ホイール・オブ・フォーチュン 【0と10】
何事もきっかけは予測しづらい。
良くも悪くも契機とは水物なのである。
『ここからスタートですよ』的な明瞭な線引きが有る訳でなく、大概は唐突にして予想外の角度からこちら側に切り込んでくる。問題はそれが何を導くかである。カモがネギを背負って来たのなら幸運だが、残念ながら今回僕の所へやって来たカモが運んで来たのは厄介でしかなかった。
僕と萌黄さんの再戦は、想定外に早く訪れたのである。
※
せっかくの土曜日を泥のように眠って過ごし、続く日曜日もただ茫然と漫然と終えた。気分はすぐれないままではあるが、そこは良識ある社会人である。何とか兜の緒を締め直し、月曜日を好意的に迎い入れ、職場へと臨んだ。
いつものようにぱたぱたと業務に振り回される。変わらない日常にちょっとだけ安堵し、やがて昼食の時刻となった。空腹を抱えつつ社員食堂へ。
向かう道すがら、そういえば先週ここで緋村に出会ったばかりに災難へと巻き込まれたんだよなぁ……やれやれ……と、払うように首を緩く左右へ振る。
破戒天使……うむうむ、言い得て妙だったなぁ……的に思考が弛緩したその刹那、廊下の曲がり角でばったりと鉢合わせてしまったのが、他ならぬ萌黄さんだった。ぬかった、今日はコンビニ弁当にすべきだったのだ……と後悔しても後の祭りである。
工場勤務の彼女はいつぞやのカジュアルな装いとは異なり、灰褐色を基本とした作業着に身を包んでいた。
唐突の再会に身構えたのはお互いさまだったが、状況をいち早く理解、的確に処理し対応することは彼女の方に軍配が上がった。制帽の下から鳩羽色のクリップでまとめたセミロングの髪を揺らしながら、彼女は深々と頭を下げた。
「先日はお疲れさまでした」
釣られて、僕もまた同様の挙動を返す。「はい。お疲れ様でした」
姿勢を戻すタイミングも何故か同じで、先日同様の揺るがない視線に僕は真正面から捉えられた。
改めて綺麗なひとだなと思う。その間隙を突かれ、次の発言の一手もまた彼女からもたらされた。
「いいお店でした。お料理もお酒も美味しかったです」
「幹事のチョイスです」
「その緋村課長と、今は御一緒ではないのですか」
「彼は同期の中で一番の出世頭なので、何かと多忙みたいです」
「その割には甲斐甲斐しく幹事役などを引き受けられているのは、一体全体何故なのでしょう?」
よどみなく流れる社交辞令。僕は舌を巻くしかない。彼女はしらふであっても手練れだった。
「出る杭は打たれるので味方を増やしておきたいと。そのようにいつか言っていましたよ」と、答えてはみたけれど、やはりいい様に押されている。静かに戦々恐々とする僕に気付いているのかどうかは知らないが、萌黄さんはこくりと頷いてみせた。
「お二人の関係も良好なのですね」
これが文字媒体ならば『にっこりと微笑んだ』的な描写が続きそうな会話のやり取りではあったのだが、しかし、目の前の彼女は無表情に徹しているのである。
はてさて、このヒトと仲良くするにはどうしたらいいのだろう……緋村ならば『立ち話しもアレですので、よろしければご一緒にランチしませんか』的に自然に流暢に女性を誘うのであろうが、僕には出来ない芸当である。会話の手詰まりと合わさり、変な緊張感だけが存在を増し続ける。生唾を呑む。何度目だ? でも言葉は出ない。変な汗を両の掌で握り締めていたその時、萌黄さんが口を開いた。
「偶然とはいえ、お逢い出来て幸いでした。先日の誤解を解いておきたくて」
「は?」
予想外の台詞に顎が脱力、ぽかんと口が開いてしまう……僕が貴女の何かを誤解していると?
そういえば村上陽子が『誤解は解ける』と言っていたが……先日のあの件は僕に非があると?
それでも彼女は続けた。事態は予想外の方へと舵を切る。
「差し支えなければお昼ごはん、御一緒しませんか?」
「はぁぁぁ?」
そこそこ大きな声で、僕は疑問符を嘔吐した。
僕の全身へバシバシと鋲のようにピリオドを撃っておきながら、そんな青息吐息の男と一緒に貴女はめしを食おうというのか?
