二千年前の手紙編 #3 メッセージ Ⅱ
ドアベルが軽やかな金属音を立てて、来客を告げる。
息を荒げてカフェに飛び込んできたのは銀髪の青年だ。少し長めの前髪の先から雫を垂らしている。水を含んで重い光沢を見せる黒シャツは、華奢な輪郭を際立たせる。
カフェの店員は入り口すぐのところに立つ青年に、タオルを手渡そうとした。しかし青年は軽く手を振って彼女の親切心に断りを入れる。店員は何か言いかけるが、青年は彼女に優しい視線を送って指を弾いた。
その瞬間、彼の服や髪から水滴が浮き上がる。雨粒は光となって消えた。
「すまん、遅れた」
私たちに謝罪するのは、古の邪悪なドラゴン、アルマス・ヴァルコイネンその人である。
相変わらず謝罪の字面は男らしいが、仕草が丁寧なので中性的な印象を受ける。すっかり乾いたシャツの襟を直して、彼は空いていた窓べりのソファ席に座った。私とハーグナウアーさん、そして彼で、丸いテーブルをちょうど三等分することになる。彼は近づいてきた店員を呼び止めて手早く注文を伝えた。
「遅いですよ。ハーグナウアーさんとお話するの大変なんですから、察して早く来てください」
「え、俺、いきなり呼ばれた割には早くなかったか? まあロランと長いこと二人きりにしたのは申し訳ないが……」
小動物じみた戸惑いを見せ、アルマスさんは私の言葉に真面目腐った反応を返す。
そして彼は抜けたことろがあるのでハーグナウアーさんへの本音がだだ漏れだ。ハーグナウアーさんは、無表情でアルマスさんに「僕の扱い雑過ぎませんか」と申告する。と、アルマスさんは大慌てで弁解しはじめた。
「ごめん! そういうつもりで言ったんじゃないんだ。ロランはちょっと人見知りなところあるし、僕のせいで酷なことさせてしまったかなと思って……。安心して! 僕はちゃんとロランのこと好きだから」
普段とはかけ離れた口調で、わたわたと手を振りながら言う。これがアルマスさんのありのままなのだろうか。いつもより更におっとりした印象を受ける。
その言葉をにこりともせずに聞いていたハーグナウアーさんは、最後にほんの少しだけ口角を上げる。そしてエスプレッソコーヒーを一口飲み込むと、のっぺりした口調で忠告した。
「アルマス、仮面をつけ忘れていますよ」
アルマスさんは小さく驚きの声を上げ、びくりと肩を持ち上げた。面白いので私も便乗する。
「それと、『好き』って軽々しく言わない方がいいと思いますよ。恋愛感情があるかのように聞こえます」
アルマスさんはさっきよりも大きく吃驚して、両手で口を押える。なんだこのコミカルで可愛い生物は。
数秒沈黙するとようやく落ち着いてきたのか、口元にやっていた手を移動させて頭を抱える。
「やってしまった……」
「どうせいつものことでしょう」
どうやらいつものことらしい。知り合ってから何年経っているのか知らないが、ハーグナウアーさんがそう言うのだからずっとこんな具合なのだろう。堕竜と呼ばれ畏れられているが、蓋を開ければただのドジっ子だ。
「イーリスさん。あなたの言う通り、僕が見てきた七百年の間アルマスはずっとドジっ子です。きっとそれ以前もドジっ子だったでしょう」
ハーグナウアーさんが瞳を青紫色に光らせて、私の心の声に返事をする。気持ち悪いが、きっとそれも彼の仕事の内だろう。
「理解が早くて助かります」
「……なあ、お前ら何の話をしているんだ?」
顔を上げ店員から注文の品を受け取ったアルマスさんは、不思議そうに首を傾げる。私は内心聞かれていなくて良かったと安堵する。
「別に。それよりもアルマスさんが遅れた理由について教えてくださいよ。天候調節術式とかいうやつの不調のせいじゃないかって、ハーグナウアーさんとお話してたんですよ」
アルマスさんは私の問いかけに、横座りになって窓の外を見る。その横顔はどこか煩わしそうに思えた。
磨き込まれたガラスの向こう側では、未だ滝のような雨が降り注いでいる。もう観光客以外は見当たらない。傘を差している人も見受けられない。きっと軒先や店の中に避難し終えたのだ。
だがこの街の住民の用意が悪いというわけではない。誰だって、快晴で穏やかな陽気、安定した天気と予報されたら、雨具なんて持ち歩かないだろう。かさばるだけだ。
「ああ。遅れてしまったのは本当に申し訳ない。――今ここで降っている雨は、術式が設けている水槽みたいなものからオーヴァーフローした分でな。本来なら俺だってびしょ濡れにならずにここまで辿り着けるはずだったんだが……」
「術式の実行中に、エラーが起きたんですか?」
アルマスさんはこっちに向き直り溜息を吐く。彼は物憂げな表情で頬杖をついて、私の問いに答えた。
「まあ、ある意味ではエラーだな。だが、原因は術式内部にはなかった。単純に、上空から術式めがけて降ってくる雨の量が異常なんだ」
「もしかして最近雷雨が多いのも、突然雹が降ってきたり雪が積もったりするのも、異常気象のせい?」
アルマスさんは頷く。カップケーキに乗ったブラックチェリーを皿の上に降ろし、スポンジをフォークで切り崩す。
「その通りだ。あの術式は、まず雨や雪を受け止める役割があってな。キャパ的に観測史上最高の雨量でも三十分は余裕で貯められるように作ってあるんだ。で、指定量を超えた分を水路に流したり、降り始めから二、三十分経ったころから雨を放出したりと調節を行う。だが今日はアラートが鳴ってな」
「キャパシティオーヴァー?」
「あたり。水量計の値も予想水量も尋常じゃなかった。それでオーヴァーフローの警告が出たんだ。満水まで八分あるかないかって具合でな。いつもなら貯水するんだが、緊急放水しなきゃならなかった」
アルマスさんは湯気の立つカフェオレに砂糖を飽和ぎりぎりまで溶かす。ちょっとカフェオレが可哀想だ。彼は砂糖の味しかしないであろう液体を平然と飲んだ。私が顔を引き攣らせていると、ハーグナウアーさんが疑問を呈する。
「しかし、あの術式には緊急放水を開始する水量と予想時刻の表示がありますよね。なのに何故雨に降られたんですか?」
オールドファッションドーナツを咥えたアルマスさんは眉間に皺を寄せた。
「アラートが鳴ったから急いでキャパを増強したんだ。それで緊急放水の予想時刻が伸びたんで、俺は安心してこっちに来た。そしたらこれだ。帰ったらまた術式いじらないとだよ」
「うわぁ、大変そう……」
「最近は天気がおかしなことになる度に術式を改良しているのに、全然追っつかないんだよ。何? 俺を忙殺する気なの?」
「お疲れ様です。恩恵に与っている一市民として感謝します」
怒りに任せてもしゃもしゃとドーナツを食べるアルマスさんに、私は謝意を述べる。彼は何でもないといった風に手を振ると、別の話を切り出した。




