二千年前の手紙編 #2 縷々 Ⅴ
私は一人きりの帰路を辿る。
春にしては肌寒い風が制服のブレザーをなびかせた。脇道へと吹き込む突風に背中を押されて、私は右折する。
通学路の途中、私たちの通う学校の運営母体となる教会がある。黄色の塔に緑の屋根を乗せたその建物は、遥か二千年前からこの街に在り続けた。曰く保存魔法が掛かっているとのことで、石の表面はまるで朽ちていない。私は白樺の木々の間をすり抜けて、大聖堂へと足を踏み入れた。
彼は――アルマス・ヴァルコイネンは、それをどう思っているのだろう。
かつて彼を排斥し、今なお彼を蔑視し続けるエルンスト派、ルミサタマ大聖堂。この教会はノウム教会という大きなグループに属し、ノウム教会の「ドラゴンを悪」とする教義を作り上げた中心的存在だ。
私が彼だったらこんな教会などとっくの昔に破壊しているだろうし、もし破壊できなかったとして、いつまで経ってもガタ一つ出ない教会には嫌気がさすだろう。
もちろん私にとってこの教会は人生の大半であり、母との大切な絆だ。劣化などしてほしくないし、ほぼすべての教義は偽りなく真であるとも思う。
そんな私でさえ、かの例外には疑いを抱かざるを得ない。
ノウム教会は罪人であっても、信じれば救われると説く派閥だ。そして堕ちたドラゴンは絶対の悪だとも説く。
ドラゴンは、元を辿れば人間だ。もしドラゴンに成ることや堕ちることが罪だというのなら、其れ即ち罪人であるということ。
では何故アルマス・ヴァルコイネンは救われない?
『スズランの手記』には――もう二千年前の話だが、彼が敬虔な信徒であったと記されている。退治される間際まで諦めなかった証拠だ。彼は救いを信じ、真摯であり続けた。
それなのに、ドラゴンに限っては罪人も救われない。あまりに不寛容な思想だ。
「お嬢様。ポルクネン先生に御用ですか? 僕が呼んできましょうか」
大聖堂に入ってすぐ、副牧師の彼が尋ねる。彼はいつも、観光客への対応をしながら本を読んでいる。その反応速度は洗練されていて、常に手元に視線を落としているというのに訪問者が一定のラインに達したら声を掛けるのだ。今日は一般開放をしていないようで、読了後振り分けられる本の山の方が高い。
「いい。自分で行く。ママ――監督はどこ?」
「洗礼式の準備のため礼拝堂にいらっしゃいます」
私は副牧師の彼に軽く礼を言って通り過ぎる。彼も私の扱いには慣れているので深くは踏み込まず、読書に戻った。
すぐにツタのような柄が描かれたガラス戸に行き当たる。私はドアを勢いよく押し開けた。礼拝堂の入口の上に鎮座するチャーチオルガンの下を通過する。赤い絨毯の上、白い大理石の柱が並ぶその間を真っすぐに抜けると、視界は明るく、広くなるのだ。
二つ続けてシャンデリアをくぐると、礼拝堂の備品を確認している母が振り返る。母は白髪交じりの金髪を結いなおし、スーツの皺を軽く直して私に歩み寄った。
「イーリス。どうしたのですか。怖い顔をして」
母は私とそっくりの青い瞳で見つめてくる。丸い声で私を和ませるように笑った。私はそれを敢えて無視する。
「先生。今日はお話があって来ました」
先生と呼ばれたことに母は目を見開いた。そしてすぐに監督――この教会の牧師を統括する者の顔になる。優しさの中に厳格さが見え隠れするしぐさは、家で母がするものではない。
母は何列にも並んだベンチを指し、座るように促す。私は母の方を向いて斜めに腰掛けた。母は膝を突き合わせるように対称に座る。
「何のお話ですか。私に教えてください」
「先生は既に知っていると思いますが、私は彼を擁護しました」
「あなたの口から聞けて何よりです。イーリスは彼の者を庇ったのですね」
母はゆっくりと瞼を閉じ、肯定するように私の手を取る。
「それで――、イーリスは懺悔するのですか?」
「……いえ」
私は不意を突かれる。
母は、ドラゴンが悪だと説くのが日課だ。幼い頃から繰り返し聞かされてきた。もちろんそれは家庭が仕事の延長上にあったから起きたことである。母にとって私と父は草稿を編むときの協力者だったからだ。大小にかかわらず、集会に呼ばれればそこでドラゴンを蔑視するのが母の仕事である。ドラゴンを――特に悪意で体を黒く染めた者を否定することこそが、ルミサタマ大聖堂の監督として母に求められていることなのだ。
だから、母は私の行いを罪だと断定すると思った。しかし実際の母のセリフは、私を責め立てたりしない。
瞼を上げ、母は真っすぐに私を見つめる。
「改めぬ理由を聞いても?」
私は深呼吸をしたのち首肯する。
「私は、彼が――アルマス・ヴァルコイネンが許されるべきだと思うからです」
尾を引く私の声がいやに長く感じる。私は唾を飲み、母の咎めを待った。




