くん・・・・・・登紀さんの為に、頑張ってーっ!!』
いつも、僕と登紀さんの仲を応援してくれていた、三木七海さん。
『聞いた? 聞こえた? みんな君の為に応援しとるで。ほなけん、ほなけん・・・・・・』
聞こえる、聞こえているよ登紀さん。僕の大好きな人の、初めて聞く、その心からの声が。
『頑張れーっ! あまの、みらいーーーっ!』
体が動かない、力が入らない。でも、息だけは出来る。だから、みんなと同じように、声は、出せる。
(すぅぅぅぅ・・・・・)
息を吸う、肺に空気を溜め込む。さぁ、答えよう。みんなの声に、登紀さんの心に!
「うわあぁぁぁぁぁ! おおおおおおおあぁぁぁぁぁーーーっ!!!」
吠えた。とにかく力強さが欲しかったから。みんなにまだ僕が元気だってことを言葉で示したかったから。
「があぁぁぁぁっ!うがあぁぁぁぁぁぁ、けぇらあぁぁぁぁぁーーーっ!」
ああ、そうだ。さっき僕はこれと全く逆の声を上げて哭いたんだった。気力も体力も魂も吐き出すような声で、絶望だけを残して。
だったら、これで取り戻す。どんなにかっこ悪く立って構わない。吠えることで気力を、体力を、魂を。そして・・・・・・希望を取り戻して見せる!
片ヒザをどん、と立てる。体が魂の咆哮に応えて動き出す。力が漲る、息を吐く、気を吐くことにより全身が目を覚ます、アドレナリンが全身を駆け巡る。さぁ、立て、天野未来!
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
右足を伸ばし、左足の裏を地面にそえる、絶望の淵から自分の足で立ち上がる。
その瞬間、僕を背後で操っていた醜い老人は、まるで爆発に吹き飛ばされるように消し飛んだ。
坂の上のおおかみさまを見上げる。そうだ、あそこまで行かなくちゃいけないんだった。大水害を食い止める為にあの神様と交渉して、なんなら水原さん達制作のこの首の身代わりアイテムで出来ないかとお願いするために。
おおかみさまは恐ろし気な犬の姿だった、でも不思議と動物嫌いの自分が怖くはなかった。例え食い殺されるとしても、胸を張ってそれを受け止められるような気がしていた。
坂を登る。一歩、二歩、三歩。もう大丈夫だ、全身に躍動感を感じる。みんなの歓喜の声がさらに僕を後押しする。
そして僕は、ふたりの登紀さんの間を通り過ぎる。ドレスを纏った命の恩人と浴衣を羽織った恋人の間を通過する時、ふたりは少しだけ笑って、そして姿を消す。
おおかみさまとの距離が詰まる。傍らにいるあの生け贄の子供たちが大喜びで飛び跳ねて、こっちこっち、と手招きしている。かつて登紀さんが代わってあげることを約束し、それを引き継いだ僕がもう目の前に来ている事に、歓喜の表情を見せている。
うん、お待たせ。今すぐ行くからね。
さぁ、僕を食うなら食べてみろ!
そして僕は、山頂に辿り着いた。
赤い月を背に、おおかみさまの前に歩み寄る。牛ほどもあるその大きな犬の醜い鼻面の目の前、お互いの息がかかる距離まで迫り、対峙する。
べろり。
その時、そのおおかみさまは、ゆっくりと口を一周、舌なめずりして、こう言葉を発した。
『良き、贄であった』




