ここで死ぬことはない。せめてもの慰みに故郷の土へ
「野生のバンビラットと遊んだぁ?」
呆れて物も言えない。言っているが。
村のガキでも知っているだろう禁忌を破って、よりにもよって最悪な答えを聞いたのだ。
患者の前でもさすがに声を抑えきれなかった。
「言われた通りすぐにわかった。おとなしいし無害だから手を出すなって言ってたやつだって。なぁキソッチ」
「あ、あぁ。でかい丸耳の鼠で、水辺で花を食べていたんだ。呼んだらとろとろ歩いてきたもんだから」
「頭を撫でただけよ。噛みつかれたりしてないわ」
「もふもふして可愛かったのよ。しばらくしたら帰っていったけど」
「そりゃあな、自分の倍の大きさの人間が何人もいたんだ。無闇に攻撃はしないだろうよ。あー、ムルカ。宮法長に連絡しといてくれ」
「は、はいっ」
助手のムルカに言いつけると同時に目配せを送る。
既に患者から少し離れていたムルカは、俺の指示を聞いて頷いて、もう一度目を見て頷いた。
すぐに部屋を出ていく。逃げるように駆け足で。
「う、うぅ……」
「メグ、しっかり!」
「大丈夫だからな、立石。今偉い人も来てくれるって」
見慣れない装束の五人。男二人と女三人。年齢は成人したくらい……こいつらの故郷ではまだ成人前だったか。ずいぶんと余裕のある国で育ったものだ。
苦し気に脂汗を流しながら呻く女から俺も数歩離れ、浄化の魔法がかかった手ぬぐいで手と顔周りを拭う。
それからもう一度、深く溜息を吐いた。
「あんた医者なんだろ! 早く立石を治してくれよ!」
「一応な。この国じゃ上から数えた方が早い名医ってやつで、だから宮殿内勤なんてやっているわけさ。割と給金はいいんだぜ」
「高い給料もらってんなら仕事しろよ!」
「キソッチ、大声はやめて! メグが」
「だって……」
高い給料をもらっているなら仕事しろ、か。
なるほど、半人前未満のくせに言うことは言う。確かに正論だ。
だから仕事をしているわけなんだが。
「この国じゃ……いや、まあ大抵どこでも誰でも知っている話だが、お前らの住んでいた異世界ってのにはいなかったのかもな」
「この世界の生き物なんて見たことないやつばかりだよ」
キソッチとは別の男、カブさんとか言う男が苦々し気に答える。
今さらながらに自分たちが迂闊なことをしたと理解したらしい。
「あぁ、なるほどな」
同じく、今さらになって俺も理解した。
古い伝承の意味を。
王家の秘泉に異世界より五人の若者が訪れる時。それは世界に危機が訪れる兆し。
だが怖れることなかれ。正しく進む者に必ずや道は開かれるだろう。
ずっと平和だったこの国の宮殿の地下、王家の秘泉から現れた五人の若者。つまり彼らだが。
世界の危機。どこにそんな影があるのか不明だが、本当に現れてしまった事実に戸惑いつつも、軽率なことはせず彼らを迎えた。
食事と寝床を与え、武具を与えて。
彼らの言い分では、古いボウクウゴウとやらに入ったら王家の秘泉にいたのだとか。
途中で神らしい者の声を聞いたとも言う。
この国に近く危難が訪れることを伝えるように。
何にしても備えを万全に、情報も広く集めようと軍司令と国務長が決めた。
彼らも何か手伝うと言うが、今まで戦ったことなどないとも。
神からの恩恵である程度戦う力を得たという話で、近場の魔物を退治して経験を積むと意気込んで出ていいったのはいいのだが。
「宮法長様が来るまで、立石の痛みを和らげてもらえないか? 名医なんだろ」
「なら殺すしかない」
「な……」
言葉を失う四人の若者と、俺の言葉も聞こえないほど苦しんでいる女。タテイシメグと。
見れば綺麗な顔立ちをしている。青黒く死相に歪んでいるから残念なことだ。
「バンビラットは病を持っている。人間に近い種族にだけ感染するタイプの。だから手を出すなと言われたんだ」
「そんなこと聞いてない!」
「そうよ! それに神様が言ってたわ。私たちの体はこの世界に適合するようにしたって。未知の病原菌だって」
「お前らの世界でどうなのか知らんが、この世界では死ぬ病があるんだ」
そんなことも教えられないと知らないとは思わなかった。誰も。
