運命の境界編 #1 泡沫の夢 Ⅳ
記録とは、何処までも絡みついてくる呪いのようなものだ。
口伝とは比べ物にならないほど永く、詳細に、言葉を残す。そしてもし機会が与えられれば、記された情報はその精細さを欠くことなく拡散していく。
故に『スズランの手記』と呼ばれるそれは、呪いなのだ。
『スズランの手記』は英雄譚が綴られた手帳だそうだ。邪悪なドラゴンの思惑を英雄たちが看破し、最後にはドラゴンを退けるハッピーエンドが描かれているという。そしてそれらのエピソードは全てが史実であり、二千年を経た今でも語り継がれている。
黒竜の終末を告げる物語。それは温かく幸せな結末だった。
――僕以外のすべての人間にとっては。
そうして残酷な世界が出来上がった。退治されたドラゴンは未だ生き続けている。なのに遥か昔に命を終えた彼女が今なおそのドラゴンを呪い続けているのだ。
気づいたら僕はソファの上で失神していて、いつの間にか深夜のドキュメンタリー番組は朝のニュースになっていた。悪夢の内容はいくらかぼやけていて、最悪の寝覚めからは幾分か遠い。
「……姉さん。僕はそんなに悪いことをしましたか?」
独り言に答えてくれる人は誰もいない。
僕は町を襲ったドラゴンを退けるために自らもドラゴンになった。僕は傲慢な愛を神に告白し、それを面白がった神は僕に力と永劫の命を授けた。
僕は無我夢中で町の人々を守った。あの晩に亡くなった人が片手で収まる程の人数で済んだのは僕が命を賭したからだ。そこに僕の驕りや勘違いはないはずだ。
なのに何故、僕は迫害されたのだろう。
いくら問いかけても、答えは返ってくるはずもない。答えられる人は二千年も前に居なくなってしまった。
この夢には多少の続きが存在する。何をきっかけに追憶が始まるのかは分からないが、いつだって邪悪と罵られるほどの非は自分に見出せない。僕はいつまで経っても風化しない記憶を、ほとんど無意識に辿った。
***
この町の危機を告げるのは、ひとりのドラゴンの咆哮だった。
若い男性の声が、短い幾つかの呪文を叫ぶ。それが廃墟の壁に反射して、まるで獣の吠え声のように僕を包んだ。怒号のような呪文は地面の揺れと同時に僕のもとへ届く。
建物の隙間から差し込む光が、迫りくる炎で緋色に染まる。空間はいつもの透き通るような穏やかさからは色相をずらして、町は禍々しい色に包まれていた。
知らされていない。
誰もが叫ぶが、過ぎたことだった。逃げる間もなく町は燃やされ、人々は倒れ伏す。軍の助けもなく、異国の言葉で死を宣告され、ただただ町は壊されていった。そして今も破壊は進んでいて、行動を起こさなければ死者が増えることは目に見えていた。
僕は鉄骨が剥き出しになったブロックの上に立ち尽くし、この町を侵略するドラゴンを眺めた。繕いだらけの服が、冷たい風に吹かれ僕を小さく叩く。
僕らを追うのをやめて町の中心へと向かったドラゴンは、赤い翼を羽ばたかせ高射砲の砲弾を避けていた。合間に魔法を繰り出し、帝国の基地を焼こうとしている。
ドラゴンの魔法による衝撃が僕の立っている場所まで到達するが、恐らく駐留軍は無事なのだろう。大きな空間の歪みが上空に現れて基地や市街地の一部を覆い、そこに当たったドラゴンの攻撃を悉く停止させる。駐留軍のエース――姉さんの大切な人が、必死に食い止めているのだろう。
だが攻撃に転じないことや守備範囲を広げないことをみるに、余裕はない。高射砲ではドラゴンを撃ち落とせないようだし、待っていても危機は脱しないだろう。
無情に近づいてくる刻限の中、二つの選択肢が頭を何度も廻っては過ぎていく。
いつ来るのかも分からない助けを待ち続けるのか。
僕が命を捧げてドラゴンに成り、あの侵略者と戦うのか。
もし僕がドラゴンに成るのなら、侵略者を――ドラゴンを殺すため戦うことになる。そうでないのなら姉さんを含め大勢が死ぬかもしれない。ただし、仮に僕が戦うことを選んだとして、それでみんなが救われる保証もない。既に多くの人が重傷を負っている。
揺らぐことなく心に在るのはひとつだけ。唯一の肉親である姉さんだけは幸せであってほしいという想いだけだ。だがその決断で自分自身が報われないのも怖い。決断の先にあるのは、罪を背負うか、または僕が死ぬかどちらかの道。
戦時下で、状況が状況だから責任は問われないだろう。けれど明確な理由があったって相手を殺すのは怖いし、それは紛れもなく罪だ。使命があっても神の認めるところではない。
正直、従軍もせずにのうのうと暮らしているやつが戦況を知りながら「怖い」だなんて我儘だとは思う。だが理性ではどうしようもない。殺すか殺されるかなんて、いきなり問われたって選べなかった。姉さんを救いたいという想いに身を委ねることがどうしても出来ない。奇跡に縋りたくて仕方がない。
「――僕はどうしたらいい……! どうすべきなんだ……!」
両手を組んで必死に祈る。姉さんだけはどうか、と。
その時、混在し矛盾を起こす願望の中で確かに何かが弾けた。
結局は姉さんが生き残れるなら、僕は何だっていいんじゃないか?祈っているのは自分が死に瀕したこの瞬間でさえ、姉さんの無事だ。そのためには殺すしかないんじゃないか。ドラゴンに成った「誰か」を――。
一瞬で独善的な害意が燃え上がる。
代償もなしに願いが叶うなんて単なる絵空事でしかない。祈るなら、望むなら、捧げるしかない。幸せも純潔も心も、命でさえも。
自分でも吐き気がするようなエゴイズムと聊かの躊躇いの間で、「誰か」の命と姉さんの命を天秤にかける。命の重みに客観的な差異はない。ないけれど、僕の中での価値は圧倒的に姉さんの方が上だった。この際信仰などどうでもいい。命は人の目から見たら平等でも何でもないのだ。
すべては姉さんのために。姉さんの為なら何もかも無価値と見なせる。敵兵だろうが、自分だろうが――、どうでもいい。誰が苦しもうが、誰に恨み言を言われようが、どうだっていい。犠牲になるのが姉さんでないのなら、それは僕の中では絶対的な正義だ。
僕の中の僕ではない誰かに突き動かされるようにして、気づけば制止を振り切って道の真ん中で跪いていた。
「……僕は、今まで通り姉さんに笑っていてほしいんです。この手を汚してもいい、死んだって構いません。でも姉さんにだけは無事でいてほしい。だからどうか、この祈りが届くのなら……力をください! ドラゴンを倒し、すべてを元に戻せるだけの力を――!」