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じくり、とほほに熱い痛みを覚えてレイドルフは笑 った。
「来たか。待ちわびたぞ」
思わずそうつぶやきながら指を這わしたほほには、悪魔との契約紋が浮かび上がっている。
殺風景な自室の壁にかけられた鏡に映る己の顔を、そこにゆっくりと姿をあらわす契約紋を見つめてレイドルフはそのときを待った。
じくじくと広がる痛みが止まるころ、姿のない悪魔がくちを開く。
「魔女の時が満ちた。レイドルフ、吾が契約者。契約に則り界渡りを開始する」
抑揚のない声は、どこからともなく聴こえてくる。常人にとって畏怖の対象であろう声が、レイドルフには祝福の音に聞こえた。
「今度こそ魔女を打ち倒す。そして必ず救いだす……!」
レイドルフがひとみに燃やした暗い炎が燃え広がったわけではあるまいに、彼の姿はじわりじわりと黒い炎に包まれていく。
すっぽりと炎に隠れたレイドルフの姿は、不意に失せた炎とともにかき消えていた。
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音もなく着地したのは、異様に平らな地面。のっぺりとした濃い灰色に覆われた硬い地面だ。
降りしきる雨にかすんで、視界は悪い。それだけでなく、見渡す限りを硬い壁とそびえ立つ建物に囲まれて、見上げた空がひどく狭い。
「悪魔、ここは……」
レイドルフが問うより早く、ほど近い場所から声があがった。
「あ、あなたさまは!」
少年だろうか。小柄な人影は取り落とした傘をすばやく拾い上げ、ぱしゃぱしゃと水たまりを蹴飛ばしてレイドルフに駆け寄る。
よもや異界で己を知る者がいたか、と身構えたレイドルフを見上げた少年は、上ずった声をあげる。
「あの、あの、忍者のかたですよね⁉︎」
ニンジャ。聞きなれないことばにレイドルフは眉を寄せて、自身の格好を見下ろした。
界を渡るために身につけるのは、女神の目を欺くための黒衣だ。界渡りという禁忌の術式に組み込まれた衣は、レイドルフのつま先から目のしたまで、すっかり覆い隠している。
この衣服が、ニンジャなるもののまとうそれに似ているのだろうか。
レイドルフが黙して考えているうちに、少年は勝手に合点したらしい。うんうんとうなずきながら、背負っていた袋を素早く下ろしてなかを漁りはじめた。
「あ、いやバレちゃいけないのはわかってます! ここで会ったことは秘密にするので、あの、あの……サインください!」
しゅば、と差し出されたのは真四角の紙。特殊な呪いがかかっているのか、四辺を金で彩られている。
「サイン、だと……?」
よもや名を記した者を服従させる呪具ではあるまいな、と警戒するレイドルフに、少年は忙しく首をたてに振る。
「あ、もちろん本名じゃなくてかまいません! そりゃ忍者のひとが本名ほいほい明かせませんからね。だからその、忍者! でもいいし、テキトーな偽名でも良いので!」
「……」
少年の持つ紙を見下ろし、少年の顔を見下ろしたレイドルフはひとり考える。
レイドルフを見つめる少年のひとみはきらきらと光っている。
見上げてくる視線のまぶしさが偽物ならば、見抜けなかった己が愚かだったと笑おう。
レイドルフは覚悟を決めた。
「俺の名だけで良いのか」
「え! じゃあ『江草へ』って入れてもらえますか! 端っこでいいんで!」
促されるまま紙と共に渡された黒い棒を走らせれば、インクもつけていないのに紙に文字が記されていく。
『レイドルフ・クロライト』
偽ることなく刻んだ名のそばに『エクサへ』と記す。すべて、レイドルフの祖国で使われる文字だ。悪魔は言語の変換はすれど、筆記能力までは補ってくれない。
紙と棒を返せば少年、エクサはふるふると震えながら真四角の紙を見つめる。
「ふおおおー! かっこいい! 何書いてるのかひとっつも読めないけど、でもなんか文字の流れがかっこいいーーー!」
興奮した様子のエクサを眺めて呪いの発動に備えるが、そんな気配は微塵もない。
鼻息も荒く、水たまりのうえで飛び跳ねるエクサに敵意はなさそうだ。
こっそりと警戒を解いたレイドルフは、名を記した対価にエクサから情報を得るべく声をかける。
