ラバーズ 【0と6】
穏やかなままに午前の業務は終わった。午後もこのまま何事もおこりませんように……と願いを込めつつ自席から離れる。昼食である。
自堕落な一人暮らしの僕にはもちろん、お弁当を自作出来る器用さと根性はなく、コンビニでの買い出しか社員食堂で済ませるかの二択となる。どちらかは気分次第、本日は食堂へと脚が向かっていた。階を下り、両面がガラス張りの渡り廊下へ。食堂はその先である。
やがて券売機が見えて来て、短い列の最後尾へ……というところで、背後より声を掛けられた。
「宮田」
振り返ると、同期の緋村が嘘くさい微笑を刻んで白い歯を見せていた。堅実にして要領のいい男で、在籍する製品開発部・第一製品課にて、最速で課長まで駆け上がった切れ者である。
「久しぶり。相変わらず不健康そのものの不調な顔色を好調に維持しているな。メシはちゃんと食っているのか」
正直なところ、僕はこの男を苦手としていた。悪い奴ではないのだが、いつも変な気遣いをさせられてしまう。理由は明白、我の強かさを臆面もなく前面に出せる彼に対し、僕は個を埋没させる事を常にしているからである。噛み合う訳がなかった。
「今から食べるところだよ」
「せっかくだから、外に食いに行かないか。お前を見込んで話が有る」
「せっかくだけど遠慮しておくよ。話とは?」
「付き合いの悪さも相変わらずだな。逆に安心したよ」
そして彼は当たり前のように僕の背後に並んだ。テーブルを共にする流れか……やれやれである。
「陽子さんは一緒じゃないのか」
「うん。見ての通り」
「まだ口説いてないのか」
後頭部を殴られた気分とでも言おうか、まったくの不意打ちで物凄いのをくれてくれる。彼の面倒くささは健在だった。
「……いつかも説明したけどさ、村上とはそういう関係ではないから。彼女もそんなのは望んでないし」
「相変わらずこじらせているなぁ……まぁ、お前がそれでいいのなら今はそれでいいさ。俺もその方が話をしやすい」
「だから話って?」
「席についてから話そう」
そう言いながら僕を追い抜き、緋村は首から下げていた社員証のQRコードを券売機のリーダー部にかざした。
「ここは俺に奢らせてくれ」
※
中庭に面した窓際、その近くの丸テーブルに二人で座った。
「……では遠慮なく」
緋村に再度の礼を述べてから、僕は割り箸を割く。高い昼食代にならないといいのだが。
ちなみに僕は鶏の唐揚げを主菜と据えた日替わり定食で、緋村はサバのみりん干し定食だった。えらく渋い選択に思えたので訊ねてみると、「年寄り連中とメシを食う際、魚料理で上手な箸さばきを見せるとポイントを稼げる場合がある。日々精進だよ」と、苦笑して見せた。
「……で、話って?」と、本題を催促。すると一瞬だが緋村の表情が陰り、しかし彼は即座にそれを揉み消した。
「……例の寄り合い所帯はどうなっている? うまく廻っているのか?」
「【袋小路】のこと? うん。頭数は増えているよ」
「輸送課の筑紫野さんが加入したって聞いたが、ほんとか?」
「本当」
素直に認めると、「マジかよ……」と緋村は天を仰いだ。
一方、僕は僕で違和感を持て余していた。まどろっこしい。聞き質したいのはこれではない筈……先ほど垣間見せた逡巡も引っ掛かる。箸でつまんだ唐揚げを口へ放り込み、バリバリ噛み砕いてから嚥下、ご飯も一口戴いてから、お茶碗を片手に再度うながしてみた。
「ぼちぼちお願いします」
すると緋村は浅く腰を浮かせ、改めて座り直した。
「九州支社からひとり、先日付けで本社工場勤務となった製造部の女性班長がいる。知っているか?」
「噂程度なら」
支社工場で頭角をあらわにした才媛で、製造ラインに革新的な変化点の数々を提案、その大半が著しい効果を上げて彼女の評価はうなぎ登り、この度めでたく本社工場勤務を勝ち得たとの話だ。確か村上がラーメンをすすりながらそんな事を言っていたような。ただ、ありていな出世物語の立身篇くらいにしか思えず、それ以上の興味は特には湧かなかったのである。僕にはよくある話にしか聞こえなかった。しかし、どうやら緋村にはそうではなかったようだった。
「……で、彼女の歓迎会を今週末に予定していたのだが、オトコのメンバーにひとり急な出張でキャンセルが出てな……」
と、ここで緋村はなぜか不自然な間を挟んで来た。
「うん?」
経験上、ここからが罠である。
「宮田、お前どうせ暇だろ。出てくれよ」
案の定だ。すかさず僕は抵抗を試みる。
「……ツッコミどころばかりなんだけどさ……まず、なんで合コン然としているのでしょうか? ただの歓迎会で別に良いのでは? 男女比を合わせる必要性は?」
