テンパランス 【0と14】
「宮田ニャーン!」
通勤の朝、人々の列にまぎれてとぼとぼ歩く僕の背中へ、その黄色い声は容赦なく届けられた。立ち止まる。
思い当たる声の主は一人しかいなくて確認するまでもないのだが、とはいえ振り返らない訳にもいかない。
ポニーテイルの穂先をぷらんぷらんさせながら小走りで駆け寄って来たのは、案の定として製造部製品課の橙乃木さんだった。【袋小路】の仲間で、結成当初から尽力してくれている古参のひとりである。
「おっはよー……あれあれ? 顔色わるいよ? 爽やかな始まりの朝にそれはなくない?」
「おはようございます。ご心配なく、いつもの事だから」
大層な言われ方に呆れる僕へ、橙乃木さんは「えへへへへ」と無邪気な笑顔で返してくれた。並んで歩き出す。すると、上半身を傾けて彼女は僕の顔を覗き込んだ。
「でも、ご尊顔にまるで赤味が無いね。宮田ニャン、爬虫類になっちゃった?」
「いや、哺乳類を辞めたつもりはないから」
「鉄分っぽい何かが足りないんじゃね?」
「大丈夫です」
すると彼女は「ん〜」と、唇を尖らせた。
「宮田ニャンはさ、ヘビとかトカゲとかって朝の挨拶はどうしているって思う? わたし的には『いやぁ、今朝方の冷え込みは体温といい勝負でしたね』とかだと思うんだけど」
「朝の挨拶をしないと思う」
「そうかなぁ、するんじゃね? あの割れた舌でチョロチョロ〜みたいな」と言って、橙乃木さんは自らの小さな舌先をピコピコと動かして見せた。そんな感じで中身が空っぽな応酬を続けていると、不意に彼女が「あっ」と小さく叫ぶ。
「つーかさ、なんでヌラカミサンは一緒じゃないの?」
「……村上とは職場で顔を合わせるから。行き帰りは別々」と、そつなく答える。そういえば昨日は食堂で緋村課長に同様の質問を受けたような……その先に彼の罠が待っていた。連日で同じ轍を踏む訳にはいくまい。何故か変な警戒感に揺れている自分に気付き、薄く失笑。破戒天使にどれだけ気を揉まされているのやら。
そこである事が閃いてしまい、僕は橙乃木さんにその話を振ってみた。
「ところで橙乃木さんの製造ラインって右腕だっけ?」
「そうそう。わたしの持ち場は肘だけど」
「新しく赴任した班長もそこ?」
「そうそう。萌黄さんね」
緋村が教えてくれなかった破戒天使の名を、歓迎会の部外者の口から僕はようやく知る事が出来た。酷い話である。興味本位のまま、もう少し聞いてみる。「橙乃木さんから見て、どんなヒト?」
すると、彼女は何やら悪そうな顔をするのである。
「宮田ニャン、ウチの班長にまで食指を伸ばさなくてもさ、仲のいい婦女子が周りにいっぱい居るやん。ハーレムやん。異世界転生のガチ特典やん。もう充分なんじゃね? いい大人なんだから、やんちゃはダメよ」
予期せぬ方向からの追撃に、僕は戸惑うしかなかった。
「ぜんぜんハーレムじゃないよ。まったくモテないし」
「そりゃ宮田ニャンの努力不足でしょ? つーか、モテようって気が無いやん。え? 有ったん?」
「ぬぅぅ……」
僕は返答に詰まる。ご指摘通りだからである。特段にモテようとは思わない。しかしモテて困る訳ではない。でもモテない。正鵠を射ぬかれて、僕は青息吐息である。散々である。それでも橙乃木さんの悪魔的な詮索は続いてゆく。
「んー、あれ? でも萌黄班長には興味あるんだ? ふむふむ、あーゆーヒトが趣味だったのねぇ、確かにビジーンだし」
「いやいや、待って待って、待ってください話を聞いてください待って待って、まだ会ったことのないヒトなんですよ待って待って!」
早口で異議を申し立て、何とか事情を説明した。「あ、カンゲー会ね、ナルホドナルホド」と、橙乃木さんは一応納得をしたような表情となった。
しかしそれは束の間で、「あー、うーん……そうねぇ……うーん……」と、なぜかためらう素振りを示すのである。いやいや、またぞろ嫌な予感しかしないのだが? 破戒天使がらみの事柄は、どうしてこう不協和音めいてしまいがちなのか? 呪われているのは僕なのか当該の女性なのか……暗雲が垂れ込める僕の内心を知るよしもなく、橙乃木さんは結構いやな答えを返してきた。
