デス 【0と13】
その異名を携えて、萌黄さんは本社工場勤務と相なった。
破戒天使。
もちろん彼女は人外ではない。れっきとしたヒトで、その背中に羽根が有る訳でもなければ、光の輪を頭頂に掲げていたりすることもない。それでも彼女が天使と称されるのは在籍していた支社工場の工程管理にて、辣腕を振るったからに他ならない。絶妙かつ斬新な提案の数々によって生産ラインを大胆に刷新、作業性の向上は当然とし、より一層の安全の担保と何よりも劣悪な労働環境改善に一石を投じ、現場の作業者たちから絶大なる信頼をかち得た……らしい。時代錯誤な規定路線の破棄、つまりは旧態依然の破壊と脱却、からの新生。現場から破戒天使と称されるのも、むべなるかな。
そんな彼女を、僕はそっと眺めていた。男女半々の十数名での酒席にてちょうどテーブルの端と端、対角線上に座していたからである。
舞台は彼女のために用意された歓迎会で、格式の高そうな割烹料亭……などではなく、幹事御用達のありふれた大衆居酒屋の支店、そのお座敷の一角だった。気負うことなく、親睦を深める事にのみ集中してほしい、という意図らしい。執り行っているのは製品開発部・第一製品課の緋村課長で、彼の音頭取りにより職場の垣根を越えて実に多種多様な顔ぶれが揃っていた。共通しているのは、各部署の次期主戦級の候補たちだという事か。布陣としてはなかなかに強烈で、先を見据えた緋村の懐刀たちである。
ただし僕は唯一の例外で、この場にいるのは将来有望性だからでも何でもなく、単に緋村の姦計によってである。不愉快さを何とか押さえ込んでの参加ではあったが、しかし決断したのは自分自身であったし、与えられた役目は出来うる限り果たす。その所存である。
話を主役である萌黄さんに戻す。
見た目の第一印象はとてもいい。慎ましく凛とした佇まいが画になっていて、鳩羽色のブラウスもしっとりと馴染み、とても落ち着いて見える。一方、肩まで伸びたアッシュブラウンの頭髪は緩いウェーブで上品に艶っぽく、周囲の空気を甘くしているかのようだった。基本は丁寧なまでに控えめなのだが、ついつい目を引いてしまう女性。なるほど。納得の天使ぶりである。破戒はどうかと思うが。
所感としては以上である。好印象を並べてはみたものの、所詮はここまで。そもそもまるで接点の無いヒトで、あくまでも頭数合わせ要員でしかない僕は、立ち位置としては枯れ木も山の賑わいのそれである。前面に出しゃばる事を避け、存在を主張しないままただひたすらに傍観を堅持、見を貫きつつそっと飲み食いを続けるしかない。果たして出番が訪れるや否や、それは神のみぞ知るである。
かくして僕が視界から彼女を外したのと同じくして、幹事の声賭けで乾杯となった。ビールで満たされたグラスを掲げながら、【袋小路】の仲間である橙乃木さんの案件が脳裏をよぎりはしたけれど、当面の様子見はやむなし、対応は流動的に判断していくしかあるまい。開始当初はそのように身構えていたのである。
ところが、事態は序盤から雲行きの怪しさを堂々と示した。
宴はそのまま自己紹介へと移行していったが、時間の経過と共に浮き彫りにされるものがあった。破戒天使の特異性である。注釈を付けねばならぬほどに、とにかく可愛げが無い。その鉄仮面はかなり強固なようで、酌をされようが話を振られようが、まったくこれでもかと表情が崩れないのである。
「ええ……」(おそらく肯定)
「はい……」(たぶん肯定)
「……さぁ?」(まちがいなく否定)
「そうですね……」(真意不明)
……と、徹底して取り付く島がない。緋村はなんとか彼女から関心を引き出そうと、あれやこれやと奮戦していたがとうとうサジを投げた。あげく「次は生産管理準備室の宮田くんから、異世界転生についての話題をいただきましょう」などという、まるで必然性を感じない丸投げを寄越す始末。当然、僕は当惑する。
「無茶を言うなって」
