運命の境界編 #1 泡沫の夢 Ⅲ
宵闇の中、爆音が地面を揺らした。
天井から砂埃が落ちてきて衝撃の大きさを物語る。後手に回ったサイレンがやっと響きだした。
近づいてくる爆心地に危機感を抱いた僕と姉さんは外に出る。視界は黒と赤で染め上げられていた。えげつない程に明瞭な色彩だ。
爆撃されていない近辺の家屋の間に、歯抜け状態の石の建造物が見える。その上空には侵略者がいる。
飛翔するそれは、ドラゴンと呼ばれる姿をしていた。
流れるような姿が美しい、金に光り輝く鳥だ。鶴のように首が長く、尾羽から幾重にも金糸のような飾り羽が伸びる。体は――遠いので正確には掴めないが、戦車ほどの大きさだろうか。巨体は縦横無尽に町の上空を舞った。銅から赤へとグラデーションのかかった両翼が空気を押して駆け巡る。
そのとき僕は見てしまった。ドラゴンが身を反転させたその瞬間。吐き出された炎に照らされる中、ドラゴンの胴体に取り付けられたゼッケンがはためく。羽毛の色に紛れるような赤い布には鎌と槌が描かれていた。
――連邦軍だ。
軍に所属するドラゴンは大抵どこの国でも国章の着用が義務付けられている。つまりあのドラゴンは、理性を失って無秩序に暴れているのではない。僕の祖国と、駐屯している帝国軍を狙って爆撃をしているのだ。
ドラゴンはオフィスやアパートに火の玉を落として焼き尽くす。眺めている間にもどんどん火の手は迫ってくる。町は焦土へと塗り替えられ、居住地にも駐屯地にも平等に火の雨は降り注いだ。
――この世界に生きる以上、どんなに幼くても人がドラゴンに成る理由を教えられる。
愛する誰かを守るため。
神に認められるほどの愛が人をドラゴンに変える。他人を想う強い意志がドラゴンを生むと、絵本や親の口から聞かされるのだ。
『――強い思いを持つひとは、神さまに力を与えられてドラゴンになるの。それはとてもすばらしいこと。ドラゴンとは美しくて強い人間の姿なのよ』
まだ両親が健在だった頃、毎晩絵本を読み聞かせてもらった。ドラゴンの絵本を読むたびに母は優しい声で礼賛する。生まれ故郷がドラゴンに襲撃される前、僕はそんな母の微笑を馬鹿みたいに信じていたし、ドラゴンを尊敬さえしていた。
だがドラゴンはそんな崇高な存在ではない。
僕が思うに、ドラゴンとは道を踏み外した人間の姿だ。誰かのために自分が堕ちることを厭わなかった愚かな人間の成れの果てだ。守るためと言いながら彼らは容易く命を奪っていく。
神に認められるほど誰かを愛しておきながら、他人には残酷な仕打ちをして平然としている。ドラゴンなんて所詮、愛のためなら他人などどうだっていい自分都合の人間なのだ。
町は瓦礫と炎で埋め尽くされていた。ひたすら郊外へ向かって走るが空を飛ぶ敵を相手にほとんど無駄な抵抗だ。すぐにドラゴンに追いつかる。かつての僕や姉さんを含む被災者の群れは地獄へ叩き落された。
「――ッ、逃げろっ!!」
男性の逼迫した声に後ろを振り返ろうとした瞬間、僕の隣を金色の何かが掠める。
刹那、前を走っていた数人が豪速で弾き飛ばされ崩れた壁に強かに打ち付けられた。油のようにてらてらと光る血液がレンガの溝を伝い、溢れて地面に広がる。
かつての僕は、そこで思考停止した。
何故か警告を発した男性を目視で探そうとして、誰かの腹から下が倒れているのを見つける。それも即座に火の玉に飲まれ僕と姉さんは爆風で吹き飛ばされた。
「――アルマス! アルマス!! ……行くよ!」
当時の僕は姉さんの呼ぶ声で瞼を開ける。額がくすぐったいと思ったら血が垂れてきて目に染みる。断続的に飛んでくる礫や砂にもみくちゃにされながら僕は立ち上がった。
見渡せば一層破壊が進んでいた。被害が建物だけに留まる筈も無く、人々はドラゴンに薙ぎ払われて動かなくなっている。かなりの人数が赤い水たまりの中にいた。赤い家々から突き出す人々も嫌な臭いを出しながら油を燃やす。大抵は引きずり出され雪で消火されるが、どうしようもなく衰弱した人ばかりが増える。
