第6話 その味に興味なし……今はまだ
奥の戸口は想像通り母屋に繋がっており、そこから畳敷きの部屋に通された。
そこで師匠に入れてもらった茶をすする。
……師匠に茶を入れてもらうってどうなのかな?
こういうのは私がすべきでは?
でも初めての家で台所に立つというのも気が引ける。
師匠も自分で入れず、ご家族に入れてもらえばいいのに……あれ?
ふと気付く。この家すごく広いけど、他に人の気配がしない。
気になった私は机を挟んで対面にいる師匠に尋ねた。
「師匠はお一人で暮らしておられるのですか?」
師匠は首肯した。
「うむ、子達はとっくに独立しておるし、女房とは三年前死別した」
「あっ……それは……申し訳ございません」
「はっはっはっ。気を使う必要などない」
師匠は笑い飛ばした後、茶をすする。
そして思い返すように遠くを眺め、言葉を続けた。
「最期まで明るく、笑顔の美しい女房じゃった」
「……愛されていたのですね。奥様のことを」
「ふっ。そうじゃな。ここ東京に来たのもあやつのためじゃった」
「え?」
そういえば、なぜ師匠は東京に住んでいるのだろう。
示現流は薩摩、つまり鹿児島が発祥の地。
師匠も私と同じく東京で示現流を知り、会得したのだろうか。
いや、そうなら奥様のために東京にきたという言葉にひっかかりを覚える。
色々と想像する私に、師匠が応えてくれた。
「わしと女房は元々、お互いの出身である鹿児島で暮らしていた。わしは示現流の師範として、女房は昔には珍しくバリバリ働く女性としてな。OLというやつかの」
やはり鹿児島で示現流を会得していたみたいだ。
師匠は言葉を続ける。
「働くことに生きがいを感じとる女房じゃった。当時は女性というだけで、出世コースからは外されとったが、女房は特別じゃった。仕事に対する並々ならぬ情熱と実力で、男連中を蹴散らし、どんどん出世していったわい」
たしかに、昔の女性は専業主婦で家を守っていた人がほとんど、という印象だ。
そんな時代で外に出て働く。周りから希有な目で見られ、同僚からは疎ましがられたかもしれない。
でも、環境に負けず出世していった。
「そんな女房に転機が訪れる。『本社がある東京に行かないか』と会社から告げられたのじゃ。もちろん栄転が約束された道じゃったが、女房はその場で断ったそうじゃ」
「どうしてですか?」
「女房はわしを気遣ったのじゃ。じつは示現流は『藩外不出』。つまり鹿児島を出るということはわしが示現流の師範をやめることを意味する。女房はわしを想い、自らの情熱に蓋をしようとした」
なんと、師匠のことを想って……。
しかもその場でなんて『仕事よりも旦那』、と即決したということか。
「それを知ったわしは思わず女房を怒鳴りつけてしまったわい。『わしがそうしてくれといつ頼んだ。おぬしの喜びはわしの喜び、おぬしのためなら示現流師範を捨てて東京に行ってやるわい』と」
おお……師匠も師匠で『示現流より妻』だったということか……。
「そして東京に来たと言うわけじゃ。師範をやめたわしは塾講師として東京で働いた。じゃが示現流そのものを捨てたわけではなく、こうして己の稽古のために道場は建てたがの」
なんというラブストーリー。映画化したらなにかしらの賞がとれるかもしれない。
タイトルは『蜻蛉より妻を取る』で……。
うん、どうやら私に映画監督のセンスはないらしい……。
しかしそれにしても示現流が藩外不出だったなんて、今の話を聞くと少し融通が利かない掟のように思える。
……ん? ちょ、ちょっと待て。
「あの……じゃあ私に示現流を教える行為ってまずいのでは……」
そう、私は東京生まれの東京育ち、バリバリの江戸っ子である。
示現流が藩外不出ならその掟を言い訳のしようがないくらい破っているが……。
しかし師匠は笑いながら。
「はっはっは、よいのじゃ。大勢ならともかくおぬし一人に伝授していることなど、遠い鹿児島には届くまい。それにもうわしは師範ではないからな。ただのおじいさんが教えているだけだから、文句を言われる筋合いないわい」
ええ……いいのか……。
師匠のかなり強引な理論と軽いノリに困惑していると、
「それにな、わしは鹿児島におるときから、示現流の『藩外不出』が好かんかった」
「なぜです?」
尋ねると、師匠は手に持っていた茶碗を机に置き、真剣なまなざしを私に向けた。
その姿に思わず背筋が伸び、居住まいを正す私。
師匠は諭すように、私に告げた。
「剣の門戸は誰であろうと開かれるべき、だからじゃ」
・・・
「師匠は朝、何時に起きておられるのですか?」
気付いたら夕暮れになっていた。