「近隣に女学生の通う学び舎はないか。裕福な家庭の者が集う学び舎だ」
「んん、ちょいとお待ちくださいね。ネタ帳を見れば……」
レイドルフの名が記された紙をしまったその手で、エクサは別の紙の束を取り出してぺらぺらとめくりだす。ネタチョウ、なる書物らしい。
ひどく薄い紙は、この世界の技術力の高さを物語っている。それを何気なく扱うのが年若い少年だというのもまた、この街の豊かさを示していた。
「この近くだと、テン・フレイト学園かな。大和撫子学院ってのもありますけど」
「学び舎が複数あるのか。それでは、そうだな……より、個性豊かな学徒が集うのがどちらかわかるか」
ひどく抽象的な問いをしたレイドルフに、エクサはにぱっと笑ってうなずく。
「それだったら、テン・フレイト学園ですね! お金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんがこぞって入る有名学園で、入学基準は見目の良さだってうわさされておりますゆえ。我がネタ帳を彩るネタにも事欠きません!」
「見目の良い学徒が多い? ならば、そちらで決まりだな。少年、助かった。礼を言う」
レイドルフがゆるりと目礼をすると、少年と呼ばれたエクサはすこしだけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑って首を横に振った。
「いえいえ、お礼など。むしろこちらこそ、忍者のかたにお会いできて光栄です。しかもサインまでもらっちゃって。家宝にします!」
名を記した紙の入った袋を抱きしめるエクサの笑顔に、レイドルフは思わずふ、と表情をゆるめる。
「ならば、もうひとつ問おう。その学び舎のありかを知りたい。もちろん、対価は支払う」
「ひゃっ! 対価! そりゃもう、教えますとも! 住所なんてスマホで調べればいくらでも出てきますし、教えるのにやぶさかでないのですが……」
飛びあがって喜んだエクサだったが、その勢いは尻すぼみになっていく。
「なにか、不都合があるのか」
「その、自分、道案内へたくそでして」
問えば申し訳なさそうにする姿にレイドルフは、ふむ、と頷いた。
「場所自体はわかるのだな?」
「はい、そりゃもうどんな建物かはばっちり記憶してますから!」
すぐさま返ったことばを聞き届けるが速いか、レイドルフはエクサを小脇に抱えて跳んだ。エクサの差していた傘もすぼめていっしょに抱える。
気配を遮断する結界のうちに入れてしまえば、雨を弾くことなど造作もない。
そのとき、宙に跳ね上がった人影目がけて飛びつくものがあった。
「吾が契約者、レイドルフ。吾を伴え!」
暗い声でそう告げたのは、両手におさまるほどの熊のぬいぐるみ。ずいぶんと使い込まれて、片腕の付け根からわたが飛び出している。
「その声、悪魔か。今回はまた、ずいぶんと愛嬌のある依り代を得たな」
レイドルフのからかいに気を悪くしたのか、それとも返すことばもなかったのか。悪魔の取り憑いた熊のぬいぐるみは、黙ってレイドルフの肩にくっついている。
すとん、と家屋の屋根に着地したレイドルフは、脇に抱えたエクサに目をやった。
そこには、レイドルフの予想に反して目を輝かせた少年の姿がある。
「跳んだ……! 屋根まで跳んだ! しゃぼん玉じゃないのに屋根まで跳んだ! これは忍者だ、忍者! まちがいない、これはすっごく忍者な体験‼︎」
「あー……興奮しているところ悪いが、学び舎の方角を教えてくれないか」
手にしたネタチョウにものすごい勢いで何かを書き記すエクサに声をかければ、レイドルフの脇におさまったままエクサがしゅび、と額に手を当てた。
「アイ、サー! えっと、あっちです! なんか……めっちゃとんがった屋根がある方向!」
エクサが指差すほうを見れば、雨にかすむ街並みが見える。
建ち並ぶ家屋はどれも尖った屋根をしており、エクサが示しているのがどの屋根なのか判別がつかない。
「……こちらの方角だな?」
細かいことは置いておいて、レイドルフは指が向く先に跳んだ。屋根伝いに跳んで、跳んで、指が示す方向を確認してまた跳んだ。
降りしきる雨のなか道行くひとは空を見上げること無く、屋根のうえを跳び回る人影に気づいた者はいなかった。




