濃紫編 #2 過渡 Ⅴ
シェリルは僕の膝から降りて、隣に腰を下ろす。さっき言っていた「すごくいい話」をするのだろう。
「今から言うのは、めちゃくちゃ大事なこと。もうあたし記憶力の限界だから、全部ロランが覚えておいて。得意でしょ? 一文字も漏らさず覚えるの」
「もちろん。言って」
シェリルは頷いて腕を組み、目を閉じる。
「ロランがまた暴れたら、あたしが巻き込まれる可能性がある。アルマス曰く、その時のためにあたしには自衛手段が必要だって」
もちろん、シェリルが僕の近くにいたとしたら起こりうることだ。また火傷をさせてしまうかもしれないし、もしかするとシェリルのことを殺してしまうかもしれない。だが、そもそも前提に誤りがある。僕はシェリルから離れるつもりだ。
「僕はシェリルを巻き込まないように、離れるつもりだ。だから自衛手段を獲得する必要はないよ」
するとシェリルは僕を上目遣いに見た。頬をつねられるか、足を蹴られそうな雰囲気だ。しかし珍しくシェリルは暴力に訴えなかった。そっぽを向くと僕に寄りかかる。
「あたしはロランが傍にいるって仮定のもとで話を進めたいの。それくらいは理解してよ」
「分かった。話が進まないし、ひとまずその仮定に合わせるよ」
シェリルは何が気に入らないのか、溜息を吐いてから続きを述べた。
「で、自衛手段っていうのが、アルマスがくれる魔道具のこと。ロランは『アルクペライネン』っていう種類のドラゴンで、堕ちやすいのは当然のことなんだって。だから、堕ちてもすぐに止められるように、あたしとロランで一対の魔道具を身につけるの。ロランが暴れ出した時に、あたしが魔道具に魔力を注ぐ。するとロランの身につけている魔道具が、ロランを気絶させる。それで急場は凌げ、って」
「確かに有効な手段だね。だけど、何故僕は堕ちやすいの? その原因に対処できれば、また暴走しなくて済む」
シェリルは僕の言葉に深く息を吐き出した。三秒ほどの間を置いて、シェリルらしくない弱い声で答える。
「ないんだって。あたしも散々アルマスに聞いた。けど、ないの一点張り。理論上は可能だけど、その理論を実現できる技術がないーって。現状、暴走することで、今まで吸い込んだ余分な『命』を放出することしかできないらしいの」
「命? 吸い込みすぎるってどういうこと?」
「アルクペライネンって呼ばれる種類のドラゴンは、周りから命を吸収できるんだって。その命を使って生き続けるらしいの。アルマスみたいに。でも命は、吸い込みすぎると出さなきゃいけなくなる。それが『堕ちる』っていう、まあつまり魔力暴走。確かそんな感じだった」
漠然としていて容易に判断はできない。だがアルマスさんがそう言うからには、あまり期待はできないだろう。それに、堕ちないための技術が実用レベルに至ったとして、そのころに僕が何度暴走しているかわからない。
「理解したよ。アルマスさんの提案は合理的だ」
「じゃあ、あとで受け取ろっか」
僕としてはどちらでも構わないので、シェリルに同意する。魔道具を貰ったところで、僕がシェリルに拘束される理由にはならない。彼女がそうしたいと思うのなら、とやかく反対せず放っておくのが一番だ。
シェリルは立ち上がる。僕も、メモ書きにあった一号棟へと移動すべく腰を上げた。しかし、一号棟とやらは一体どこのことを指すのだろうか。構造上、今僕らがいる棟の一階にダイニングなんてありそうにない。先程お借りしたバスルームやその他諸々の水場くらいしか――
「え?」
今さっき上ってきた階段に戻ろうと方向転換をした僕は、つい素っ頓狂な声をあげてしまう。
「シェリル、……何してるの?」
「ここから移動できるんだって」
彼女はそう言いながら小洒落た額縁を指す。填められた硝子の奥には、焦げ茶色の薔薇を咲かせる銀細工が一輪、括り付けられていた。オブジェとしての自然な様相に対し、シェリルの「移動できる」という言葉はまるでそぐわない。シェリルも自分で言っておきながら信じきれないようで、首を傾げながら額縁へと手を伸ばす。
