第77話 怒りの究極体
ふらつきながら、なんとか電車に乗って自宅の近所まで帰ってきた。
「はあ、はあ、はあ……」
でも、息が切れる。そろそろ限界だ。
電話で少ししゃべりすぎた。
「はあ、はあ、はあ……」
あと一歩動いたら倒れそう、そんな状態でなんとか踏みとどまっていたとき、思いつく。
師匠の家で、休憩させてもらおう。
自宅までの道から外れて、裏路地へ入り、師匠の家に向かう。
門をくぐって庭から裏へ回り、道場の扉を開けた。
鍵は開いたままだった。だが、人の気配は感じない。
そういえばアルバイトを終えて久しぶりに師匠の家を訪れたあのとき、いたるところの鍵が開けっぱなしだった。
きっと師匠は、璃莉の死を聞き、ショックのあまり鍵をかけるのも忘れて家を飛び出したのだろう。
……挙げ句、記憶障害にまでなってしまった。
悲惨ないきさつを推測しながら、ついに体力の限界を迎えた私は、道場の土の上に倒れ込んだ。
頬に当たる土が冷たい。
「師匠……私のこと……忘れないでくださいよ……」
――『おぬしは誰じゃ?』――
あの一言が脳裏にこびりついて離れない。そうとう効いた。
土はさらに冷たくなる。
私が流した涙が浸ったせいだ。
師匠……
――『おぬし、さっきのは示現流の蜻蛉ではないのか?』――
――『月上京花、これより示現流元師範のわしが、おぬしにその極意を授ける』――
――『忌むべきは剣を惑わす感情であって、剣に乗る感情ならばむしろ解放してやるべきじゃ』――
――『共感はできん。じゃが理解はできる』――
――『孫の恋人が、おぬしのような誠実でかつ、ひたむきに努力のできる人間でよかった』――
――『おぬしは素直ないい弟子じゃ。京花よ』――
師匠は私に新たな剣の道を与えてくれた。
温かく、ときに厳しい指導の下、私は大きく成長できた。
また璃莉との恋が上手くいくようにサポートしてくれて、交際を報告したときは喜んでくれた。
柔軟な発想を持ち、優しさと威厳に満ちあふれた、私にはもったいない師匠。
そんな師匠は、私に対する記憶を無くしてしまった。
璃莉が眺める中、師匠に稽古を付けてもらう。
そんな幸せな時間も、もう二度と起こりえないのだ。
「師匠……」
師匠を失った私は、もう強くなれない。
「璃莉……」
璃莉を失った私は、強くなる意味を失った。
先輩は、きっと剣崎さんが幸せにしてくれるだろう。
でも私は、どうやって幸せになればいいの?
璃莉を失ったと同時に、かけがえのない剣の道までもが崩壊し、今の私は抜け殻同然だ。
これから先、どう生きればいいのかわからない。
道が、ない。
「璃莉、ごめんね」
為す術もなく土に倒れ込む私は、あなたにかっこいいと言ってもらえる恋人ではなくなった。
「師匠、ごめんなさい」
教わったこと全部、無駄になってしまいそうです。
だって、だって、だって。
私の剣に、進歩はもうない。
――『ううむ……稽古以外か……真剣を使った実戦などすれば劇的に進歩しそうじゃが……そんなこと無理じゃし……てか、わしもしたことないから憶測に過ぎんし……』――
真剣を使えば、進歩する?
かつて授かった言葉を思い出すと、私の頭に1つの疑問が浮かんだ。
そういえば、道場の奥に鎮座する剣は、真剣だろうか?
わずかながら回復した体力と、わずかながら湧き上がった好奇心を原動力に、私は這う。
壁に立てかけてあったユスの木刀を杖にして立ち上がり、奥まで向かい、その剣を手に取った。
鞘を抜くと、美しい銀色の刃が姿を現す。
その刃で、左手の甲をかすった。
「……血」
真剣だった。
切り傷がついて、じわじわと真っ赤な血が流れ出す。
こぼれ落ち、道場の土を汚した。
「……血」
もう一度、自分の手を斬り刻む。
今度はより深く。
すると、より多くの血が流れ出す。
「もっと深く、もっと勢いよく斬ったら、人は……」
怪我をする。
それどころか、死に至る。
なあんだ。 あったじゃないか、道。
璃莉をいじめたやつらを、
殺せばいいんだ。
師匠に教わった剣で、璃莉のために腕を上げた剣で、私が復讐を成し遂げる。
それが残された私にできる、唯一の道だ。
自然、目に生気が宿り、どこからともなく力が湧いてきた。
原動力は、怒り。
それは途方もなく大きいけれど、きちんと名前が付くもので。
それを身体に刻みこませるように、もう一度己を傷つけた。
ポタポタとこぼれ落ちる真っ赤な血を眺め、並々ならぬそれを再認識する。
私が抱いた『それ』の正体は、殺意。
怒りの究極体と呼ぶべき、代物であった。
「見ていてね、璃莉。私の復讐、きっとかっこいいわよ」