つまんでいた焼き鳥の串をワイパーのように振り、僕はそのパスを回避しようとしたのだが、揺れるぼんじりの向こうで萌黄さんの片方の柳眉が『ぴくり』と吊り上がるのが見て取れた。そして瞳が逢う。
「生管……なのですか?」
「あ、はい……自己紹介でも述べましたけど……準備室の方です……」
すると彼女は真顔でこくりと頷いた。「芋焼酎のラインナップに神経を全振りしていて、まったく聞いていませんでした」
さりげない衝撃の告白に、僕はオウム返しをするしかなかった。「まったく?」
「ええ」と、さらに肯定を強調する彼女。「興味がなかったので、まったく。“焼き芋焼酎”なる初見のパワーワードに、平常心を保てなくなるほど圧倒されていましたので」
……いや、それをはっきりと断言する貴女も大概ですけど……など、焼き芋焼酎にすら勝てなかった事実に動揺を隠せない僕ではあったのだが、もちろんこれも彼女には黙殺された。
「肩書きをお持ちで?」
「……僭越ながら主任です……まぁ、緋村くんには補佐心得相当とか言われてますケド……それも、あの、自己紹介で……」
「いくつか質問をさせて戴いても構いませんか、宮田主任」
刹那、場を支配していた空気が小さくどよめいた。投擲される質問をただ右へ左へと受け流していただけの萌黄さんが、初めて自ら進んで好奇心を覗かせたのである。予想外のところに存在した彼女の琴線、それに居合わせた全員が固唾を呑んだ。
そこだ、宮田。そこから破戒天使の素顔をひきずり出せ。頼んだぞ、宮田。
声無き声が僕の背を押す。ただ悲しいかな、僕は女性の扱いが苦手なのである。気の利いた返しなどが出来るはずがない。でもこの場から逃げ出すことは出来ない。受けて立つしかない。
僕はゆっくりと首を縦に振った。震える声で。「……えぇえ、なんなりと……」
「まずは棚卸しについてです」と、破戒天使は無言の圧を込めた眼で僕を見返してきたが、ふと、その視線が僕の手許へと下がった。
「お手持ちのグラスが空いているようですけど、何か頼みましょうか?」
「あ……ではビールを」
すると萌黄さんが右手を挙手、気付いた背後の店員がそそくさと近づいて来たのだけれども、その間も彼女の視線はずっと僕に注がれていた。
初対面の女性の関心を引いている。僕の半生から省みれば僥倖ともいうべき稀少な現象であったのだが、しかし居心地はとても悪く、どちらかと言えば針のむしろに近かった。
※
「宮田主任のやり方は承服いたしかねます」
結論からすると萌黄さんはとても辛辣であった。発言には躊躇がなく、そして容赦もなかった。
「つまりは在庫確認を現場の作業従事者に一任すると。そういう事ですね?」
「……はい……製造部の方へお願いしていますけど……」
おずおずと僕が頷くと、萌黄さんは小首を浅く傾げた。彼女の白魚のような手の中には、空になったタンブラーが握られている。たしか七杯目だか八杯目だかの芋焼酎のロックなのだが、それでもその頬に紅潮の兆しは未だ訪れず、僕は変らず焦がすように凝視されたままだった。
「論外であり暴挙です。主任は空調の効いたオフィスでパソコンの相手をしているだけじゃないですか。反して工場建屋内は気候の移り変わりにとても従順で、夏は暑く冬は寒いです。スポットクーラーなど気休めにもなりません。あなたの想像以上に工場内は過酷なのです。にもかかわらず、通常業務ではない雑用を現場の作業者に指示すると。その怠慢はいかがなものかと危惧いたしますが?」
「いえ、あの、雑用ではなくて、棚卸しもまた通常業務の一つなのですけど……」
「ならばご自身でなさればよろしいのでは?」
「いや、他の仕事もありますし」
「現場の各作業従事者もそうですが? 彼らが暇を持て余しているとでも?」
「そんな訳はないですよ。わかっています……わかっていますけど……」
「でしたら、ご自分で現場に脚を運ばれて、ご自身の目で確認なさるのがよろしいかと。その上でデータとの齟齬が無いか、精査されれば良いのでは? いかがです?」
