運命の境界編 #1 泡沫の夢 Ⅶ
「――っああああ! 消え去れ!」
町の広場に立って僕が一言叫べば、夜空を煌々と照らしていた炎は雨に降られて瞬く間に消えた。
いつになく苛立っていた。もう何をやったって姉さんに罵倒されるだけだ。それなのに町を元通りにしてあげようなんて考えている自分に腹が立つ。だがそんな子供の癇癪みたいな理由で、彼の命を奪った意味が消失するのはあまりにも愚かだ。それに友人や友人の家族たちを見殺しにするのは忍びない。
せめて救いが欲しい。自分の行動が間違っていなかった証左が。
涙が邪魔で何も見えない。
「ぐ、ぅう……」
手に持ったナイフを左腕に突き立て、脈に沿って力任せに切り開く。
石畳の上に血だまりができるが傷はすぐに閉じてしまって、まだ町を直すには全然足りない。
「が、ぁあ……」
膝をついて首にナイフを当て、切り裂く。血が足りなくてぐらぐらと視界が揺れるが、体の奥から血が湧いて出るような感覚もある。四、五回首に刃を当てて、ようやく適量の血が揃った。
血の海の中心に手をついて、願う。
「ごふ、っ……。っは、はぁ……。在るべき、姿へ……!」
戻っていく。
瞬く間に血と魔力が消費され、時を巻き戻すかのように建物が元の形に向かっていく。壁が浮き上がり、屋根が穴を閉じていく。剥がれた石畳は秩序立って並び、吹き飛んだガラス片が雪のように踊る。
血溜まりが使い尽くされたころ、そこに在ったのは侵略者が訪れる前の町並みだった。
僕は足元が覚束ないまま立ち上がり、今度は大通りを走る。
血まみれの僕に遭遇すると、町の皆はぎょっとした様子で迎える。僕はそれを無視して思いきり叫んだ。
「――っ、みなさん、聞いてください。今から、怪我人の手当てを、行います。……動ける方は、重篤な方を、連れてきてください。絶対、全員、治しますから……、お願いします……!」
数分後、僕の周りに人が集まりだした。人の数が増えるほど、血と屎尿の香りが強くなる。できれば二度と嗅ぎたくなかった、人の死の匂いだ。
町の少女たち、物知りのおじいさん、学校の先生。知人も、顔だけを知っている人も。皆、酷い火傷と裂傷を負っていた。辛うじて生きている人もいれば、既に絶命して誰かが泣き縋っている人もいる。
僕は自分にナイフを押し付ける。
それを見て悲鳴を上げる人もいれば、ふざけているのかと掴みかかってきた人もいた。僕は構わず血を飲ませていく。口に含めないときは、傷口に垂らした。やがて僕の行為の持つ意味を知って人が動き始める。重篤なものから順に僕の前に並べ、血を飲ませるのを補助する。回復した者の身を清めに行く。息を吹き返さなかった人もいた。だが僕を責めることは周囲の人たちが止めた。
日が昇ると、まるで襲撃など無かったかのような平穏な町並みが見えてきた。話によると、死者は連邦の兵士を含め五人、怪我人はいなかったという。
それもそうだ、戻せるものは全て、僕が元に戻してしまったのだから。
結果、僕は自惚れた。
僕は家に帰り、恐る恐る姉さんの顔を見に行った。僕の努力を、きっと姉さんが褒めてくれると信じて。
しかし姉さんは僕を見るなりこう言って家を飛び出した。
「あれは弟なんかじゃない、悪魔よ! みんな騙されないで!」
泣き叫ぶでもなく、ただ強く、そう言い放つ。
「何を言っているの、姉さん……? 僕は――」
「弟を騙らないで。あの時、アルマスは死んだわ」
僕はもう何も言えなかった。姉さんは確かにドラゴンに対する忌避感を抱いていた。けれど姉さんは頭が良いから、それで僕を悪く言うなんて思ってもみなかった。勿論、町の人たちは姉さんの正気を疑い、僕を擁護してくれた。駐留軍の兵士たちでさえ、自分たちの基地に損害が出なかったことを何度も感謝していた。
ただ、姉さんだけは僕を責め続けた。まともな会話など成り立たなかった。それが僕の精神にどれほどの悪影響を及ぼしたかは言うまでもない。
戦争が終結して十年が経とうかという頃だった。
ドラゴンの持つ魔力に振り回され凶暴性を抑えきれなくなった僕は、終に姉の手によって封印されることになる。
***
「……ハルマー」
「みあぅ」
僕は、近くで僕のことを観察していた彼女に声を掛ける。灰色の猫は返事をして僕の膝に乗った。二股の豊かな尾を持つ彼女は千五百年来の親友だ。いつもはまるで寄り付かないくせに、こういうときだけは僕に寄り添ってくれる。彼女はごろごろと喉を鳴らして、顔を僕にこすりつけた。
慰められている。
そう感じてしまった瞬間、涙が滲み出した。
「みっ!?」
溢すまいと拭き取るが、そのうちいくつかの雫はハルマーの顔に落ちてしまう。彼女は驚いて跳び上がるが、すぐに座り直してまた喉を鳴らしはじめた。僕はその優しさを甘受して、情けなく嗚咽を漏らす。
「もういやだ……、もうこんな……、いつになったら解放されるんだ……」
僕は未だに、もういない姉さんに懇願し続けている。
事件から二千年が経ったある日、歯車が少しずつ動き出す。