第19話 王子様にはなれない
『璃莉、その隣の男はだれ……?』
『璃莉の王子様です! お姉様も祝福してくださいね』
『そ、そんな……じゃあ私は……私はどうなるのよ……?』
『どうなるのって……』
『私は、璃莉にとってのなに……?』
『えーと……』
『お姉様はお姉様ですよね』
――ハッ!
目が覚めて、上半身だけがはねるように起き上がる。
真っ暗な部屋の中、聞こえるのは掛け時計が秒針を刻むわずかな音のみ。
その音が、先ほどの悲劇が夢であったことを教えてくれる。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
乱れる呼吸。
「はあ……」
そして大きく息を吐く。
まさしく悪夢だった。
登場人物は三人。
ドレスで着飾った璃莉と、その隣に立つ顔が不鮮明な男。そしてそれを遠くから眺める私。
私は璃莉に尋ねる。『その隣の男はだれ』と。
しばらくやりとりの後、最終的に璃莉からは衝撃の言葉が。
『お姉様はお姉様』
夢から覚めた今でも脳に響き、突き放された気分になる言葉。
だがその言葉で、昼間覚えた一ミクロンの違和感の正体が分かった。
私は響きのよさだけに踊らされて、その本質を考えようとしていなかったのだ。
お姉様。
特別な言葉のように聞こえるが、とても簡単に言い換えることができる。
そう、姉。
つまり璃莉は私に対し、年上の女性として姉のような存在になってくれることを望んだのである。
そして、それは私の求めるものとは相違する。
私は璃莉を妹にしたいわけじゃない。
璃莉の恋人になりたいのだ。
親交が深まったように思えたが、璃莉と私ではゴールへの方向性が異なる。
それが違和感の正体だったのだ。
真っ暗闇の部屋が、今の私の心を体現していた。
ああ、そうだ。
こんな単純なこと、なぜ気付かなかったのだろう。
私は女。
したがって璃莉の恋人にはなれない。
璃莉の、王子様にはなれない。
身体が動かない。
下半身を布団から出すことも、布団に潜ることもできない。
止まることのない秒針の音を耳にしながら、私はただ涙を流して震えていた。
・・・
その夜は、結局眠れなかった。
身体を起こしたままずっと泣いていたからだ。
どのくらい泣き続けたのだろうか。カーテンの隙間から光が漏れていることに気付く。
時計を見ると、五時前だった。
洗面台に行き、顔を洗おう。
今日も朝稽古があるのだ。泣いている場合ではない。
立ち上がろうと、足を布団から出し、床に着けた。
だが足に力が入らない。立ち上がれない。起き上がれない。涙が止まらない。
何度試しても、無理だった。
心を奮わせようとしても空回り。
次第に何かがプツッと切れて、ベッドに倒れ込む。
そしてまどろみへと落ちてゆく。
・・・
意識を失ったような眠りから覚めた。
眠っている間に、涙は止まったようだ。
時刻を確認すると、もう十時過ぎ。
朝稽古も学校も、サボってしまった。
本当なら慌てふためき、電話の一本でも入れるべきなのだろうが、今の私はなぜだか落ち着いていた。
そんなこと気にならないくらい、追い詰められていたのだと思う。
立ち上がってみようと試みる。
すると今度はなんとか立ち上がれた。
ふらふらした足取りで洗面台に向かい、鏡を見る。
本当にひどい顔だった。
涙の跡がくっきりとつき、目が真っ赤に腫れ上がり、その下には隈ができていた。
顔を洗う。涙の跡は消えても、目の腫れと隈は消えない。
もう一度洗う。まだ消えない。
もう一度、もう一度、もう一度……するとまた、涙がこぼれてきた。
腫れと隈の除去を諦めた私は、部屋へと戻り、なにをするわけでもなく黄昏れていた。
ベッドに腰掛け、うつむいて、時の流れだけに身を委ねる。
太陽が昇りきったとき、家の固定電話が鳴った。
セールスか、あるいは昼休み中の教師だろう。
いずれにせよ部屋を出てまで受話器を取る気などない。
いや、おそらく部屋に子機があったとしても取らなかった。
やがて着信音が根負けする。
それを確認し、「ふう」と息を吐くと同時に、私はある思いに駆られた。
とりあえずジャージにだけ着替え、なにも持たずに外へと繰り出す。
師匠にだけは、謝っておきたかった。
ひとまず、いつものように道場へと向かった。
時間は昼過ぎ。
母屋にいるに違いないだろうが、習慣化されたものもあって、なんとなく道場の扉を開ける。
目の前の光景に、私は驚いた。
師匠がいたからだ。
目をつぶり、板張り部分に腰掛けていた師匠は、私の存在に気付く。
しばらく無言で私を見た後、木刀を手に取った。
そして、「どうじゃ?」と一言。
腫れ上がった目とボサボサの髪が、なにかを悟らせてしまったのだろう。
『朝稽古は?』『学校は?』などとは尋ねず、稽古をするかという意味の『どうじゃ?』をただ一言。
私はその優しさにまた涙がこぼれそうになるのをこらえ、「はい」と返答。
謝るタイミングもくれない、これが師匠の懐の深さだった。
木刀を振りながら、璃莉を想う。
璃莉は、私のような同性から『好き』と告げられたら、どんな反応をするだろうか。
少し前、女の子同士については色々知った。
そう、アダルト動画を見るきっかけとなった、女子トイレでの会話だ。
あのふたりがどうなったかなんて、今もなお、私の知るところではない。
だが、もし付き合うようなことがあったとしても、そんなのは例外。普通ではありえない。
『璃莉は王子様に憧れているの?』
『もちろんです! 女の子なら誰だって憧れますよ』
昨日の会話がよみがえる。
王子様に憧れる璃莉が、例外ではなく普通であることは誰が見ても明らかであろう。
そして私は女だから、王子様にはなれない。
だから、もしこの想いを打ち明けたりしたら、きっと拒絶される。
……なら、もういい。
この関係を、壊したくない。
叶わぬ恋を追い続けていても、辛くなるだけだ。
お茶しながら、他愛もない話に花を咲かせる。そんな現状維持で十分じゃないか。
あるいは璃莉が求めているであろう、姉としての役割に徹してみてもいい。
私は『お姉様』なのだから。
想いに蓋をすると同時に、斬っ先が軽くなったのを感じた。
振るう剣に、覇気がなくなる。
私の太刀筋は、元の淡泊で無機質なものへと戻ってしまった。