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ひとの背丈の倍ほどの巨体ながらも、異形の動きは素早い。そのうえ力も強く、豪腕に速度が乗った一撃をまともにくらえば、領域ごと吹き飛ばされる可能性があった。
そのうえ、濡れた芝生に足をとられる。
「分が悪い!」
ふたたびエクサの首根っこをつかんだレイドルフは一旦、学び舎を囲う塀の外に跳んだ。
真っ平らな地面に着地して、エクサをそっと下ろす。
「ここに居るんだ。逃がしてやりたいが、恐らくあの異形は君の血の匂いを覚えてしまった。後で匂いをわからなくさせる術式をかけるから、ここで待っているように」
真剣な表情で言うレイドルフに、エクサはこくこく頷いた。
「はい! この江草、忍者のアニキの命とあらば、正座で待機させていただきまっす! 待つのは得意です。これまでのネタ……おっと、出来事をメモしながらいついつまででもお待ちしております」
きりっとした顔で言うエクサは、濡れた構わずにその場で脚を畳んで座りこむ。
キラキラした目で見上げられたレイドルフは、とたんに痛み出した頭を押さえて釘をさした。
「あー、くれぐれも他人に見られて困る書き方はしないように」
「はいっ、江草の走り書きは暗号レベルなのでご安心を! いってらっしゃいませ!」
元気なエクサの声に見送られて、レイドルフはふたたび学び舎の塀を越える。
レイドルフの足が地に着くが早いか、風がうなり異形の拳がレイドルフ目がけて迫り来る。
「おっと」
とっさに悪魔の力で受け流すも、防ぎきれずかすめた拳の風圧にほほが裂けた。
契約紋が血を吸っているのだろう、じくじくとした痛みとともに悪魔の力がレイドルフの制御を離れて暴れだす。
「甘美なり、甘美なり。契約者の血は旨し糧!」
「くそっ、悠長なことを言ってないで力を抑えろ! 劣等悪魔!」
肩にしがみついて嬉々とした声をあげる熊のぬいぐるみを怒鳴りつける間にも、暴走した力が近くにあった木をきしませる。ばらばらと散る木の葉の音に混じって、めきめきと鳴る木が折れるのは時間の問題だろう。
「くうっ」
焼けつかんばかりに熱いほほの契約紋に、レイドルフが表情をゆがめたところへ、甘やかな声がかけられる。
「扱いきれない力に手を出すなんて、愚かなこと」
あざ笑うように言われた途端、レイドルフの周りで暴れていた悪魔の力が収束した。同時に、ほほの熱が引いていく。
「わたくしを付け狙うのなんて、もうおよしになったら? あなたには貴族の御令息のほうがお似合いよ」
レイドルフが横目で睨みつけた先には、ほうきに横座りして浮かび上がる魔女がいた。
「呉……? ソレハ……ソノ力ハ、何ダ?」
呆然とつぶやいたのは異形だ。魔女を人間の令嬢として好いたのだろう異形は、宙に浮く魔女に困惑しているようだった。
「まあ、愛璃咲と呼んでくださいと申し上げましたのに。見た目のとおり、ひとの言葉が通じないのかしら」
「何、ダト⁉︎ オ前ハ、オ前ダケハ異形ノオレヲ受ケ入レテクレルト、ソウ思ッタノニ……!」
正体がバレたというのに動じない魔女に、異形が怨嗟の声を上げる。
裏切られたと叫ぶ異形は、怒りに我を忘れたのかレイドルフも魔女も関係なく体当たりをして、腕を振り回す。
その動きが段違いに速度を増し、また威力を増しているのを見るに、先ほどまではあれでも理性が働いていたようだ。
「まあっ! わたくし、そんなこと言ってませんのに! ちょっと、話を、聞きなさいっ」
「聞こえていないようだな。それにしても、この世界の学び舎には異形も通うのか」
ほうきであちらこちらに逃げる魔女を異形が追う。おかげですこし余裕の生まれたレイドルフが呟けば、魔女が桃色の髪を翻して睨みつけてきた。
「そんな物騒な世界は選んでません! わたくしの術式を狂わせているのはあなたの悪魔の……きゃあっ!」
よそに気を取られた魔女が、異形の拳を避け損ねて体勢を崩す。
「危にゃい!」
ほうきから落ちかけた魔女の左手の袖をくわえているのは、魔女の使い魔である猫だ。
「クレメリッサさみゃ、だいじょーぶかにゃ? にゃあ来るの遅くなって、すまにゃかったにゃ!」
ほうきに座り直した魔女は、高度を上げて異形から距離を取る。
背中の羽をぱたぱたさせて飛び回る使い魔の頭をなでると、魔女はやさしくほほえんだ。
「来てくれてありがとう、ミーニャ。助かりましたわ。あら、その花は?」
魔女が指差した使い魔の前脚には、やわらかなクリーム色をした花がある。
「薔薇にゃ。クレメリッサさまのお誕生日プレゼントなのにゃ」
