第71話 暗闇への序章
12月13日 日曜日
アルバイトは昨日で終了。
今日からまた稽古中心の生活だ。
腕が落ちてなければいいが……。
若干の不安を抱えながら師匠の家に向かったのは、早朝のテスト勉強を済ませた午前9時過ぎのことだった。
道場に着いて、扉を開けた。
……あれ?
中は師匠がおらず、もぬけの殻。
アルバイトが終わったら稽古を再開すると約束していたのに。
少し身体を動かした方が勉強も身に入ると言ってくれたのに。
いつもなら道場で待っていてくれるのに。
はて? アルバイトが昨日で終わること、忘れたのかな?
まあ母屋の方にいるだろう。
そう思い、上がって探してみるが――
いない。
居間にも。
台所にも。
縁側にも。
風呂場にも。
この家に人の気配がない。
ちょっと外出しているのかな?
だが以前のような書き置きは残しておらず、玄関の鍵は開いたままで、それどころか窓の鍵もところどころ開いている。さらに居間の暖房も付けっぱなしでエコじゃない。
不用心だな。
よほど急ぎの用事でもできたのか?
深く考えてもしかたないと思った私は、ひとりで立木打ちを始めることにした。
師匠を待ちたい気持ちもあったが、久しぶりの稽古とあって身体がうずいて抑えられない。
稽古をしていたらその内帰ってくるだろうと楽観的に構え、道場でユスの木刀を手に取る。
しかし……。
正午を過ぎても師匠が帰ってくることはなかった。
電話をかけようにも、私はこの家の固定電話の番号しか知らないし、そもそも師匠が携帯電話を操作するところを見たことがない。
ほんの少しだが不安が顔を見せる中、シーンとした居間でひとり休憩を取る。
静かだ。
師匠も、璃莉もいない。
ひとりは慣れている。
だがこの家で過ごす時間は二人にいてほしい。
ひとりぼっちで退屈した私は疲れが溜まっていたのか、少し居眠りしてしまった。
『あっ、璃莉!』
『……』
『久しぶりね! 元気だった?』
『……』
『璃莉? どうしたの?』
『……』
『璃莉、返事して』
『……』
『ちょっと、どこに行くの?』
『……』
『璃莉! そっちはダメ!』
『……』
『待って! 私を置いていかないで!』
「はっ!」
目が覚めた。
心臓は不快な鼓動を鳴らし、服は汗でびっしょり。
とりあえず、暖房を消す。
嫌な夢だった。
真っ黒な空間で、璃莉と会えた。
それだけなら非常に幸せな夢なのだが、まねかれざる登場人物も。
昨日夢で見た『なにか』だ。
そいつは黒より暗い闇を纏い、不気味な笑みでこちらを覗く。
せっかく璃莉と会えたのに、邪魔だな。
無視しようと思った。
だが、璃莉はそうしなかった。
無視されたのは私の方。
璃莉は私の声に耳を貸さず、『なにか』とジッと目を合わせている。
何度呼びかけても、返事は一切返ってこない。
無視され続け、振り向いてくれもしない。
それどころか、やがて『なにか』に向かって歩き出す。
私が止めても、言うことを聞いてくれなかった。
璃莉は黙ったまま、まっすぐ、『なにか』の方へ……。
追いかけようとしたところで、目が覚めた。
まだ汗が引かない。
恐怖を感じる夢だ。
寂しい思いが、夢となって現われたのかもしれない。
だが……。
いくらなんでもこれは過剰演出だろう。
呼びかけに一切反応せず、闇を纏う不気味な『なにか』の元へ行くなんて、現実離れも甚だしい。
事実、私の現実はもっと明るい。
クリスマスイブに会えるのだから。
あと10日と少しで、幸せなクリスマスデートだから……。
「……あれ?」
頬に伝わる冷たい感触に困惑した。
なぜ私は泣いているのだろう?
こんなのたかが夢。
現実ではないのに。
結局、日が暮れても師匠が帰ってくることはなかった。
私は窓の鍵だけ閉め、帰宅することに。
玄関が開けっぱなしになるが、これは仕方ない。
心配せずとも、すぐに帰ってくるはずだ。
……もし明日になっても帰っていなければ、よほどの緊急事態かもしれない。
そうなったらどうしようか。
そうなってほしくない。
まあ、さすがに明日は家にいると思うが。
楽観的に構えたが、ただの強がりだった。
そうしないと不安に押しつぶされそうだったから。
明日、師匠の顔が見られることをひたすらに祈る。
しかし……。
その祈りもむなしく、翌日、朝稽古の時間に訪れても師匠は帰っていなかった。