文字通りに僕の口はしばらく開いたままとなったが、萌黄さんはただただ静かに読めない表情のまま、こちらからの返答をじっと待っていた。
※
断る理由が見つからなかったので、破戒天使と昼食を供にすることとなった。目立ちたくない僕は、願わくは四隅辺りの人目を避けた席がいいけれど……と思案するも、トレイを持って先導する萌黄さんはするすると人の列を交わし、食堂中央のテーブルへと腰を降ろした。渋々それに従う。横に座る訳にもいかず、僕は長テーブルをぐるりと迂回、彼女の対面に座った。開発部やら総務やらの見知った顔がちらほらとうかがえ、遠慮のない視線が四方八方から注がれている。その中に人事の紺野さんの顔もあった。緋村に知れてしまうのも時間の問題である。面倒である。あとで何を言われたり聞かれたりするのやら。
僕がそんな複雑な思いと共に自分のトレイを卓上へと置いたのと同時、萌黄さんは「いただきます」と手を合わせた。次に水平に構えた割り箸を上と下とに剥がしてから、僕の方を見るでもなく口を開いた。
「宮田主任、ひとつおうかがいしてもよろしいですか?」
「……なんでしょう?」
「ワンコインぴったりで収まるBランチか、プラスアルファが必要なAランチか、という二択において、さきほど主任はAランチを選ばれました。その根拠をお聞かせ頂けますか」
そしてぱくぱくと食事を進める彼女。まともに味わっているのか疑わしいほどの早食いである。見る見るおかずが減ってゆく。呆然とそれを眺めていると、ちらりと覗いた彼女の視線と交差した。僕は慌てて遮るようにお冷のグラスを手に取る。質問を反芻。
答えは明白で、Bランチの小鉢の煮物に苦手なニンジンが入っていたからなのであるが、それを正直に答えるのも何やらバツが悪い。そこで無難に「食べたいおかずがある方で選びました。チキンの照り焼きが美味しそうだったので」と答えた。嘘は言っていない。
すると萌黄さんもお冷を一口含み、そしてうなづいた。
「なるほど。ちなみにわたしはお財布の中身で決めます。残金ではなくて重量です。お札を崩さなければならない場合はワンコインの方を選びます」
「合理的ですね」
「いえ」と、萌黄さん。「偏屈なだけです」
「筋は通っていると思いますよ」
「ご理解を感謝します。では主任、わたしがたかだか硬貨が何枚か増えるのをなぜ嫌がるのか、どのように推察されますか?」
「小銭が増えることによって、お財布もしくはポーチの形が崩れるのを避けたい、とか?」
「他には?」
「萌黄さんは小銭がきらい」
「なぜ?」
「指先に硬貨特有のにおいがつくのを避けたいのでは?」
「他には?」
「そうですねぇ……」と、頭の中の引き出しを大車輪で開けまくる。『金属アレルギー』と『潔癖症』をすくい揚げることが出来たが、もしそうだった場合どちらも彼女の極めて私的な部分である。安易に口にするにははばかられる。この二点は破棄、次の候補は……えーと……的に僕は脳内であたふたと戸惑うばかりで、彼女はそこをしっかりと指摘して来た。
「お箸が止まっていますよ、宮田さん。食べましょう」
「あ、はい」
僕がお茶碗を持ち上げるのと同時、萌黄さんは「ごちそうさまでした」と、箸を置いた。次に彼女は首から下げていたパスケースを持ち上げ、自らの顔の前に掲げて見せる。
「だからね宮田さん、ものごとにはすべからず各々の理由がある、という事です。そして理由には必ず背景があり、その由来が只ならぬ事であるのならば、関係者はみな腹をくくらねばなりません。ランチならば思いつきの流動的な選択でも構いませんが、事が重大な場合、そうそう呑気ではいられません。でも、あなたが……」
と、パスケースの角で萌黄さんは僕を指した。
「……宮田主任が抱えている背景は尋常ではありません。しかし、どうやら真実に背を向けていらっしゃるようなので、あえてこのような話題の流れとさせていただきました。社員証のQRコードを読ませれば給料から天引きされるのは百も承知、宮田主任のために、御理解いただけるように、わかりやすい状況を構築させて頂いた次第です」
いや、まったくわかりにくいのですけど……の言葉をなんとか飲み込むしかなかった。
「状況……ですか……すいません、僕は何を誤解しているのでしょう?」
相変わらずの読めない表情のままで、萌黄さんは続けた。
「役割りですよ、宮田主任。わたしにも意味が有ってあなたと関わっている。面食らって動揺されているのは当然ですけど、あなたも冒頭でおっしゃっられていたじゃないですか。契機とは水物なのです」
「……え……」
「金属アレルギーも潔癖症も、申し訳ありませんけれどお門違いです」
もちろん、僕の思考は急ブレーキを踏んだ。
……冒頭って……
……何を言っている?…… どういう立ち位置からものを言っているのだ?……
……それは、読者の視点じゃないか……
偶然じゃない。『冒頭』なんて、気まぐれで出て来る単語ではない。緋村もこれに近い芸当を見せてくれたが、効果としてはあの比ではない。
記憶を読まれている?
「違います」
萌黄さんは即座に否定してくれた。違わない。リアルタイムでも読まれている。つまり、これも読まれていると?