応酬はまるで序の口、小手調べの段階ぐらいであるはずなのに、もう僕は詰まされてしまっていた。グラスをあおり、半分ほど残っていたビールを流し込む。空になったグラスへ手酌で注ごうとしたが、持ち上げた瓶ビールもまた、すでに空いていたものであった。
「瓶ビール追加で」
萌黄さんの声。見やれば彼女が再び挙手し、通りかかった店員へと注文をしてくれていた。気が利いているのは結構なことだが、ならばもう少し優しく接してくれよと。「うーん」と頭をひねりはするが、脳内はほぼ真っ白の状態である。同じく白い旗を揚げて、早々に降参したい気分ではあったのだが、他ならぬ彼女が許してくれそうにない。猛追はなお続く。
「現場がいかに危険と隣り合わせなのか、主任は的確に理解しておいでなのでしょうか。工場建屋内はフォークリフトが常に作業者の横を往来しています。歩車分離(※歩行者と車両の通行帯を独立して整備し、隔てること)など、色々ごもっともな事をホワイトカラーの方はよく口にされますけれど、片腹が痛いほどの戯言です。各工程の現場をご覧になられたこと有ります?」
「もちろんです。でも、あの……」
「限られた工場施設内において人道と車道が交差しないなど、まるでまったく一ミリも有り得ません。非現実的なのは一目瞭然です。あなたたちが申し立てているのはただの綺麗ごとです。環境は劣悪です。それなのに日々を最前線で凌いでいる彼らをねぎらうでもなく、別件の雑務を押し付けると?」
「だから雑務ではなくてですね……」
「そうですね、雑務ではありませんね。ならば、これは管理する立場の貴方が率先して取り組むべき仕事なのでは? 宮田主任が自ら現場で最終の確認を行うべきなのではないのでしょうか?」
「そうかもしれませんけれど、でも、あの、丸投げという訳ではなくてですね……」
「いいえ、丸投げです。その言い草ではただの横柄が浮き彫りになっているだけです。なぜです?」
「なぜと言われても……このやり方が慣例ですし……」
「ならば変えてみてはいかがでしょう。いやですか。なぜ?」
「だから、なぜと言われても……」
すると彼女は、もたげていたタンブラーを『コンッ』と音を立ててコースターの上へと戻した。
「変化点に対し、やたらと及び腰が目に付きますね、宮田主任。なぜ? その顕著な消極性は何が由来なのでしょうか? 過去に何かありましたか?」
僕は答えに窮すのみ。それでも彼女の追及が止まる事はなかった。
「異世界転生などという耳障りのよろしくない単語が、脈絡もなく唐突に出てきたとは思えません。宮田主任に何かの由緒が有るという事ですね? あなたの過去に果たして何があったのでしょうか。何かがあったから、異世界転生なんぞに傾倒しているのではないのですか。ここではないどこかに何を求めているのです? それはあなたを前向きに救ってくれましたか?」
タンブラーの中で氷のキューブがカラリと回る。場は停滞。誰かの小さな舌打ちだけが、冗談のように響いた。ちらりと窺えば緋村の顔が硬直していた。瞳に薄い怒りの色が滲んでいる。矛先が彼女に向いているのは明白、修羅場は御免こうむる。とにかく喋るしかない。策も芸もないまま、浮かんだ言葉を並べ立てた。
「過去に重大な過失は無かったように思います、としか答えられません。ただ、異世界転生に救われようとは考えていません。そこに逃げ込んではいますが、正しい判断だとは思わないからです」
彼女の返しは依然そのままだった。「なぜ?」
「袋小路だからです。そもそも最初から逃げ場はありません。現実と非現実はどんなに親和性が高くとも水と油、境目なく攪拌することは、ヒトの身では成しえないかと」
「その行き止まりに軸足を置いてはいませんか? 居心地がよく、ついつい長居しがちなのでは? そういう風に夢見がちだから、現状の変化を望まない。リアルを軽視してしまう。なあなあでいい。腰掛けでいい。あわよくば補佐心得程度でいい。血は温かいものだとまだ理解出来ない? もう少し真摯に誠実に現実に向き合うべきだと御進言申し上げます」