「人数は問題ではない。彼女の男の趣味を探りたいのさ。おっと、悪趣味だなんて言うなよ、必要な事なんだ。二枚目・知的・体育会系・リッチ・オタク・ムードメーカーと、よりどりみどり取り揃えたのに、女慣れしていない地味な奴の枠に空きが出た。難儀していたのだが、そうだよ、お前がいたじゃないか。適任だ」
貧乏くじ枠じゃないか、それは……の言葉は何とか飲み込んだ。よくそんな事を頼めるものだと、変に感心する。合コンで路傍の石になってくれと言っているようなものである。彼の身勝手さをつくづく呆れつつ、取り敢えずの難色を示す。
「彼女は現場のニンゲンでしょ? どうして製造部の新参者を製品開発部の課長が接待するわけ?」
「有望な新人らしいからな、あてに出来る知り合いは多い方がいい。ブルーカラーもホワイトカラーも見境なく。それだけさ」
……出世頭ゆえに、出る杭は打たれる……だからこその人脈の地固めか……わからない話ではない。こういう周到さが昇進に繋がってゆくのだろう……僕にはまるで無い芸当であるが。
さておき本題に翻れば、緋村の目論見はおおよそで理解は出来るし納得ではある。しかし、どうにもそれは僕にすれば荷が重い役目でしかない。仮にその有望な新人がイケメンやらインテリやら上半身逆三角形体型よりも、テーブルの隅っこで只もくもくと料理を食べているだけの雨に濡れてぷるぷる震えている仔犬のような僕に関心を示したら? 責任は重大である。なんせ、緋村の狙いはここに集約されているので、彼女から巧みに個人情報を引き出せねばならない。
無理。僕には不可能である。出来ない。他人の私事には踏み込めない性質なのである。ここはお断りする方が賢明のようだ。
「正直に言うよ。あまり気乗りはしない。他をあたってほしい」
すると、サバの身をほぐしていた緋村の箸が止まる。真顔で僕を見た。
「まさか宮田、お前、彼女が出来たのか?」
こちらこそまさか。色恋沙汰に血迷う余裕があるのなら、異世界転生多目的研究会・【袋小路】など旗揚げはしない。僕は首を左右に振る。
「いないよ。でも、出逢いの無さに気を揉んでいる訳ではないので、なにとぞご容赦願います」
緋村は特に動じたでもなく、さらりと当たり前のように答えた。
「それはやはり身近に陽子さんがいてくれるからじゃないのか。お前は彼女に依存している。自覚が足りないだけでな」
今度は僕が箸を置く番だった。
「チョイチョイ村上を引き合いに出すのは、もう勘弁してもらえますか、緋村課長。彼女は只の友人にして只の同僚です。そりゃ、時々二人でご飯を食べに行ったりはしますけれど、原則としてそれだけの関係です」
お大尽として重宝されているだけなので……の、肝心の部分はうやむやとした。
ただ、やはりこういう当事者だけが体感している機微というのは、どうしても周囲の理解が得られにくい。緋村はやれやれという感じで浅いため息をひとつこぼした。
「どうやらお前の陽子さんへの気持ちは、かなり厄介な場所に不時着してしまったようだな。不器用な奴だとは思っていたが……」
なんだ、その好戦的な謎掛けは? 僕はさらに動揺してしまう。
……決めつけも甚だしい……第三者なのに……僕と村上の何をわかっているというんだ……
その時である。緋村が目に力を込めて、僕を見た。
「いいや、わかるさ」
唐突の指摘に、僕は思考を遮られた。息を呑む。呆気にとられる僕を置き去りにして、緋村はそのまま黙々と食事を続けた。
圧倒されている。同期なのに、肩書きの有無以外においても、もうこんなにも差がついているのか……予測はしていたけれども……僕は何とか言葉を絞り出した。
「……僕が村上をどうしても必要としている、とでも?」
うなづく緋村。
「客観的に眺めればそうなる。試しに百人に聞いてみようか?」
「試さなくていいし、聞かなくて結構です」
「気の置けない存在。空気のような有って当たり前の存在。そういう相方はやはり貴重だよ。距離が近すぎるんだろうな、お前と陽子さんは。お互いにお互いの懐の深い処へ入り過ぎている。だから特別な感情が萌芽しない」
訳のわからない焦燥感に背を押され、僕はつい捲し立てていた。
「……であるのなら、結局どうすればよいのでしょうか。好きなオンナがいないのなら合コンもどきの歓迎会に参加しろ、そうでないのなら村上陽子への恋心を認知してよろしくやれ、どちらなんです?」
緋村は「さてな……」と、緩く小首をひねる。
「両方……では、俺が無能すぎるか」
早々に食べ終えた彼は「ごちそうさま」と手を合わせ、腰を浮かせた。
「……後者だよ。俺はずっとお似合いだと思っていた。じゃあな、時間を取らせて悪かった」
食器の乗ったトレイを手にしてくるりと反転、緋村は席から離れて行った。
遠ざかってゆくその背中を見ながら、僕はわなわなと震えていた。
……結局それが言いたかったのか。
僕に、村上陽子へと向き直れと。
素直になれと。
いいや、わかるさ
お似合いだと思っていた
