第13話 褒美の芋羊羹
――六月末――
「へぷち!」
道場の外からなにかの音が聞こえた。
夕稽古中が始まる直前、これから木刀を握ろうかとしていたタイミング。
私と師匠は腰ほどの高さに位置する格子状の窓に目を向ける。
音がそこから聞こえてきたからだ。
窓の外では音の主らしき人物がとっさに身を隠したが、私の目は一瞬早くその人物を捉えていた。
「……璃莉?」
窓の横で身を隠しているであろう人物に尋ねる。
あれはたしかに璃莉だった。
すると数秒後、窓からひょこっと顔を出して、
「えへへ……見つかっちゃいました……」
璃莉が舌を出したかわいく登場してみせた。
なぜそんなところに?
一番最初に抱く感想はそんなところなのかもしれない。
普通ならば。
だが私は違った。
ああ、なんてかわいい。
登場の仕方とか所作一つ一つがかわいい。
あと、今の音はくしゃみかな?
随分かわいい音のくしゃみだ。
もう一度聞きたいくらい。
久しぶりに会えたことの喜びで私の脳内はお花畑状態だった。
「璃莉よ、どうしてそんなところにいるのじゃ?」
窓の外にいる孫に向かって通常誰もが真っ先に思うであろうことを師匠が尋ねる。
璃莉は「えーと……」と返答に少し悩むようなそぶりを見せて、
「な、なんとなく寄ったの。今日暇だったから。そしたら道場で月上さんが稽古をやっていたから、邪魔しちゃいけないと思ってここで見ていたの。ほら、月上さん、人に見られると緊張するみたいだし」
なるほど、なんとなくか。そんな時もあるだろう。
そして璃莉はあの時の失敗をそう解釈しているらしい。
間違ってはいないような気もするが大幅な加筆修正が必要である。
正しくは『璃莉に見られるとドキドキして緊張よりひどい状態になる』だからだ。
まあこんなこと本人を目の前にして言えないので今のままの解釈が都合いい。
「道場に入ってきなさい」
「え……でも……璃莉がいたら……」
師匠に声をかけられた璃莉は、私をチラチラ見て逡巡する。
ここで私も『入っておいで』と言えたらいいのだが、あの時の失敗がよみがえり口が開かない。本当は私の姿を見てほしいのに。
歯がゆい思いをしていると、師匠が私に視線を移したのを感じ取った。
それは私を奮い立たせるように力強く、かつ優しい目だった。
「よいな?」
師匠の言葉が全身に伝わる。
ああ、そうだ。なにを怖じ気づいているのだ。
私はなんのために稽古を積んできたのか。
今こそ、その成果を見せるときであろう。
「はい、師匠」
私は力強い視線を師匠へ返した。
・・・
璃莉が道場に入ってきた。
「では京花、立木打ちを始めよ」
師匠に従い、ユスの木刀を持って木の前に立つ。
「……すう……はあ……」
一度大きく深呼吸して、
『忌むべきは剣を惑わす感情であって、剣に乗る感情ならばむしろ解放してやるべきじゃ』
師匠の言葉を思い出す。
私の感情……これが恋なのかは分からないが……
『璃莉に綺麗と言われたい』
『璃莉にかっこいいと言われたい』
『璃莉の笑顔が見たい』
今、剣に乗せるべき感情は、璃莉への想いだ。
璃莉の視線を感じながら蜻蛉を取る。
木刀を持つ己の手に、璃莉の笑顔が重なった気がした。
一振り。
――ガツン!
二振り。
――ガツン!
・・・
「よし、それまで!」
振りが五百を超えたところで師匠の声がかかった。
私はすぐさま師匠に尋ねる。
「師匠! いかがでしたか⁉」
「それなら我が孫の顔に書いてあるわ」
師匠はそう言って、璃莉の方へ目を向けた。
私もそれにつられるように璃莉を見ると、彼女は元々大きな目を見開き、輝かせていた。
これは…良かったってこと……?