そこへ割って入ったのは緋村だった。「萌黄さん、それは言葉が過ぎる」と、やや語尾を強めた。しかし、彼女は課長の方を見向きもしない。刺すような視線をそのまま僕に向けたままだった。
「御本人のために、あえて嫌ごとを並べています。宮田主任、さきほどヒトの身うんぬんとおっしゃられましたか。同意します。現実と非現実の分水嶺、それは確かに有ります。ならばリアルに寄るべきかと。現実に、ここに、あなたの居場所を確保する。その上でなら、あなたの依頼に応えます。その節はどうぞ私をご指名ください。謹んでお受けいたします」
すると萌黄さんの隣に座っていた女性、人事課の紺野さんがいきなり腰を上げ、「ちょっとお化粧なおして来ますね。萌黄さん、付き合って」と、やや強引に彼女の腕をつかんで共に中座して行った。
ややもして、幹事役がはっきりとしたため息を洩らす。「……すまなかったな、宮田」
「いや、上手な切り返しの出来ない僕がよろしくないだけだよ。気にしないでください、緋村課長」
僕は浅く頭を下げたのだが、本人は「そうじゃなくて」と、少しだけ渋い表情を刻んだ横顔を見せた。
「この席に招いた事をさ」
※
ほどなくして戻って来た萌黄さんは以降とくに喋るでもなく、ひたすらに芋焼酎のロックを流し込んでいた。その視野に入らないよう、僕は肩をすくめて黙々と焼き鳥を食べた。
気まずいままに宴はお開きとなり、三々五々に夜の街、もしくは家路へ。緋村から二軒目を誘われはしたが今度は丁寧に辞退、花の金曜日の夜もそっちのけで、僕は一目散に住処へと帰還した。
安普請のアパートにてひと息つくと、それを待っていたようにスマートフォンが着信に震えた。
『どうだった? 盛り上がった?』
村上陽子である。連絡を寄越すのが驚くほどに適時すぎて、逆に笑えた。
「とっても有意義でしたよ。参加して良かったです。はい」
『嘘くさっ』と、電話の向こうで村上も笑っていた。
「あやうくタマシイを刈り取られるところだったよ」と更に話を盛ってみれば、『何それ? 天使が死神の大鎌を振るったわけ?』と、上々の喰い付きを示してくれた。
そこでざっくりと事情を説明、彼女は妙に感心したようで、『ふーん、あの緋村センセイを手こずらせるとはねぇ……』と、珍しくも歯切れの悪い返事だった。「どうかした?」と問うものの沈黙が続くだけだったので、会話を小綺麗にまとめる方向へと進めた。
「破戒天使は一筋縄ではいきませんっていうのを、身をもって証明してみせたので緋村も納得してくれたと思うよ。捨て駒としての役目は果たせたかと」
『……それはお疲れ様でした』
「あ、紺野さんに帰り際こっそりお礼を言ったら、『村上が言っていた通りのヒトですね』ってにっこり微笑み返されたのだけれども、え? なんなの?」
『コンコンとは初めて話したんじゃない? なかなかのビジーンだったでしょ。このあともう一軒どうですかとか、誘えば良かったのに』
「質問に答えてくれ」
『ま、コンコンをエスコートする宮田くんっていうのも、脇腹がよじれるほどの爆笑を禁じえないくらいに想像できないけどね』
……だったら言うなよ……の苦虫を噛み潰していると、『さすがに今週末はラーメンの無心を控えてあげるから、土日はゆっくり身体を休めて、来週も引き続き馬車馬のごとく勤労に励んでね。あ、ちなみに萌黄さんの宮田くんへの誤解は週明け早々に解けるから。心配しないで。おやすみ』と結構な早口で伝えられ、そのまま切られた。相変わらず僕の扱いが雑である。押し黙ってしまったスマートフォンを食卓の上に安置、僕は嘆息と共に天井を眺めた。
……誤解は解ける……か……
村上の言葉をぼんやりと思い返し、何度かゆっくりと反芻を試みる。けれども、結局それはぐずぐずに崩れ、あっさりと溶けて無くなってしまった。
……いや、無理ですよね?
……と、何よりも強く思ったりしたのだが、事態は予想外の展開を迎えた。明けて翌週、月曜日の事である。
【 P 】こと“ パンドーラ ”は、とても受け入れられないゲンジツを無慈悲に突きつけてくれたのである。
【ツヅキ〼】