第18話 お姉様
「月上さん、二巻はどうでしたか?」
波瀾万丈のレイン交換を終えた私達の会話は、『オレ様王子の異世界転生物語二巻』へとシフトした。
私は鞄の中から本を取り出す。
この二巻、璃莉が言っていたように、王子様の恋心を魅力的に描写したシーンが多数あった。
前半部分は一巻と同じく異世界での冒険の様子だが、後半から主人公である王子様の過去編が始まり、初めて王子様の過去が明かされることに。
大国に生まれた王子様。
恋を経験したことがない彼は、すぐそばまで迫った同盟国のお姫様との婚姻を煩わしく思っていた。
好きでもない相手と政略結婚、もちろん気乗りはしない。
だが立場上しかたのないことだし、そもそも自分に好きな人などいないではないかと、周りの権力者に定められた運命を受け入れようとしていた。
ところがある日、物語が大きく動き出す。
自国主催のパーティーに参列していた属国のお姫様に一目惚れし、恋に落ちてしまったのだ。
初めて知った恋の味にうろたえながらも、王子様はお姫様に猛アプローチ。
やがてそのお姫様も王子様の想いに気付き、二人が両思いとなるところまで描かれていた。
ストーリー自体はありがちなものだったが、王子様の心情描写は見ているこちらの胸を突くような見事な筆力で、私も思わず熱いものがこみ上げてきたほどだ。
「属国のお姫様との恋、身分の違いを乗り越えて結ばれてゆくさまがとてもよかったわね」
「ほんとそれです! 私も感動しました!」
ハイテンションの璃莉。
すると続けざまに、
「はあ~。王子様とお姫様の恋……素敵ですよね……」
今度はうっとりした様子。
「璃莉は王子様に憧れているの?」
「もちろんです! 女の子なら誰だって憧れますよ!」
またハイテンションになった。
しかし随分と忙しい反応を見せている。よほど恋の話が好きなんだろう。
璃莉の表情を観察し、微笑ましく思っていたところだった。
ふと、引っかかるものが芽生える。
璃莉に聞けばすぐ分かることだが、なんとなく怖い。
返答によっては計り知れないショックが待っているに違いないからだ。
だが、今聞いておかなければいつ聞くんだ。
創作の中とはいえ今は恋の話の真っ最中。
流れとしても不自然じゃない。
ここは勇気を振り絞って……。
「あ、あの……璃莉……?」
「なんですか?」
「ええと、あの、その……」
勇気を出せ私! 璃莉がきょとんとしているではないか。
息を吸って、吐いて……こらこら吐くな!
もう一度息を吸って、今度は覚悟を決めて、
「璃莉って恋人はいるの?」
息継ぎせず、一息で、早口で、若干裏返った声で、璃莉に尋ねた。
瞬間、璃莉から目を逸らす。
恥ずかしさと怖さで、顔なんか見ていられない。
実際はそんなことないのだろうが、返答を何時間も待っている気分。
早く答えが欲しい気もするし、聞きたくない気もする。そんなジレンマの後、
「いないですよ。いたことありません」
璃莉から返ってきたのは私の欲しかった答えだった。
「そ、そうなの⁉」
心がスッと軽くなって、思わず笑顔で璃莉を見てしまった。
おっといけない。笑顔は少し失礼だろう。
とっさに口を真一文字に締める。そして目を見開く。
それを見て、璃莉が笑う。
「あははは、なんですかその変な顔」
私としては無表情を作ったつもりなのだが、ただのおかしな表情になっていたようだ。
まあいい。璃莉が笑ってくれたのなら。
「月上さんはどうなんですか?」
「私? 私もいないわ」
「えへへ、一緒ですね」
そう言ってまた笑う璃莉。
一緒、一緒、璃莉と一緒。なんていい響きなのだろうか。
気を良くした私は、少しの間だけ妄想を捗らせる。
綺麗なドレスに身を包むお姫様と腰に剣を差した王子様。
そしてお姫様の顔が璃莉、王子様の顔が私に変換されて、二人は手を取り合う。
完全に有頂天となっている人間の所業だ。
「お姫様が王子様の呼び方を変えていくところがいいですよね」と璃莉が言った。
たしかに物語のお姫様は王子様と関係が深まるにつれ、その呼称を変化させていた。
初めてパーティーで出会ったときは身分の違いを感じさせる『皇太子殿下』と。
王子様が名前で呼んでくれと言うと『王子様の名前+様』
そして想いが通じ合って以降は王子様の名前をそのまま呼び捨てに。
呼び方ひとつで関係性や想いが読者に伝わるいいシーンだと、私も思っていたところだ。
「私も同感だわ」
璃莉の目を見て言った。
すると璃莉は、私の顔をジーッと見て、その目を離そうとしない。
どうしたのだろうか?
