第10話 璃莉と乱れた太刀筋
「璃莉」
「はい」
「璃莉」
「はい」
「璃莉」
「はい」
私があの子に向かって「璃莉」と呼ぶ。
あの子は笑顔で「はい」と答える。
私があの子に向かってまた「璃莉」と呼ぶ。
あの子はまた笑顔で「はい」と答える。
私があの子に向かってまたまた「璃莉」と呼ぶ。
あの子はまたまた笑顔で「はい」と答える。
それだけのことを何回も何回も続ける。
そして何回目か分からないほど続けた後……私の目が捉えたのは自室の天井だった。
現状を把握するのに時間は要さなかった。
あっ……さっきの夢だったんだ……。
なぜあんな夢を見たのかは分からないが、すごく心地よかったと、夢の残り香が教えてくれる。
そして夢の中での笑顔のあの子を思い出し、胸が高鳴った。
苦しいが、悪くない時間だった。
そうだ、二度寝すればまたあの子の彼女に会えるかもしれない。
そう思って布団を被り……すぐに飛び起きた。
いやいや! なにをやろうとしていたんだ私は!
今日だって朝稽古がある。
こんなドキドキした胸とフワフワした頭を引っさげて稽古に行けば昨日の二の舞ではないか。
まだ外から朝日の存在は感じられない。
暗い部屋の中、目をこらして掛け時計を見ると、短針が3にギリギリ届くか届かないかくらいだった。
随分と早起きしたものだと思ったが、昨日八時過ぎには寝ていたことを鑑みると、これでも寝過ぎなくらいだ。
私は部屋の電気を付け、窓を開け、その場に座り込んだ。
今日の朝稽古はちゃんとやらなければ。二連続で失敗など許されない。
心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。あの子のことを忘れ、剣の道一色の頭に戻れるように……。
・・・
授業が終わり、私は夕稽古に向かう。
その足取りは力強く、顔からは自信がにじみ出て、まさに意気揚々といったところだ。
なぜか。
それは今日の朝稽古が上手くいったからだ。
今日の朝稽古は胸が高鳴るなんてことはなかった。
いい集中力で取り組むことができ、師匠からも『完全に調子を取り戻したな。いい太刀筋じゃ』とお褒めの言葉を頂いた。
昨日のあれがなんだったのか、いまだ原因ははっきりしないが、もう大丈夫だろう。
そんなことを考えていると、道場の前に着いた。
もしあの子が今日もいたとしても、昨日の二の舞にはならない。
まあ、そもそも今日もいるなんてこと、起こりえないと思うけど。
道場の扉を開ける。
真っ先に目に飛び込んできたのは……。
――ドキッ
……あれ?
――ドキッドキッ
……なんで今日もいるの?
――ドキッドキッドキッ
……なんでまた胸が高鳴るの?
――ドキッドキッドキッドキッ
……胸の高鳴りは克服できたんじゃなかったの?
固まる私と彼女は目が合った。
「あっ、こんにちは! 月上さん!」
その笑顔に、胸がパンクしそうになる。
頭の中が、あの子一色になってしまった。
色々と疑問はあるが、必死に平静を装いつつまずはあいさつを返すことを試みる。
「こ、こんにちは……り……」
璃莉、と呼びかけようとして口をつむぐ。
そしてなぜ今朝あんな夢を見たのか分かった。
そう、呼びたいのだ。
彼女を、下の名前で、『璃莉』と。
だが勇気が出ない。
別に下の名前で呼んでもなんの問題もないはずだ。
というか、そもそも勇気が必要なことが問題である。
出会って間もないとはいえ、私達は女同士。しかも私が年上。
これが同級生の男女とかなら片方がよほど気さくで明るい性格をしていない限り下の名前では呼ばないとは思うが、そんな関係ではない。
さあ呼ぶんだ私! はっきり! 璃莉と!
「……城之園さん」
へたれか私は。
なんでこれだけ勇気を振り絞ったあげく下の名前で呼べないのか。
「あはは、私の方が年上なんだから呼び捨てでいいですよ」
なんと、彼女の方から申し出たではないか。これはまたとないチャンス。
彼女が求めているのなら乗らない手はない。
「じゃあ……り」
璃莉と言おうとしたところで、また口を噤む。
まてよ。
この場合は『璃莉』ではなく『城之園』と呼び捨てにしてくれということではないのか?
もしそうなら『璃莉』と呼ぶと驚かせてしまう。
それに『いきなり距離を詰めようとする馴れ馴れしいやつ』とレッテルを貼られて、いい印象を持たれないかもしれない。
「あ、城之園……」
ほら、やっぱり。ぬか喜びだったんだ。
やはりそう簡単に『璃莉』と呼べない運命なのか。
私が最初から『璃莉』と呼んでいたらこんなことにはならなかったのに、へたれたせいで『城之園』としか呼べなくなってしまったではないか。
「……ではおじいちゃんもそうだから、なんだか変な感じになっちゃうし、璃莉と呼んでください!」
一瞬思考が停止した。
え⁉ え⁉ え⁉ え⁉ え⁉
今、璃莉と呼んでと言った⁉
私の聞き間違いじゃないわよね⁉
璃莉と呼んでいいの⁉
呼ぶわよ⁉
いいのね⁉
せーの……。
「こんにちは……璃莉……」
よっ……呼んだぞ私は! 璃莉と!