僕は十九になっても心が弱いままで、竦んだ足を無理やりに動かすなんて芸当はできなかった。姉さんに手を繋いでもらって、それでやっと一歩踏み出す。
いつだって弱い僕が悪いのだ。
横から力強く押され、あの日の僕は瓦礫に足を取られ転ぶ。
「――ぁああああっ……!!」
その瞬間、横合いから姉さんの悲鳴が聞こえた。我に返って飛び起き姉さんの元へ向かうと、そこには唇を噛み締め腹部をおさえる姉さんがいた。白い指の隙間から血が漏れる。
それでも姉さんは強かった。
「……っ、アルマス、みんなを地下室に連れていくよ!」
「……! うん! みんなこっちへ!」
姉さんは痛みそっちのけで立ち上がり叫ぶ。僕自身も姉さんに心を支えられながら近くのアパートを目指した。アパートの地下室に逃げ込めれば幾分か生存率が上がるからだ。僕らは無事な人々を励まし走り出す。
あの頃の僕は――町中を走り回っていた幼少期と比べれば大人だっただろうが、十分に無垢だった。必死に逃げている途中、僕はあることを思い出したのだ。これから先の運命をぐるりと変えてしまうような啓示が手を拱く先は、紛れもなく修羅の道だった。
生きることを諦めろ。それが賢明な判断だ。もうこれ以上悪夢を続けないでくれ――。
それでもその時の僕は、思い留まることはしなかった。僕は不遜にも奇跡を思い描いてしまった。
誰かを救いたい、何かを為したいと心から祈れば、そのための力を神様が与えてくれる。両親を奪った力だろうと、姉さんに忌避されようと構わない。当時の僕は、力を得て姉さんを救いたいと思ってしまった。
逃げる僕たちは、風に千切られる雲のように少しずつ集団を小さくしながらアパートまでたどり着いた。そして地下室に人々を避難させた後、あの日の僕は愚かな判断を下す。
アパートの地下室を出て、星のない曇天のもとへ躍り出る。僕は石畳の上、遠くの炎が朧げに照らすその真ん中で膝をついた。避難した人たちのうち何人かが顔を出して不安げにこちらを見つめている。姉さんも僕の意図に気づいたらしく追いかけてきたが、僕はその制止さえも振り切ってしまった。
馬鹿な僕は必死に祈る。空襲を伝えるサイレンが鳴り響く中、姉さんの叫ぶ声が間を縫って僕に届く。
「やめてアルマス!!」
「……僕は、今まで通り姉さんに笑っていてほしいんです。この手を汚してもいい、死んだって構いません。でも姉さんにだけは無事でいてほしい」
恐らくその場に居合わせた全員が、どうなるか理解できていた。だからだろうか、姉さんはいつもの傲慢さは置き捨てて懇願する。
「お願いアルマス……」
それでも僕は続けた。
「……だからどうか、この祈りが届くのなら――」
突如景色が乱雑に掻き乱され、雪明りの中で僕の胸を貫く剣。
そのとき姉さんが何と言ったのか、僕は知らない。
「……ッ!!」
心臓が破裂したかのような衝撃に引き戻されて、長い悪夢から醒める。
体を起こして周囲を見渡せば、そこにあるのはいつもどおり白と黒のシンプルな家具だ。年季の入った木製ではない。僕が今座っているのは革張りのソファだ。それに部屋には様々な電化製品が揃っている。薄暗い照明の中でスクリーンだけが煌々と光り、深夜のドキュメンタリー番組を垂れ流していた。
全てが決定的に違う。ここはかつて暮らしていた家ではない。
しかし夢で見た二千年前の光景は、鮮明なまま頭の中で繰り返される。
「落ち着け……、混同するな……。あれはずっと昔の話だ……」
自らに暗示をかけるように唱えるが動悸は治まらず、息苦しさは増していく。フラッシュバックした映像に心が凍り付くようだった。過去を遠ざけようとすればするほど呼吸がうまくできなくなって、胸に痛みが現れ始める。耳鳴りと眩暈でひどく頭が揺さぶられて、僕はソファのひじ掛けに凭れかかった。
一切の抵抗を許さず、あの日の記憶がぐるぐる回る。
誰か助けて。
僕はそう口にしたかもしれないし、気のせいだったかもしれない。