すると萌黄さんはその首をふるふると左右に振った。どこか哀しげ眼で言う。「少し違いますね」
僕は素直に怯むしかなかった。上半身が避けるように後へ反る。
「……もっと……噛み砕いた説明を……お願いできますか、萌黄班長」
「もちろん」と、彼女は素早く答えてくれた。
「すべてはあなたの無配慮で不躾で無様な、あのビジネストークが招いた結果です。この、見渡す限りすべての不始末の責任は宮田主任、あなたにあります」
※
音を立てずに世界は崩れてゆく。そっと静かに、せせらぎのように穏やかに、優しく少しづつひび割れて、欠けて、現状を見失い壊れていく。僕ははじめてそれを知った。
「願わくば滞りなく自然に気付いてほしかったのですけどね、宮田主任……あなたの過ちはすでに第一章から始まっています。あなたはチュートリアル子に言われた事を軽視してしまった。聞き流してしまった。あれは警告だったのです。あのゲートを通って来たという事実に、もっと重きを置くべきだった」
この女性は何を言われているのだろう……否定も拒絶も簡単に行えるのだが、それでもセカイはギスギスと揺らぎ出していた。
ありふれた日常が、非日常へと変質してゆく様。僕はそれをまるで止められないでいた。
……チュートリアル子って……夢の中の話なのに……あれも違っていたのか?……
「はい。違っていました」
もはや当然のように、萌黄さんは僕の頭の中での問い掛けに答えてくれた。徐々に無力化されてゆく違和感。口の中は乾いていて、コップの水を僕は一息に飲み干した。あらためて、チュートリアル子の事を想い出す。
……まさか……
僕はあのゲートを本当にくぐって来たのか……いや、そんな馬鹿な事が有るはずは…………
萌黄さんはそれをコトバで否定するでも肯定するでもなく、僕からそっと視線を外し、窓の向こうを見やった。青々とした中庭の緑が、ただまぶしかった。抜けてゆく風に、梢が笑うように揺れていた。
「わたしたちは皆、仕事とはいえあんなものを創り直させられているのに、誰も不思議に感じていない。それは何故か? 異世界だからです。そういうセカイなんですよ、ここ。そういうことです」
……異世界とか……言われても……
「まともではないでしょ、ここ。色んな部分がふざけている。わたしたちはなぜ苗字だけという略式の記号を与えられているだけなのか? 不思議ではないですか?……思わないですよね、そういう仕様なので。それがココでは当たり前なのですから」
……いや、でも……
僕は即座に異議を申し立てる。これは違う。彼女は違うじゃないか。
「そう、あなたのお友達のあの方だけは違う。どうして彼女のみフルネームが許されているのか……と、これもまた作者がチマチマと張っている伏線のひとつなのですけれど、わたしには丸見えなのですね、申し訳ないですが」
……この人の視点は、一体どこを向いているのだろうか……
体感できている支離滅裂。まさしく袋小路の只中に立ち尽くす僕へ、萌黄さんはちょっとだけ口角を緩めてみせた。
「さぁ、ここからです。運命の輪はこの項を起点として精力的に廻り始めます。何故か? 保持者として、拡げられたフロシキを畳む能力がわたしには備わっているからです」
僕はひとつ息を呑んで、そして久し振りに言葉として疑問を口にした。
「三日前に……僕に電話をしてきたのは萌黄さんですか?」
彼女は素直にうなづく。
「ごめんなさいね、まだ面識が成立していなかったから、【P】などという怪しげな仮称を名乗るしかなかったので」
……面識のない僕の電話番号をなぜ知っているのか……などというのも、もはや確認するまでもなく愚問である。このヒトの視点も含め、何もかもがでたらめである。
「橙乃木さんには貴女を仲間にしてくれと頼まれたのですが……」
すると萌黄さんは「いいですよ。入りますよ、【袋小路】に」と、まるで抑揚なく答えてくれた。癇に障る。そんな些末はどうでもいいと滲ませた厚顔さが、僕にはもう、ただただ不快でしかなかったのである。
「いえ、橙乃木さんには僕の方から断っておきます。あなたとは友達になれそうにない」
「あら、残念」と、さして残念そうでもなく萌黄さんは答え、さらにどうでもいい風に続けた。
「でも……そうですねぇ……」
「……何がです?」
「……宮田主任はお友達を大事になされた方がいいと思います。村上陽子さんとは最終話でながいお別れになりますから」
この時、僕は萌黄さんの瞳だけを見ていた。真っ直ぐに。
その眼は何も語っていなかった。ただ、真実だけを告げている……とでも宣言しているように。
…………。
……お別れって……何だ? どういう意味なのだ? このヒトは何を言っている?……
うずまく疑問とまるで消せない焦燥、撹拌され濁りに濁った思考のままに、僕は素直な疑問を口にしていた。
「……あなたは……いったい何者なんですか」
すると彼女は即答を避け、故意に一拍を置いてみせた。押されるままに息を呑む僕。
食堂に人は多い。それなのに喧騒は不自然なほどに鳴りを潜めていて、萌黄さんの澄んだ声音だけ が、そっと流れる。
「……わたしはただの無法者、もしくは心なき傍観者という殻をかぶった暴く者。つまりわたしは…………」
眉の一筋すらも動かさず、彼女はあっさりと答えた。
「 ネタバレ士 」
【ツヅキ〼】