運命の境界編 #1 泡沫の夢 Ⅵ
次の瞬間、そこは空の真っただ中だった。
だが驚きはない。
月明かりの中、鈍色の世界の中で冷たい風を切って落ちていくのが何故かとても心地よかった。
雲を突き破り、視界が開ける。
炎に包まれた町と、金色のドラゴンが見えた。
僕は体に力を籠める。
熱くなった体が幾千幾万の光の糸となって、再構成された。
編み上げられた肉体は氷のように透明な鱗と純白の羽毛で覆われていた。頭部の角が空気を裂く感覚がある。大気を尾で叩けば笛のような音が響き、景色が回転する。真っ白な尻尾の毛がもつれながら視界の端を舞った。
翼に密集する銀色の羽根の、一つ一つが風を受けて震える。畳んだ細い四肢の間を風が抜ける。
僕は町の上空から侵略者を眺めた。
頭上で自分を見ているドラゴンに気づいたのか、侵略者は飛び上がって僕を追う。僕は必死に羽ばたく侵略者を町の外へと誘導し、雪原に降りた。
僕に続いて金色のドラゴンが降り立つ。彼の周囲の雪は熱で融け、周囲に靄がかかった。
雪原にやってきた侵略者は、若い男性の声で異国の言葉を呪詛の様に並べ立てる。僕に分かる言葉は少ないが、相応の覚悟があることは十分に伝わる。
「あなたにも、あなたなりの都合があるんでしょう。でも――」
侵略者は口を開け、口腔に魔力を集中させる。小さな火種が炎となり、劫火となるまで練り上げると、正面に立つ僕に向けて炎の濁流を吐き出した。
その炎は舞い落ちる雪を灼いて、雪原を融かして。
凍る。
「だからといって、僕の姉さんを悲しませるのは許さない」
世界が白く染まっていく。
あまりの吹雪に侵略者は焦りはじめる。視界を奪われたからだ。しかし僕にはよく見えている。暴風雪に侵略者は堪えかねたのか、体から炎を発して空へ逃げた。
侵略者は大きく羽ばたいて速度を上げる。彼が向かう先は建物の密集する地区だ。
「逃がすものか」
僕は追って飛び立つ。自然は僕の意志に呼応するように姿を変えていった。急速に雷雲が肥大し、凶暴な光をその身に這わせる。
低く唸る雷鳴に、侵略者は少しばかり空を見上げると高度を下げ始めた。攻撃を受ける前に市街に紛れ込もうという魂胆だろう。既に身体が糸のようにほどけはじめている。人間の姿に戻ろうとしているのだ。もしそれを許してしまったらこちらは後手に回らざるを得ない。僕は逡巡したのち、意を決して雷雲に力を注ぐ。
瞬間、侵略者に雷が突き刺さった。同時に爆発音に似た音が轟く。侵略者は居住区にほど近いところに雪煙を上げて墜落した。彼はなぎ倒された木々の中から、血を吐いてのろのろと立ち上がる。僕の攻撃で人の姿に戻れなかったのか、侵略者はドラゴンになったままだ。
僕はそんな満身創痍の侵略者の首に食らいつき、捩じ伏せる。突き刺さった牙は羽毛を荒らし、その根元に隠れている鱗を砕いた。僕の口の中へ、そして地面へと血が溢れ出る。鉄の香りと漏れ出す魔力の甘い香りが、命が流れ出ていくのに合わせて空間に充満する。
「――! ――!!」
侵略者は叫びながら炎を出して暴れる。傷口から血が飛び散る。僕は彼の抵抗に吹雪でもって応酬した。
徐々に侵略者の動きが弱まっていく。流れる血にも勢いがなくなっていく。
「ァ……、ティーノチカ、……ッ、……」
そのとき、侵略者の体がほどけた。
牙の隙間から落ちたのは、予想通り軍服の男性だった。襟元が赤く濡れて、染みは広がっていく。
僕は急いでドラゴンの体を解く。広がった光の糸は人の姿に収束し、僕は侵略者だった彼を抱える。
彼の半開きの赤い瞳は徐々に魔力の光を失い、元の緑に戻って瞳孔が散大する。顔には焼け焦げたような跡が見られ、首元にはいくつも穴が開いて血だらけだった。傷跡に触れようと首に手を伸ばすと、チェーンが当たった。引き上げるとそれはまだ仄かに温かいが、外気に晒されてどんどん熱を失っていく。
案の定、手繰り寄せたそれはロケットを身に着けるためのチェーンだった。
僕の口の中が血の味に塗れている。
理性が戻ってくる。何も寒くないのに、内臓が冷えていく。
僕は怖くなった。ロケットの中身なんて、到底確認できるはずもない。
「……こうするしかなかった。こうするしかなかったんだ。早くしないと、姉さんが、うっ、ぅぁ――」
これは生きる為だった。動物を狩るときも同じだった。生きる為に命を奪った。
命を奪わなければ死んでいた。間違いではないはずだ。むしろ間違いにならないために、急がなきゃいけない。泣いている暇はない。まだ僕にはやるべきことがある。動かなきゃいけない。
「ごめんなさい……、ごめんなさい……、ごめんなさい……!」
僕は彼を抱きかかえて、町に向かって一歩踏み出す。
一秒後にはさっきまでいた地下室に立っていた。
木の柱を避け素早く奥へ進む。怪我人を集めた区画に彼を丁重に降ろし、姉さんのもとへ向かった。
「駄目……」
姉さんは血だらけの僕の様子に体を強張らせ、後退る。姉さんが身をよじると、血が服にじわりと滲んだ。
僕は氷でナイフと小さなコップを創る。誰もが固唾を飲んで見守る中で、僕はナイフを手首に強く押し当てた。観衆の中から女性や子どもたちの悲鳴が小さく聞こえてくる。
僕は僕から零れた血を――もはや赤なのか金なのか分からなくなったその血を、コップに満たす。
「飲んで」
「やめて!」
「姉さん、飲んで!」
僕は少々強引に姉さんの顎を押さえ、血を口に含ませる。そして吐き出されないように鼻と口を塞いだ。
「――!? ぅ、んー!! んうー!!」
姉さんは頑なに飲み込むことを拒否して暴れる。僕の手を剥がそうと必死だ。しかしドラゴンになってしまった僕相手に、満足に抵抗できるはずもない。
そうこうしているうちに姉さんの傷が閉じ始めた。姉さんが異変に気付いてひときわ激しく絶叫する。
僕は傷が完治した頃合いを見計らって姉さんを解放した。
その瞬間だった。
「いい加減にして……!」
姉さんの拳が、僕の頬に打ちつけられる。
「……っ」
痛くない。
姉さんにじゃれあいで殴られるのはしょっちゅうだったけれど、今回は例を見ないくらい軽い一撃だった。
きっと何かの間違いだ。
呆然としていると姉さんが泣き崩れる。
僕は姉さんを魔法で眠らせ、怪我人の数だけ血の入ったコップを残してその場を立ち去った。