当たり前だろう。何がもふもふだ。
「こっちにもご神託ってのがあってな。ずっと昔にいくつもの村や町が滅びた。その原因を占って突き止めたのがバンビラットだ」
「……」
「目に見えないほど小さな虫。バンビラットはそれと共生するが、人間に入るとこうなる」
「メグ……」
「そんな危険な獣だったら駆除しとけよ! 馬鹿じゃないのかこの国の連中は!」
憤るキソッチが迫ってくるが、溜息を返すしかない。
外に出す前に歴史や古典の勉強をさせておくべきだったか。
もし次に秘泉に何かが現れるようなら、この教訓を活かすよう一緒に伝えておこう。
「やったのさ、過去の国々がそれで滅んだ」
「ほろ……どうしてそれで滅ぶんだ? おかしいだろ」
「バンビラットは攻撃的な生き物じゃあない。だがそれなりに生息していた。生きた壁としてな」
死病を持つ獣。
人間の町には近寄らず、森の浅い辺りに多く生きる。時折耳を乾かすのに日光が必要なのだとか。
「この大陸の七割は密林だ。いくつかの町と国が開けた場所にあって、森深くには魔族が住んでいる……のは説明したんだったな」
「あ、あぁ。魔族の襲撃に備えて俺らも協力するって」
「魔族は嫌うんだよ。バンビラットの病をひどく恐れている。バンビラットを人間が駆除したことで道が開いたってわけさ」
過去の大戦。
密林深くから押し寄せた魔族の攻勢で多くの国が甚大な被害を受けたという。ずっと昔の昔話。
なぜ急に総攻撃に出たのかと聖騎士が訊ねると、人間がバンビラットを駆除してくれたおかげだと返事があった。
バランスを崩した。そのしっぺ返し。
今はバンビラットが数を戻し、そうした心配がなくなっている。
たまにそれでも漏れてくる魔族もいるが、少数なら大きな被害は出ない。捕えた魔族で実験すると、確かにバンビラットの死病は魔族には劇的な効果があった。目を背けるほどに。
「小さな虫がバンビラット以外の生き物の体内に入ると、そのままでは死ぬと悟って爆発的に卵を産むらしい」
「増殖……ウイルスみたいに」
「? 知らんが、結果は見ての通りだ。住み慣れた土地を離れると攻撃性が増すのかもしれんな」
女の片割れが、苦しむタテイシメグの汗を手ぬぐいで拭うが、後からまた汗が噴き出す。
この若者たちもまた、住み慣れた土地を離れて攻撃的になっているのかもしれない。不安と怯えから、武器を手放せない。
「そうなったら治療は無理だ。どんな薬も効かん」
「ま、魔法があるじゃない。メグの体の中を浄化すれば」
「病を治す魔法はない。というか」
これも、普通に生きていれば知っていて当たり前の話。
幼児に聞かせるような内容を説明しなければならないとは。
これがおそらく危難なのだ。神の言う。
当たり前だと思い、危機感が薄れ、国が亡びる。
だから戒めよという伝承。
「過去に多くの魔法使いが試した。病魔を取り除く魔法。寄生虫を殺す魔法。色々とな」
「それよ、寄生虫を殺す魔法で」
「死ぬんだ。受けた人間が必ず」
喉が渇いた。
部屋の端の卓で、水差しからコップに注いで飲んだ。
「人間が生きていくのに必要な小さな虫もいるらしい。魔法でそれは判別できない。人間ではないそれらを殺して、元の人間も死ぬだけだ」
「……」
「お前らの国ではこういう知識がなかったんだな。教えてやらなかったのは悪かった」
「……くそっ」
無知で無学な異世界人。
幼児に教えるようにひとつひとつ教えなかったことはこちらの手落ちだろう。
申し訳ないと思う気持ちもある。
「立石……俺は……俺が、冒険者やってみようって言ったから」
「うちの犬みたいで、あたしがもふもふしたいって……」
「やめろ。そういう、誰かのせいとかじゃなくて……」
決して悪い人間ではないのだ。
救えないほど愚かだっただけで。
俺に出来ることは何もない。
呻き声と彼らの苦悩から離れたくて部屋を出た。頃合いだ。
「……? なあ、あんた」
「……」
「なに、どうしたの?」
「メグが、このままじゃメグが……」
部屋を出た俺に、まだ縋ろうとしたのだろう。