……見下されている。いや、それ自体は構わない。
我慢ならないのは、村上までも僕と同列で語っている事だ。
だからつい、その背中へ堪らず呼び掛けてしまったのである。
「課長!」
立ち止まる緋村。「ん?」と、首だけをよじる。涼しい顔。それが余計に腹立たしくて、僕もまたゆっくりと席から身体を剥がすみたいに立ち上がった。
「……出席します、歓迎会。ぜひ参加させてください」
※
「……って言っちゃったんだよ……」
弱々しく告白する僕の横で、村上陽子は納得したように何度もうなづいた。
「さすがは緋村センセイ。あたしをダシにして宮田くんを手玉に取るなんて、さぞやセンセイは痛快だったでしょうね」
僕は短く吐き捨てるのか精一杯だった。「僕は不快だったよ」
その夜、いつものラーメン屋のいつものカウンター席にて、僕と村上はいつものように肩を並べていた。
あの後、頭から熱が引くのと同時、残されたのは敗北感だけだった。
乗り気ではなかったのに、結果として乗せられていた。してやられた感でしばらく頭が回らず、午後の業務はそれなりに手こずり散々だった。踏んだり蹴ったりである。
「そもそも役者が違うんだからさ、緋村センセイに誘われた段階で警戒しなきゃ」
「……いや、意識はしていたのだけど……」
「ま、そうね、こと腹芸に関しては海千山千のセンセイに宮田くんが敵う訳はないわね。あなたが身構えたところで、センセイからしたらノーガードと大差ないのだろうし」
「蛇の道はヘビだなぁ……」と、ぼやいてみたら、村上はつまらなそうに鼻で笑い「……その言い方、あまり好ましくないわね」と、ラーメンを一口すすった。
僕の前にも湯気を上げている美味しそうな丼が鎮座しているのだが、ココロが不調を訴えていて、なかなか箸を取れないでいる。
赤子の手をひねる。緋村からすればそうだったのだろう。食堂の前で声を掛けられてから、すべて彼のシナリオ通りに展開した。そういう事だ。合コンの最後の一枠が致死的な残念賞でしたなんて、どんな罰ゲームなのか……とはいえ、啖呵を切った手前、辞退も出来ない。詰んでいる。連中がわいのわいのと宴もたけなわの中、話し相手もいないままぽつんとひとりぼっちの自分……地獄である。しかも会費制、身銭を切った上で苦痛を強いられるとは。
「……とほほだよ……」
緋村に言われた通りだった。不甲斐ない。ますます食欲は後退するばかりである。「僕にも“虚々実々”とか有ればなぁ……」
何となくぼやいてみれば、村上にケラケラと笑われた。
「宮田くんは今のままでいいのよ」
そしてカウンター内の店主に「あ、替え玉お願いしまーす。バリカタで」と声を掛け、半ライスのお茶碗を片手に食欲絶好調のままにギョーザをつまみ、僕の方へちらりと視線を寄越した。
「ま、いいんじゃない。楽しんでおいでよ。女のコの知り合い増やしてきたら? 事務の青柳ちゃんとか、人事の紺野も呼ばれているらしいから、綺麗どころは揃ってるんじゃない?」
そういう事ではないのだが……
うらめしげに彼女を見やれば、ぱくぱくと美味そうにご飯を頬張っていた。
その横顔を眺めながら、緋村の言葉を改めて反芻してみる。
……距離が近すぎる……か……
果たしてそれはどうなのだろうか……当事者たる僕には、肯定も否定もどちらも心許ない。
僕と村上陽子の間にもちゃんと隔たりは有り、近くに感じる時もあれば、そうでない時もある。曖昧に不規則にそれは混在し、主張したりしなかったりする。そもそも最初から明確化は求めていない。いつまでもどこまでも、不鮮明なままの僕と村上陽子の距離感。それを踏まえて同じ空気を吸い、隣り合ってご飯を食べ、共有の仲間たちと日々業務にあたる。これでいい。
わかりあえていない部分も多々あるだろうが、馴れ合った量も時間も決して負けてはいない筈。いわゆる恋人たちのそれと遜色が無いほどに。
いつの日か彼女は僕の側からいなくなってしまうのだろうけれど、その時は互いの健闘を称え合い、進むべき道を笑顔で右と左とに別れたい。心からそう願っている。
そんな不謹慎な物思いに捕らわれていた僕の隣で、村上の丼ヘ替え玉が投入、満面に笑みを浮かべてから「あ、それでね」と、彼女は口を開いた。
「その製造ラインの有望な新顔さんなんだけどさ、支社の方であだ名があったらしいのよ」
「へー、どんなの?」
「なんか女の子チックなやつ」
と言われても、御本人を存じ上げないのでまるで想像も出来ない。
「んー、まったくわからないよ。なんとか天使とか?」
すると村上が目を丸くするのである。
「あら、御名答。なかなか良い勘してるじゃない」
緋村のアレには及ばないけどね……などと内心で少し自嘲してから訊ねた。「……で、なに天使なの?」
村上陽子はなんの感情も込めずに、さらりと答えてくれた。
「破戒天使」
【ツヅキ〼】