それに、いわゆる見つめ合っている状態のため、恥ずかしくて顔が火を噴きそうなのだが。
……もう耐えきれない。
いったん目を逸らそうとしたところだった。
「璃莉も、呼び方を変えていいですか?」
……え? 呼び方を変える?
「な、なんの呼び方を変えるの?」
「月上さんです!」
はっきり言い切っているが、いまいち意図が掴めない。
「私の……呼び方を変えるの?」
「はい! 『月上さん』ではなんだかよそよそしい感じがして、むずむずするというか……。年上なので呼び捨てはできませんが、璃莉が『璃莉』と呼ばれているように、もう少し砕けた呼び方がしたいんです!」
え⁉ ちょっと待って⁉ それって⁉
物語にて、王子様は恋の相手であるお姫様から『皇太子殿下』と呼ばれるのを嫌い、やめさせた。
それを今の状況とリンクさせると……璃莉は私のことを好きってわけ⁉
物語と違う点はお姫様から願い出ている点だが、これはこれでいい! すごくいい!
……いやいやいや、それはさすがに話が飛躍しすぎている。
璃莉が物語に感化されていることは間違いなさそうだが、私を好き、というのは無理があるだろう。
とまあ、ひとりで盛り上がってひとりで冷静になっていると、璃莉が捨てられた子犬のような目つきで私を見ていたことに気付く。
「だ、だめですか……?」
胸を貫かれたかと思った。
なんて、なんてかわいいんだ。
もちろん全然だめではないし、この目を向けられてだめと言える人間がいるのなら連れてきてほしい。
それくらいの破壊力だった。
「まったくだめじゃないわ! なんでも好きに呼んで!」
「はい!」
ぱあっと、明るい笑顔で返事をする璃莉。
うんうん、子犬モードもいいが、やはり笑顔の璃莉が一番だ。
さあなんて呼ばれることになるのだろう?
物語の通りだと『名前+様』だから『月上様』
いやいや、さらによそよそしくなっているではないか。
では一段階とばして呼び捨て……はできないと言っていたし。
うーん、物語を無視して無難に考えると『京花さん』ってところかな。
なんて想像をする。
しかし璃莉が考えたのは予想だにしない呼び名だった。
「じゃあ……『お姉様』と呼んでもいいですか?」
「お、お姉様……?」
思わず聞き返した。
そりゃそうだ。無数にある脳細胞のうち、この呼び名を想像できたものがどれかひとつでもあっただろうか。
脳に一ミクロンたりともそんな言葉は存在しないのだから無理に決まっている。
聞き馴染みのない言葉に困惑していると、璃莉もそれを感じ取ったのか、
「だめ……ですか……?」
またも子犬モードになってしまった。
「だめじゃないわ! お姉様、気に入ったわ!」
即答する。
よく考えてみれば『お姉様』という呼び名、『月上さん』より親しみが込められているのはもちろんのこと、特別な感じもするし、なにより音の響きがいい。
お姉様、お姉様、お姉様……。
うん、いい。早く璃莉の口から聞きたい。
その願いに、璃莉はすぐ応えてくれる。
「えへへ……お姉様……」
照れ笑いしながら私を呼ぶ璃莉。
ただそれだけなのに、どうしてこんなにも柔らかで、かつ刺激的なのだろうか。
私は幸せな新感覚に包まれる。
……あれ?
しかし同時に、それこそ一ミクロン程度だが違和感も覚える。
なんでだろうと、疑問に思う時間は少なかった。
璃莉が言葉を続ける。
「お姉様、三巻の発売はまだまだで、本の貸し借りをするわけでもないですが、来週もまたここで会ってもいいですか?」
違和感は遙か彼方へ行ってしまった。
「と、当然よ! 璃莉!」
会ってもいいですかって、断るはずがないであろう。
意味もなく会う。
意味がないことに、余計魅力を感じた。
・・・
その後師匠が帰宅し、璃莉は帰宅、私は稽古と相成った。
稽古の最中、師匠に『なんじゃその顔は』とにやついた表情を指摘されるほど、私は浮かれていた。
レイン交換。
恋人がいない璃莉。
お姉様。
と、今日は収穫が多すぎてつい顔に出てしまったのだろう。
いけないいけない、稽古に集中しなければ。
とは言ってもやはり、璃莉のことを考えてにやにやしてしまいそうになる。
いい気なものだ。でも今はしかたがない。今は。
数時間後、一ミクロンの違和感の正体が判明し、涙をこぼすほど悲しむことになるなど、今はまだ知るよしもないのだから。