期待した。
期待通りにならないことなど世の中たくさんあるが、今回にいたってはその限りではなかった。
「すごいです月上さん! 動きが力強く、綺麗で、繊細で、なんというか……かっこよくて美しかったです!」
璃莉の口からもらって嬉しい言葉が立て続けに並べられる。
その中身は『綺麗』『かっこいい』の欲しかった言葉ふたつのみならず、『繊細』や『美しい』などおまけもついていた。
「京花よ、腕を上げたな。今日の朝稽古まではまだ不完全な部分が多かったが、本番でここまで上達するとは恐れ入ったわい」
師匠には申し訳ないが、璃莉の言葉の余韻に浸ってしまいろくに耳に入ってこない。
まあ、なんとなく褒められているのは分かるが。
「……本番?」
璃莉が師匠に目を向け、なにかをボソッと呟いた。
その言葉は残念ながら聞こえなかったが、不思議そうに首をかしげる姿もかわいくてしかたがない。
「完成までだいぶ近づいたの」
うんうん……師匠にまたもお褒めの言葉を……ん?
近づいた?
「師匠、まだ完成ではないのですか?」
尋ねると、師匠は呆れたように私を見た。
「なにをいうか。そんなに早く頂にたどり着けたら苦労せんわい。完成までは近いようで遠いぞ。あと少しを乗り越えるのが一番困難じゃからな」
たしかに。
テストで10点上げると言っても、0点から10点にするのと90点から100点にするのとでは難易度が桁外れだ。
頂点までの道というのは、進めば進むほど一歩にかかる負荷がどんどん大きくなる。
師匠はそういうことを言っているのだろう。
「とはいえ、今日はここまで頑張ったおぬしに褒美をやろう」
褒美?
そんなもの求めていないのだが。
というかなにかを差し上げるのならば私から師匠に、が筋ではないのか。
なにせ毎日無料で稽古をつけてもらっているのだから。
以前そのことが気になった私は、『月謝などは……』と申し出たことがあった。
しかし師匠は『ははは、そんなものはいらんわい。そもそもわしからおぬしをこの世界に導いたのじゃからな』と笑い飛ばしてくれた。
師匠のその豪快で寛容な姿勢には敬服のほかない。
だが私としてはなにかお礼のひとつくらいしたいところだ。
「いえ……そんなものいただけません」
「やると言うとるものを断るでない」
断ってはみたが、師匠はそれを許さない。
うーむ。以前にも似たようなやりとりがあったな。
たしかその時は『弟子は師匠の言うことを聞くもんじゃ』だったかな?
師匠の口から弟子と直接聞けて嬉しく思ったものだ。
まあ、今回も師匠の言うことを聞いて、よほど高価な物じゃない限りもらっておくとしよう。
「ちなみに、その品はなんですか?」
ここで宝石とか渡されたらどうしようか。
いやいや彼女へのクリスマスプレゼントじゃないんだから、さすがにそれはないか。
「うむ、それはな」と師匠。
いったいどんな物をくれるのだろうか。
「芋羊羹じゃ」
……え? 芋羊羹?
師匠から高価とはかけ離れた品の名前が挙げられた。
聞き間違いだろうか。
「えーと、芋羊羹ですか?」
「うむ、芋羊羹じゃ」
どうやら間違いないようだ。
芋羊羹をけなすつもりはないが、褒美と銘打ってまで渡すようなものだろうか。
宝石を渡されていても困惑していたが、ここまで想像とのギャップがあるとそれはそれで困惑してしまう。
「へえ、月上さんは芋羊羹が好きだったんですね」
璃莉に勘違いされたではないか。
芋羊羹なんて世の中の大多数が好きでも嫌いでもない、お茶請けに出されたら食べる、くらいの位置づけだろう。
だが、これからその芋羊羹をくれる師匠と笑顔の璃莉に向かってそんなこと言えるわけがない。
「え、ええ、まあ……」
つまるところこういう反応になってしまうのだ。
「では京花よ、今日は天気もいいし縁側で茶でも飲みながら食べるとよい」
あ、今食べるのか。
一瞬、芋羊羹は芋羊羹でも一年分の量かもしれないと、はがきを送って応募する懸賞の景品めいた物を想像したがそうではなかったようだ。
もし一年分の量ならば今食べろとは言うまい。
そんなこと、弟子を糖尿病にさせるようなものだ。
「璃莉よ」
師匠は視線を私から璃莉へ移す。
いったい璃莉になにを言うつもりだろうか。
「もちろんおぬしの分もあるから茶を入れて京花と共に食べるとよい」
……え?
……え⁉
……え!