もう少し稽古したいと思ったが『いきなり無理しすぎると身体を痛める』という師匠の言葉に従い、今日は上がることに。
そして道場の正面口にて、『明日から学校帰りに毎日来るといい』という師匠の言葉に返事をした後、私が先述の質問をした。
「朝五時には起きておる。年寄りは早起きじゃからな」
師匠はそう答えると、顎に手を当て、
「じゃが、なぜ?」
どうやら質問の意図が読めなかったようだ。
なぜだなんて、理由はひとつしかないだろう。
「朝六時にここに来てもよろしいでしょうか? 少しでも強くなりたいんです」
放課後だけじゃなく、朝も稽古がしたい。
その想いで師匠に申し出た。
師匠は呆れたような口調で、
「おぬし……学校へ行く前に汗と土にまみれようというのか……それに無理はいかんとさっき言ったばかりじゃろ……」
「汗も土も気になりません。あと、休息なら学校にいる間に取れるはずです」
「ううむ……」
逡巡する師匠に、力強いまなざしを送り続けた。
すると根負けしたのか、
「わかった。おぬしの熱い想いに応えよう」
朝稽古が決定した。
「ありがとうございます」
私は礼を取る。
今は剣を握ってないからいいだろう。
「ただし、若い娘が汗と土が気にならんようではいかん。稽古終わりにうちの風呂場で流してから行きなさい。あと軽食も用意しよう」
その言葉に勢いよく顔が上がる。
「そんな……こちらからお願いしたのに迷惑では……」
「迷惑などありゃせん。それに……」
少し間を開けた師匠は、私の頭に手を置いて、
「弟子は師の言うことを聞きなさい」
低く響く声だったが、優しさが溢れた声に感じた。
弟子……。
そう、私は『弟子』なのだ。
師匠が師匠なのだから、私は弟子。
考えたら当たり前のことだが、今初めて実感に至った。
なんだかむずがゆいような、嬉しいような、不思議な感覚だ。
「はい! 師匠!」
背筋を伸ばし、返事をする。
「うむ、では明日の朝、待っておるぞ」
師匠は手を片側の袖に戻し、微笑んだ。
・・・
夕日が照らす道のりを歩く。
帰路に着いている途中、師匠と奥様の話を思い返していた。
師匠は奥様のために、示現流師範を捨てた。
できることなら師匠も鹿児島の地で示現流師範を続けたかったはず。なのに奥様の気持ちを優先した理由って……?
少し考えて、なんとなく答えが出た。
というより、既に出ていた答えをなぞっただけだが。
ラブストーリー、蜻蛉より妻を取る。
まあ、疑似作品のタイトルはいいとして、答えはすなわち、大きな愛。
師匠は奥様のことを愛していたから。好きだったから。
言葉にするのは簡単だが、その中身は複雑怪奇である。
なぜかって、私が恋を知らないからだ。
私は恋とは無縁の人間。
『恋』という単語が脳にあったかどうかも怪しいレベルで。
だから師匠がどのような想いだったか、よくわからない。
うーん。うーん。うーん……。
どれだけ頭を捻っても、想像なんかできやしない。
まあいいか、私にラブストーリーなんか、始まるわけないし。
そもそも、興味ないし。
・・・
翌日から、私の生活は変わった。
朝、五時に起きて朝食を取り、師匠の家に向かう。
そして六時から二時間稽古。
部活時代も朝練はあったが、これほど早い時間から剣を握ることは初めてだった。
その後はシャワーと軽食を済ませる。
師匠の作るご飯はとてもおいしかった。
なんでも奥様が亡くなって以降自炊を続け、上達したらしい。
学校へ行き――。
授業が終わると脇目も振らず道場へまっしぐら。
そこから完全に日が暮れるまで稽古に明け暮れた。
休日は朝から晩まで。
きついが、やめたいと思ったことはなかった。
「振りが弱くなっとるぞ! もうへばったのか!」
「そんな振りで敵が倒せるか! 一振り一振りに魂を込めろ!」
「示現流は『一の太刀を疑わず、二の太刀要らず』じゃ! 一撃で相手を仕留めることを意識しろ!」
・・・
そして月日は流れ、今日で稽古を始めてから一ヶ月。
「998、999,1000!」
肩で息をする私、しかし倒れ込むようなことはしない。
「ふむ、見事じゃ京花。少し余裕も出てきたの」
実は一週間前に素振り千回三セットは成し遂げていた。
初めて達成したときはその場に倒れ込んでいたが、師匠の言うとおり今では余裕もある。
最後まで型を崩していないと自負できるし、何ならもうワンセットくらい可能かもしれない。
「一ヶ月間よくやりきった。では明日より立木打ちを行う」
「はい! 師匠!」
己の成長が実感できる一ヶ月だった。
これからも鍛錬を積んで、もっともっと強くなる。
私にあるのは剣の道だけ。
それしかない。