「まあ、うれしいわ。ありがとう、ミーニャ」
使い魔が差し出した花をうれしそうに受け取り、魔女は髪に挿した。
その花を見たレイドルフがことばを紡ぐより速く、地を蹴った異形が魔女に肉薄する。
「きゃあ!」
「みにゃあ!」
異形の拳が魔女とその使い魔をとらえる、その一瞬前。
「おっと、よそ見とは感心しないな」
魔女と異形の間に跳び込んだレイドルフが、悪魔の領域を展開して拳を受け止めた。
「くうっ……!」
異形の力は強く、制御を取り戻した悪魔の力をもってしてもレイドルフの身体に衝撃を与える。
思わずうめき声をもらしながらも、レイドルフは魔女を背にかばい退かなかった。
「あなた、どういうつもりですの⁉︎」
敵対する男に庇われた魔女が、困惑の声を上げる。
異形と張り合う『不可視の領域』に力を込めながら、レイドルフは笑った。
「ふと思い出したんだ。悪魔が魔女を捕捉したということは、魔女の術式に組み込まれた時が満ちたということ。つまりは、魔女クレメリッサの十六の誕生日だろう?」
言いながら、レイドルフは領域を異形の周囲に展開させて、その巨体をぎりぎりと締め付け、宙に持ち上げる。
「コンナモノ……グゥ!」
「そう易々と、壊させないさっ」
逃れようともがく異形に対抗すべく、レイドルフが領域に力を注ぐ。ほほの契約紋がじりじりと焼け焦げるような熱を感じながら、それでもレイドルフは退かない。
「グゥゥ……ウアァァァ!!」
力比べに勝ったのはレイドルフだった。
叫び声を上げたかと思うと、異形と化していた藪小路の身体がしゅるしゅると元のひとの形に戻っていく。
「レイドルフ、彼を離しなさい!」
魔女が鋭く言ってほうきを飛ばしたときには、藪小路の身体は宙に放り出されていた。
「にゃあもお手伝いにゃ!」
力なく空を舞う藪小路を魔女が両手で抱きとめて、使い魔の猫に支えられ、ふらつきながらも共に地に降りる。
「レイドルフ、あなた何を考えているの……?」
魔女が叫ぶよりも早く、レイドルフは領域を緩めていた。
魔女を庇ったことといい、異形を解放したことといい、不可解でならないと言いたげな魔女に、レイドルフは笑って背を向けた。
「言っただろう。今日は魔女の誕生した日。庇ったのもその異形を殺さないのも、俺なりのプレゼントだ」
それだけ言って歩き出す。
「もちろん、見逃すのは今日だけだ。次に会ったときには、必ずお前の術式を壊してやる。そして、その水晶に封じられたリリレイアを取り戻す」
「ふん、そんな甘いことを言っていて、良いのかしらね?」
魔女の憎まれ口に肩をすくめて返し、レイドルフは塀の向こうへと歩き去る。
「追いますかにゃ?」
使い魔が問い、魔女が答えようとしたとき。
「うぅ……」
魔女のひざに倒れていた藪小路がうめき声を上げた。
「藪小路くん、ご無事でしたのね⁉︎」
「呉……お前、どうして……オレの姿を見たんじゃ……?」
正体を知られたはずなのに、逃げもせず顔を覗き込んでくる魔女を見つめ返して、薮小路は戸惑うようにつぶやく。
そんな彼の視線を受けて、魔女は呆れたように息をついた。
「まあ。本当に、お話を聞かない方ねえ。わたくしは話を聞いてくれない殿方が好きじゃないと、申し上げましたわよ? あなたの本性の話なんてしていませんわ」
「呉……」
つん、とあごをあげて見せる魔女に、藪小路は目を丸くした。かと思うと、飛び起きて魔女の身体を抱きしめる。
「きゃあ⁉︎」
「呉、オレやっぱりお前が好きだ!」
「はにゃすにゃ! クレメリッサさみゃをはにゃすにゃー!」
賑やかな声を聞きながら、レイドルフはエクサに術を施し終えた手を下ろす。
「やれやれ。今回はまた、魔女を狙うライバルが多そうだな。学び舎に潜入してじっくり機会を伺うとするか……」
「現地情報の改変を要求する気か。なんと悪魔使いの荒い契約者。なんと無慈悲な契約者よ!」
レイドルフのぼやく声に悪魔がぽこぽことぬいぐるみの拳をふるう。
なんとも平和な光景を見つめながら、エクサの手は止まることなくネタを書きつけている。
「学園もの、悪魔の契約者vs鬼に惚れられた魔女。ヒロインちゃんは別にいるよ、と。動くぬいぐるみに羽根の生えた猫に、設定モリモリでウマウマー!」
「契約者よ、レイドルフよ! 此奴をはやく遠ざけよ。不可解が過ぎる!」
「ははは。悪魔の遊び相手にちょうどいいんじゃないか。良かったな、退屈しないぞ」
おだやかなひと時に浸る彼らは知らない。
魔女の水晶に封じられた乙女が「人外不良イケメン、悪魔契約クール美人、悪役令嬢ハーレム学園モノキタコレーーー!」と喜びのたうち現状をエンジョイしていることを……。