「……硝子の真ん中に触る、だったかな」
まさか、と否定しそうになるが、僕は疑うのをやめる。この建物へやって来られたのも、空間を捻じ曲げるというロストテクノロジーがあったからだ。
そろりそろりと手を近づけ、やがてシェリルの指先が指紋一つない表面に触れる。
硝子の表面に無数の線が模様を描き光る。呼応するように、額縁の中で僕らを静観していた薔薇が花弁を大きく開きながらどぷん、と壁に沈んでいく。続いて額縁も潜っていき、目の前にはただ黒い壁のみが広がる。
「あれ……? シェリル、本当にこれ――」
不思議に思って壁面に触れようとすると、せっかちだと僕を諫めるように壁が揺らいだ。
壁から薔薇の蔦のような銀色の帯が大量に飛び出してきて、互いに絡みつくように長方形をかたどっていく。
続いて銀と硝子の板が壁から滲み出して長方形の枠を埋めると、今度は板の上を這うように蔓が伸びていった。それらはすぐに扉を飾る透かし彫りに変わって、硝子の上を飾り立てる。
不意に生えてきた蔓の一部が取っ手になった。最後の仕上げに、ドアの真ん中に薔薇の蕾が伸びてきて花開き、溶けて表札に姿を変える。
表札の上を光が走り抜けた。轍は溝として刻印され、「三号棟二階廊下」という名前を告げた。
二階の廊下とは怪しい。ドアノブに手をかけ、引いてみる。
「あった」
その先は廊下だった。踏み出して、見渡してみてもちゃんと廊下だ。振り返って閉じられた扉を観察する。目の前のプレートには「三号棟二階展望部屋」と書かれている。さっきの部屋は海が一望できたので、間違いないだろう。
僕は扉を押し開ける。
「ロランは何をしているのかな?」
正面には、平時より二十パーセントほど眉間の皺を深く刻んで仁王立ちするシェリルがいた。
僕は扉をそっと閉じる。廊下を辿り部屋に戻ると、先程と表情の変わらないシェリルがこちらを凝視していた。
「ちょっと確かめてみたくて。僕の家に面白い本があるんだ。具体的な話は一切載っていないんだけれども、古代魔法についてたくさん書かれていて。例えば空間の歪曲と接続は、今となっては太古の昔に失われた技術だけど、かつては実用段階にあったんだ。座標測位の精度や空間の歪曲状態の安定化の観点から実は大量の魔力を供給した状態で常に同じ座標と接続したまま運用するのが」
「はい、終わり」
「へ、終わり? もう少し――」
「だめ」
語りたかったのに。この扉がどれだけの価値を持つものなのか知ってほしかったのに。だが、これだけきっぱり断られたのだから、無視して続けるわけにもいかない。
シェリルは何とか腹の虫を抑え込んだようで、扉へと向き直った。無言で表札に触れ、携帯端末の画面を操作するかのようにそのまま下方向へと指をはらう。すると文字列が光りだして、別の文字列が刻印されていった。光の文字は、数秒の時差を置いてスロットの様に枠の中で変化していく。四号棟、五号棟、六号棟……と、そこで気づいたのか、シェリルは指を上方向へとスライドした。今度は数字が減っていき、ついに目的地を見出す。
「一号棟……一階、ダイニング」
シェリルが表札の外縁をなぞる。指がプレートから離れたのを合図に、ごう、と扉の奥で暴風が吹き荒れるような音がして、曇り硝子の向こうで靄がうごめいた。
「すご」
これには不機嫌だったシェリルも驚きを隠せないようで、純粋な感嘆の言葉が漏れた。プレートに文字が焼き付いて、扉の向こうから明かりが射す。
かくいう僕も、この現象には興奮を抑えきれない。古代魔法がこれほど高度な技術であったなんて、今まで読んだどの本にも書いていなかった。
「凄い! 古代技術!」
「何それ。変なの」
「別に変で構わないよ」
興奮したんだから仕方がない。感動くらいしっかり味わったっていいだろう。
シェリルはそんな僕を流してドアノブに手を掛けた。ノックも無しに魔法の扉を開けると、香草のいい香りが流れてくる。