「たぶん……なんだけど、宮田ニャンとは噛み合わない気がする」
期待をしていた訳ではないけれど、それはそれで堪える答えである。さらに目の前が暗くなってしまうかもしれないが、しかし確認はしなければ。
「えっと……その、どういう部分が?」
「ウチの班長、多感でさ、糸コンニャクは好きだけどコンニャクは食べられないらしいよ」
「……いや、あの、僕もそれなりに神経質なんだけど?」
「わかる」と橙乃木さんは一旦うなづいてから「でも、一方で宮田ニャンって病的に雑よね」と、返す刀で斬って捨ててくれた。僕は虫の息の一歩手前である。
「ええ……まぁ、いい加減なところがあるのは認めますが……」
「ガラスのハートなんよ、萌黄班長。RPGの中ボス並に繊細なの」
「……中ボスなら図太いんじゃない?」
「ある程度はモノガタリが進まないと出てこないやん、中ボスって。臆病だからだよ」
「狡猾だからでは? そもそもストーリーの都合でしょ?」
首をひねる僕へ、橙乃木さんもまた異を唱えた。
「思い通りになんてならない事の方が大半だよね。で、その既定路線の都合がヒトの首根っこを押さえつける訳やん。わかる? 誰かに嫌われるのは我慢できるし、誤解されるのも辛抱できる。でも、どう説明しても理解してもらえなくて、代わりに不本意な情けを掛けられてしまう、それが許せない。堪えられないのよ。だったら敵対している方がまだ自分自身を保てるよね」
「……なんか難しいね……」
僕はそうポツリと漏らすのが精いっぱいだった。
破戒天使と僕は噛み合わない。どうやら間違いないようである。
しかし、破戒天使は弱々しくない。むしろ逆だろう。切り口の見方によって、まったく異なる彩りの断面になってしまうホールケーキとでも言うか……どうにも僕にはナイフを挿れられそうにない。
なのだが、橙乃木さんはそこで立ち止まってしまった。瞳の奥を覗かれるみたいに、僕は彼女から見詰められた。
「そうじゃない。難しくないよ。至ってシンプルに苦悩しているヒト。それだけなんだけどね。決して協調性に欠けるヒトではないのよ」
言われて僕はまた黙ってしまう。行き交う人々の群れの中で僕と彼女のにらめっこは数秒続いた。
「……宮田ニャン、萌黄さんを【袋小路】に誘ってあげてくれない?」
無言の縛にからめ取られる僕。固まる頬。萎縮する舌。変に粗くなる呼吸。意識は明瞭で発言の必要性をひしひしと感じているのに、言葉だけが無力化されている。
その圧を打ち解くのに僕は何十秒を要したのだろうか。ようやくにして、煮詰まった思いを何とか吐き出せた。
「……君が言ったんだよ、噛み合わないって」
「うん、そう」と、橙乃木さんは素直にうなづく。
「無理を言っているのはわかるよ。でも、これはわたしには出来ない事なので、宮田ニャンにお願いするしかないのよ。ごめん」
僕の口は再び閉じる。重くのしかかる迷いに、脳裏へ浮かぶ言葉たちは片っ端から枯れて褪せて果てて行く。
違和感を口の中に詰め込まれたみたいなざま。強いられる無言に、呆然と立ち尽くしていた次の瞬間だった。
スラックスのポケット内で、スマートフォンが震え始めた。
鳴り響く着信音の中でそっと取り出してみれば、画面には『非通知』の文字。横を見やれば、無表情の橙乃木さんの唇が有って、『先に行くね』という形に動いた。僕はスマートフォンを耳にあてる。
「……もしもし……」
『 その女、トウノギは【甘き呪縛】の保持者。彼女の頼み事は断れない 』
と、知らない女性の声がして、まるで飲み込めない事を言うのである。
「もしもし、あの……」
戸惑う僕を遮って、女の声は続く。
『 厄介なのは彼女に自覚がないという事。制御されていない力のせいで悪目立ちしてしまい、周囲から浮いた挙げ句に結果として【袋小路】に流れてついた。その背景をまるで理解できていないのは、貴方の落ち度だという事。よろしいか? 』
「ちょっと待ってください! いや、その、貴女は誰なんです?」
謎の女が主張することの半分も僕には理解できなかった。ユニークスキル? ホルダー? どうして安っぽい異世界転生みたいになっているのだ?
