運命の境界編 #1 泡沫の夢 Ⅴ
僕はただ姉さんを助けたい一心で、瓦礫だらけの地面に跪く。
「この祈りが届くのなら……力をください! ドラゴンを倒し、すべてを元に戻せるだけの力を――!」
捧げた祈りは爆音に掻き消される。聞こえるのはドラゴンが地を揺らす音や空襲警報だけだ。
神は何の返答も返さなかった。僕の邪な祈りは受け入れられなかった。僕は己の無力さを嘆き呟く。
「……やっぱり、どうしようも――」
その時、閃光が激烈な寒さを伴って飛び散った。
突然目の前で弾けた白い光が、僕を中心に空間を凍らせた。少し遅れて、金属を打ち合わせたような音が何重にも大きく響く。その音の発生源である膨大な魔力の湖は、僕の脳を揺さぶりながら共鳴を繰り返した。足元から噴き出す光の糸が僕の身を削り尽くす様に渦を巻いて――、やがて何かを縁取っていく。艶めかしくうねる透明な線が僕の頬に触れて、続いてすぐに何もない空中に一対の瞳が生まれた。僕は、僕を慈しむ様な虚ろな目に畏怖を感じながらも見据える。
気づけばそこには、柔らかな曲線の身体が在った。
触れる身体に一瞬、母に抱擁されたかのように錯覚する。広がる花のような魔力の香りに父の顔がよぎる。優しく、柔らかく包まれて幼い日々を思い出しかけ――直ぐに現実に引き戻される。
温度が無かった。温かくもなく、冷たくもなく、触れているのに全く実感が湧かない。
「よくぞ祈ってくれた。私はあなたのその勇気を褒め称えよう」
ふふ、と口元に手を添えて笑うお方は、紛れもなく神と呼ばれる存在であった。その笑みは母の様かと思えば無邪気な少女のよう。それでいて底知れない時の流れも感じられる。あまりの威厳に僕は深く頭を垂れた。
その様子を見た女神は、何故だろうか、ぐいと僕の顔を上げさせ立ち上がらせると満足げに微笑んだ。笑うたびに小刻みに身体を揺らし、嬉しそうに僕の周りを浮いて漂っている。方向転換をするたびに、真っ白な裸体をするすると絹のような銀髪が流れ揺蕩い、鈴の音を響かせた。時折毛先や手が僕を撫でていく。僕は神々しさに震えを隠せずされるがままになっていた。
そうしてひとしきり僕を観察し終えるとそのお方は、すっと爪先を床に置いた。僕の顔を爛々とした瞳で覗き込んでいる。僕は言葉を失った口を半ば無理矢理に開くと、畏れ多くも懐疑を洩らした。
「貴方様は……」
「そう改まることはないわ。私はあなたの崇拝する神とは全くの別物。私はただあなたを覗いているだけ。態々畏まる必要はどこにもないの。……何故にとでも言いたげな顔ね? 簡単なことよ」
戯けたようにカラカラと笑ったかと思うと、今度は一転して鋭い瞳を僕に向けた。僕の目を見つめたまま、背伸びをしながら僕の首に腕を回す。白磁の肌と僕の服とが擦過音を立て、柔らかな胸が触れた。どうにも居た堪れなくなって少し抵抗すると、想像を絶する強い力で抱き込まれる。少々不機嫌そうに頬を膨らませると、そのお方は途端に表情を艶やかなものに変えた。
そのお方は耳元で「だって」と言う。そしてあとに続く言葉を小さな声で囁いた。
「アルマスが此処に居るんだもの」
僕は戦慄する。何故僕なんかを見ていてくださったのだろう。混乱する僕を置いてけぼりにしてそのお方はばっ、と手を離す。
「あまり深く考えることじゃないわ」
僕の思考を読んだのかそのお方は不満げに小突いてきた。そして小さなかたちの良い唇に指を添えて、何か考えているようだ。
「先のことを考えると呼び名が欲しいのだけれど……生憎と私に名は無い。始まりの乙女の名でも騙ろうかしら。イヴと呼んで。これからよろしくね、アルマス」
そのお方は心底嬉しそうに声を上げてはしゃぐ。そして唐突に笑いを止め、僕に向き直る。
「さて、アルマスが私に願ったのは、ドラゴンを滅ぼす力、そしてすべて元に戻す力、だったわね」
「……ええ」
上目遣いに僕を見つめながら言う。何か含んだような物言いだ。特に疑問というほどのものを持ったわけではないのだが、ややたじろいでしまう威圧感がある。不穏な笑みを浮かべたそのお方は、僕に裸体を絡ませながら呟いた。
「やっと願ってくれた。やっと……!」
最初はふふふ、と息を漏らしていたが、やがてそれは悍ましい哄笑に変わっていく。僕の肩に手をかけながら身をよじらせ高笑いをするその姿が、そのお方が如何にこの時を待っていたのかを物語っている。
ここまできてやっと、僕は愚かなことを願ってしまったのだと少し後悔した。
「あははははははは!! よく祈ってくれたわ! 私の望みはこれで叶う!」
そのお方は力強く手を振り上げると、何もない所から壮麗な剣を創り上げた。身の危険を感じて素早く後方に飛ぶもそのお方の奇襲を躱す事は叶わない。
「がぁっ……!!」
腹部に貫通する刃。急所をやや外しているようだが、判断力を奪うのには十分すぎる痛みと出血量だ。かろうじて動転していないのは、頭の端に町を襲うドラゴンのことがあるからだろう。僕は何とか剣を引き抜こうと柄に手を掛ける。だが、僕を突き抜けて床に刺さった剣はびくともしない。このお方の力が人智を超えたものだからだ。
「――これで永遠にアルマスの傍に居られるわ」
あの時気付くべきだったのだろう。このお方の言葉は、狂喜は、これに由来していたのだ。
ただひたすらに、願わなければ良かったと強く後悔の念を抱く。不思議と意識が薄まる様子はなく、僕は自分から流れ落ちた水たまりを傍目に何とかこの状況から逃れようと足掻いた。しかしそのお方は微動だにせず、悠々と語り続ける。
「アルマスは奇跡を願ったの。奇跡、どれほどのものか分かる? それはね、アルマス。神の権能なの。今のあなたには到底起こすことのできない現象だわ。ならば、なるしかないわね?」
「何、に……」
「分かっているでしょうに」
イヴの白い指が服の上を這う。
「……苦しいけれど、我慢して頂戴」
途端、散々苛まれ麻痺していたはずの痛覚が、一斉に叫声を上げた。
「くっ、う、あああああああああああああああああっ……!?」
「ア…………あ……忌……解……!」
開いてゆく。皮膚が、肋骨が、肺が、僕の全てが、イヴのために開かれてゆく。ひどく冷たい。寒い。凍ってゆく。冷たい。凍える。流れてゆく。去ってゆく。赤い結晶が咲いてゆく。暗い。眩しい。
イヴの指が、僕の心臓を捕らえる。痛い。苦しい。寒い。僕の中身を蹂躙してゆく。つまみあげて、少し押して、引き摺り出――――。
唇が温かく濡れる。
目を開くと、温度も触感もある裸体の乙女が僕に口づけをしていた。
母がするように優しく抱きしめ、いつの間にか僕の頬に伝っていた涙を拭ってくれる。僕はそのお方に支えられて立ち上がった。
「……アルマス。泣いてないで行ってきなさい」
イヴが僕の背中をとん、と叩く。
「……はい」
僕は確かな熱を感じながら、足を一歩踏み出した。