何も出来ないのに助けてくれと言われても困る。
「だっ!? ってぇぇ」
「カブさん大丈夫? なに……どうしたの?」
「いや、部屋から出ようとしたら……ばちって弾かれた」
彼らの会話を背中に、部屋の外の通路に居並ぶ魔法使いたちと宮法長に頷いた。
魔法使いたちは答えない。既に結界の印に集中している。結界を解くわけにはいかないのだから答えなくていい。
「最初に説明した。バンビラットの死病でいくつもの村が滅んだと」
「ちょっと! 私たちを閉じ込めてどうするつもり!?」
「最初は接触した人間だけだ。その死体を放置すると三日後には周囲に小さい虫が逃げ出して新しい生きた肉を求めだす」
「やだ! あたしたちごと殺すつもりなの!?」
「ふっざけんなよてめぇら! こっちは神の使いで来たんだぞ!」
「やめろキソッチ! 先生……いや、宮法長様。僕らは感染していないんだ。僕らだけでも」
「接触してすぐ発症する人間と、丸一日かかる人間もいる。それがまた厄介でな、お前たちを出すことは出来ない。通常は死体を焼き払うんだが」
せめてもの義理として、彼らに状況を説明する。医者としての責務だろう。
彼らが納得するかどうかではない。俺が納得する為に。
「わ、私たちを生きたまま焼くって」
「いやあぁぁぁ!」
「っざけんな! ざけてんじゃねえ!」
「そんなこと神が許さないぞ! この国は絶対に滅びる、絶対にだ‼」
厄災の種が自分などと、誰も思いたくないだろう。
「そういきり立つな。我が国は慈悲と寛大を是としているんだ」
「何が慈悲よ! メグを見殺しにして」
「ここで死なせはしない」
可愛い女だった。男としては出来れば助けてやりたいと思う。助けてやりたかった。
元気なら、御礼にと役得もあったかもしれない。そんな下心を抱く程度には。
「異世界人が帰りたいと願うこともあるだろう。そう考えた過去の王が、帰還の魔法を神より授かっていたのさ」
「……な、ん……だと……?」
「お前たちの生きる世界に、光あれ。そう願っておく」
「や、やめ――」
◆ ◇ ◆
「……という顛末ですよ。宮法長」
「ご苦労でした」
何もかもなくなった室内。
空間ごとまとめて消え去ったそこには、代わりに向こうの世界の同じだけの空間が置き換わっていた。
とはいえ、何もないただの空間。
臭い。
油を燃やした空気が溜まったような臭気。
彼らが生きる世界は、ずいぶんと澱んだ空気に満たされているらしい。無知で不見識なのも仕方がないか。
「一応、俺とムルカ、他にあいつらと接触した人間も検査はしますが、過去の例から考えれば大丈夫でしょう」
「過去の例ばかりに囚われぬように、と。神が下さった警告でしょう」
「本当に。まさかこの現代でバンビラット病とは、頭の片隅にもありませんでしたよ。国の医療を担う俺の反省すべき点ですな」
他の魔物ではここまでのことはない。もちろん病毒はあるにしても。せいぜい死ぬのは受けた個人だけ。
バンビラットは鈍重で攻撃性も低い生き物なので、もう何百年も被害を聞いたことがなかった。
近付いただけで肌が赤く焼け爛れる魔族はともかく、人間にとっては敵の侵略を防ぐ毒のようなものとして共生してきた。
「国務長と陛下には私から伝えておきましょう。まず検査を受けなさい」
「ええ、そうしましょう。俺が亡国の災いになるわけにもいかない」
「いざとなれば、苦しまぬよう送りましょう。母君にも十分な恩給を」
「感染してないと思っているんですから、見舞金の話はよして下さいや」
ははっと笑って宮法長と別れる。
ムルカと二人。後ろをついてくる魔法使いは、万一の場合に逃げ出さないように見張り役か。
本当に、どうしようもない。
生まれた環境が違えば、俺が彼らの立場だったかもしれないのだ。
物を知らず、よく言えば無邪気に世界を見て回っていたのかもしれない。
恐ろしい。
この世界に生まれたことを改めて感謝する。神に。
ついでに、彼らの帰った先に少しばかりの救いがあらんことを。
他人の心配をしている余裕があるわけでもないから、あくまでついででいい。神はいつも我と共に在り。
◆ ◇ ◆