二千年前の手紙編 #2 縷々 Ⅲ
どうしてこうも、歴史に名を残すような人物にホイホイ会えるのだろう。
紹介されたから、というのも確かにある。だが恐らく紹介されなかったとしても簡単にコンタクトを取れたのではなかろうか。
私は今大学図書館に来ている。一昨日ローレント・D・ハーグナウアーが、「お爺さんを慰めるために大学図書館に行け」と言ったからだ。
それを聞いた時の私は、ローレント・D・ハーグナウアーが客員教授をしているくらいだから、お爺さん――アルマス・ヴァルコイネンも教授くらい任されていても不思議はないだろうと推察する。
個室でこっそり本を読んでいるのではないだろうか。でないと、少なくとも現地学生からは愉快な噂の種にされる。『スズランの手記』にあまり親しんでいない留学生あたりは、あの美しい銀髪碧眼と顔面を噂の種にするだろう。街での彼を見ていれば、多種多様な視線を向けられる様子が容易に想像できる。彼だって、衆目の中読書をするのは嫌だろう。
であれば、私が取る行動は一つだ。
入口にあるカウンターで職員を呼び、ローレント・D・ハーグナウアーの偽名を出して訪ねる。
あの銀髪の御仁がどこにいるのか、と。
すると応対してくれた女性職員はついて来いとジェスチャーをする。後を追って二階へ向かうと、彼女はすっと前方を指差し、そしてカウンターに戻っていった。
彼女の指し示す先、開放感のある談話スペースを見渡す。
「――いや、ここにいんのかよ」
外を見渡せる大きなガラス窓に面したカウンター席。几帳面に本や電子書籍が並べられているその中心で、彼は突っ伏して寝ていた。カウンターチェアで寝たら椅子から落ちそうなものだが、彼は寝相が良いらしく危なっかしさはない。しかし、こんなところで眠ったら成果物が盗まれそうに思えるが――なるほど。
「無駄に高度な技術を……」
近づいてカウンター上に広げられたノートや資料を覗き込むが、白いクレヨンで塗りつぶしたみたいな靄が蠢いていて全く読み取れない。いわゆるロストテクノロジーだ。触れようとしても、手に伝わる感触はカウンター天板のすりガラスのもので資料には実体がない。指が本の中に没入するなんて、まるで幽霊にでもなった気分だ。
「てか、全然起きないし……」
さんざん私物で遊んでやったのに一向に起きる気配がない。随分深いノンレム睡眠だ。
一昨日の事件のこともあり私は面目ない気持ちでいっぱいだったので、極力優しく声を掛ける。
「アルマス・ヴァルコイネンさん? 少しお時間を頂いていいですか?」
彼は微動だにしない。耳元で囁く程度では彼の目を覚まさせるには足りないらしかった。
私は肩を少しつついてみる。だが彼は可愛らしい寝息を立てるばかりで応答しない。何だこのあざといおじいちゃんは。
仕方がないので、声のボリュームを上げて肩を強く叩く。
「アルマス・ヴァルコイネンさん、起きてください。お話ししたいことがあるんです」
「――ふぁぁっ!? なに!?」
彼は飛び起き、なよなよした声で叫んだ。
私の顔を見てようやく頭が覚醒したらしい。咳払いをして座り直す。
「……何だよ。お前、一昨日の女子高生だよな?」
「はい。そうです」
「言っとくが、俺はアルマス・ヴァルコイネンじゃないぞ」
「いえ、ハーグナウアーさんから聞いています。アルマス・ヴァルコイネンさんですよね」
「はぁ……。ロラン、やりやがったな」
怒っているというより落ち込んでいるようで、刺々しい口調だが声に覇気がなかった。くまも酷く、目元がやや赤い。一昨日の騒ぎで、相当に精神を摩耗しているのだろうか。
私は勢いよく頭を下げる。
「一昨日は本当に申し訳ありませんでした……! 私が止められなかったばっかりに、あなたに辛い思いをさせてしまいました」
「……いいんだよ。別に大したことじゃない。顔を上げてくれ」
「でも……」
私が改めて彼の顔を見ると彼は心底諦めたような表情を浮かべていて、それがひどくもどかしい。
「確かに辛いさ。でも、お前の友人が抱いているような思いを受け止めるのは、俺の義務だ。そこに異論はない」
絞り出すような声だが、そこには決意があった。私にはそれを否定することはできない。
だがここで終わってしまっては、あんまりにも彼にとって救いがない。
「だったら、あなたが助けた人間の思いも、同じように受け止めてください……! 私は、六歳の時、あなたの住む森で遭難しました。寒くて、すごく怖かった。途中からはほとんど覚えていないけど、あなたが警察のところまで連れて行ってくれたんでしょう? 母から、警察にあなたが来て、しかも連れている子どもが私だったからかなり揉めたという話を聞きました」
「お前は……、あの時の女の子か。あれは厄介だったな。あの教会の関係者だと分かっていれば手出ししなかったのに」
「それでも、弱りきった私に血を分け与え、最後まで私の身を案じてくれた」
彼は突き放すように言うが、私は母から一部始終を聞いているのだ。
摂取した者の傷を治し、体力を回復させることのできる彼の血。警察に着いてすぐ、自分の腕にナイフを押し当てて血を私に飲ませたという。ドラゴンは傷の治りが早いとはいえ、赤の他人のために自らを傷つけるなど簡単にできることではない。
「それは……。『彼の者の領域』なんて呼ばれている場所で子どもが死んだら面倒だからな。要らない争いが起きる。俺は火種に対処をしただけだ」
「あなたの抱く理由は言った通りなんでしょう。それでも私はあなたに救われた。あなたは私の恩人なんです。あなたがアルマス・ヴァルコイネンだからといって、その事実が揺らぐことはない」
「でも俺は――」
「私はこの街であなたのことを何度も見かけました。そのたびにあなたは誰かに優しくしていました。堕ちたドラゴンだったとしても、あなたがアルマス・ヴァルコイネンだったとしても、私はあなたのことを大切に思っています。他人につけられた肩書なんかじゃなく、あなたの行いそれ自体があなたを構成するものでしょう? あなたが救った私の命、そして思いを――あなたの行いを受け容れることはできませんか?」
俯いた彼の表情は見ることができない。だが、震える肩が彼の感情を物語っている。
「――アルマスさん、ハグしてもいいですか?」
返事は来ない。私は両手を広げ、椅子の上で震えている彼を包み込んだ。彼は怯えたように体を強張らせるが、拒否する様子はない。私が彼の背中をさすると、彼は徐々に受け容れ、私の背中に腕を回した。
「助けてくれてありがとうございました。おかげで今私は生きています。アルマスさんが救ってくれた命は、私の一番の宝物です」
私は強く抱きしめる。彼は私の肩に顔を埋めて吐息を震わせた。ぱたぱたと涙が布を叩く音が聞こえる。
――このまましばらく彼を感じていよう。
彼の心に思いを馳せ、私は決意を強めた。