しかし、声の主はやはり僕の問い掛けには答えてくれなくて、更におかしな事を上乗せしてくれた。
『 彼女は絶句使い。でも、どうか受け入れてあげてほしい。これはあなたにしか頼めないことだから 』
なんと、破戒天使の事をよろしく頼んできた橙乃木さんの事をよろしく頼むのである。頼まれ事のマトリョーシカか?
「言われなくても受け入れています。ナントカ使いとか関係ない。彼女は仲間です!」
ちょっとだけ間を置いてから、謎の女はスマートフォンの向こうから『……そう……』と、小声で答えた。
『 ……私は【 P 】。いつか逢えるその日を楽しみにしているよ、宮田主任 』
ただただ混乱するだけの僕だったが、その耳許で通話は無情にも先方から切られ、そしてすたすた歩き出していた橙乃木さんの背中はすでに彼方だった。
僕だけがそこに残された。
※
その夜。
『中ボスは孤独なのか?』という問い掛けのメールに、村上陽子は即答で「YES」と返して来た。
シナリオとして倒されるのが前提なのだから、その孤独はたまらなく深い、と。
なるほど。
そういう理解も有りかも……なのだが、それは誤解かもしれない。僕が都合よく曲解しているだけなのかも。
『破戒天使さんの事は考えすぎても仕方がない。切り替えて楽しんでおいでよ』
これ以上の面倒事は御免こうむるので、村上には謎の告げ口女関連は伏せる事とした。現実からの乖離も甚だしいからである。
ユニークスキルは世迷い言でなくてはならない。
実生活での【無くて七癖】なら許せるが、異臭がぷんぷんする造り物めいた【虚々実々】なんぞ笑うに笑えない。異世界転生に逃げ込みはするが、あくまでもそれは気休めに過ぎない。泣こうが喚こうが、どう足掻いても現実という縛鎖からは逃れられない。その定めは万人が百も承知なのである。
【袋小路】は弱者の集いである。強者の喰い物として、あるいは慰めものとして扱われ、弄ばれ、嘲笑され、恥辱の煮え湯を滾々と飲まされるだけの日々。そんな現実に居たたまれないから、せめての安らぎとして異世界転生を夢みる。そこでなら違うジブンとして息が出来るから。
ただし、あくまでも仮初めの逃避であって、虚無の世界にすべてを依存するのは本末転倒である。常に節制を心掛け、その後きちんと現実へ向き合う。袋小路を謳いながらも、出口の所在だけは絶対に見失ってはいけないのである。そうでなければならない。
どうして僕の連絡先を知っていたのか、なぜあのタイミングだったのか等々、告げ口女の正体も含めて気になる点は多々あって、村上の見解を訊ねてはみたい。が、あえてすべてを黙殺、彼女なりの気遣いにだけ素直な感謝の意を伝える事とした。
『確かにこのセカイのどこかに潜んでいるラスボスの憂鬱に比べれば、些細な悩みではあるよ』
しかし、待てど暮らせど返信は無く、ほどほどのところで僕はスマートフォンを枕元に放り寝床へと横たわった。
静寂の中で瞳を閉じる。
「……中ボスを仲間うちに引き入れろってか……」
破戒天使との顔合わせは、もう明日に迫っていた。
【ツヅキ〼】