いつの間にか逸らしていた目を璃莉へと向ける。
すると璃莉は笑顔で、
「えへへ、こんにちは月上さん」
もう一度あいさつしてくれた。
ああ、ことを成し遂げた後だからか、今はその笑顔がさらに光って見える。
それに、なにその『えへへ』尋常じゃないくらいかわいいんですけど⁉
テンションが上がりきって性格とはかけ離れすぎた脳内になる中、もっと話したいと会話を試みる。
「あの……璃莉はどうして今日ここに?」
「いちごを届けに来たんです! 今日は忘れなかったですよ!」
……いちご? 今日は忘れなかった?
はて、どういうことだろう。
てか、そもそも私は璃莉が昨日なにしにきたのか知らない。
もしかしたら出会って直後、呆然としていたからその時に師匠と話していたのかもしれないが。
まあ、大方想像はつくし、詳細はどうでもいい。
大切なのは璃莉と話を続けることだ。
「そう。学校帰りにそのまま寄ったの?」
「いえ、一旦帰宅しました! 今日から中等部は三者面談だから午前で終わりなんですよ! 私は明日ですし」
三者面談、そういやそんなのもあったな。
生徒・親・教師の三名で話し合う、生徒にとって自分の番じゃない日はただの午後休暇になるあれである。
公立中学校が家庭訪問を行う時期、あらゆる地域から生徒を集める私立の五木学園中等部は代わりに三者面談を行う。
そこではよほど素行が悪い生徒を除き、本来成績のことを中心に話が進められるのだが、私は去年、教師から『もう少し愛想良く』や『自分から歩み寄って友達を作れ』だの余計なことを言われて大変うざったく思ったものだ。
まてよ、高等部もたしか夏には三者面談を行うはずだ。
ということはまたしても同じような話をされる可能性があるのか。それは非常に面倒くさい。
かと言ってじゃあ友達を作るのかと問われたら、そんなことはしないと即答するけども。
さて、三者面談は置いといて次は何の話を……。
うーん。うーん。うーん……。
話の種が思い浮かばない。
会話はキャッチボールに例えられたりするが、そうだとしたら次は私がボールを投げる番。
私が何か言うべきなのだ。
さあ、なにか言え!
さあ! 私!
「……ふうん、そう……」
コミュニケーション能力が低すぎる。
これでは会話じゃなくてただの相づちではないか。
こんなことなら普段から会話の練習をしておくべきだった。
あれ? それならば三者面談での教師が正しいということにならないか?
「京花よ、稽古を始めるから着替えてこい」
ああ! 師匠の一言で会話が終わってしまった。
璃莉と話すことはドキドキして苦しいが、同時にフワフワした幸せも味わえる悪くない時間なのに。
もっと話したかったのに。
もっとその笑顔を見ていたいのに。
……って、私はなにをしにここに来ているんだ! 稽古だ稽古! 本質を見失うな!
どうも璃莉といると調子が狂う。
私はなにかをはたき落とすが如く、両手で頬をパンパンと叩き、着替えのため母屋へ向かう。
突然の動作に驚いた璃莉と師匠の目が丸くなっていたが気にしない気にしない。
気合いを入れたとでも思っていてくれ。
私は稽古の時、道着を着たりジャージを着たり、その時の洗濯事情によって様々だった。
そして昨日の夕稽古はジャージで、今日の夕稽古は道着だった。
道着を着て道場に戻ると、
「わ! かっこいい!」
璃莉がキラキラした目をこちらに向けてきた。
その言葉と目に、私の心は弾み、胸が踊る。
綺麗とは違って、かっこいいと言われたことは今までにない。だがこんなに気分のいい言葉だとは知らなかった。
いや……あるいは……璃莉だからなのか……?
そのあたりはまだよく分からない。
とりあえず私はモゴモゴしながら「ありがとう」とだけ返して、師匠からユスの木刀を受け取った。
「今日も立木打ちじゃ。今朝の調子を忘れるでないぞ」
「はい!」
返事をして木の前に立つ。
璃莉が後ろにいるが、大丈夫だ。きっと大丈夫だ。朝と同様にやればいいのだから。
心を落ち着かせて蜻蛉を……蜻蛉を……。
……璃莉が見ている。
……璃莉の視線を感じる。
……もし失敗したら?
……せっかくかっこいいと言ってくれたのに。
……ただでさえ昨日は失敗したのに。
璃莉のことを考え、顔が赤くなる。
失敗が怖くて、顔が青くなる。
いま私はどんな顔をしているのだろう。
中和されて元の色?
顔はそうだとしても、心は赤と青のクレヨンで好き勝手塗ったみたいに、ぐちゃぐちゃだ。
「……京花よ」
師匠の言葉が私を急かすように聞こえた。
本当はそんなつもりはないのかもしれないが、今の私はそれくらい余裕がなかった。
慌てたように木刀を握りしめて蜻蛉を取り、一振り。
力が入らず太刀筋が滅茶苦茶なことは、自分でも分かった。
・・・
肩を落として帰路につく。
あの後すぐに師匠からストップがかかり、またも帰宅命令が出されてしまった。
まったく、これでは昨日の再現ではないか。
いや、昨日よりも悪化しているかもしれない。
足取りが重い。腕も、頭も、体の臓器ひとつひとつまでもが重いとまで感じた。
それなのに今も璃莉のことが脳内のスポットライトに当たり、ドキドキしている。
……やはりこれが恋なのか?
……私は女性に興味があるのか?
わからない。
自分のことなのにまったくわからない。
だが、確かめる方法がないわけではなかった。