二千年前の手紙編 #1 遭遇 Ⅲ
結論から述べると、エレノアはレポートに不備があり先生に叱られた。つまり私の懐柔策も欠陥があったということである。
私の想定を遥かに超えて、エレノアの信心は盤石だった。彼女はかなり手強い。
夕飯のとき、食堂でクラスメイトたちが課題の話をしはじめたのは予想通り。私はプランに則り「やば、明日だったんだ」ととぼけて躱す。途中までは課題をダシにエレノアと会話をし、順調に打ち解けた。彼女は徐々に怒りを風化させたようだった。
がしかし、ゴールまであと三割ほどのタイミングで、彼女は自分の首を絞め上げる。
謝罪も交えつつ私が改めて決意を口にしたときだ。エレノアは再び激昂し、私との和解を蹴った。それも、理論の証明がニアミスのるつぼと化したまま。
見事な交渉決裂である。
布製の強固な壁でお互いを隔てたまま夜を越した私達。エレノアは午後一番の魔法理論の授業で大恥を晒し、私は満点を頂戴した。
ざまあみろ。エラが妥協しないからだ。
――と思わないでもないが、責任の一端は私にある。爆死したエレノアへ、あとでシナモンロールでもお供えしておこう。
「……はあ」
エレノアとの和解は果たして可能なのか。ほとぼりが冷めたころに友情は戻ってくるだろうが、理解を得るための労力、その要求値が異様に高い。
この静かな図書館で大きなため息を吐きたくなるくらいには、今の私は滅入っていた。
「……こっちもこっちでどうすりゃいいんだか」
実のところ、憂慮すべきはエレノアの件にとどまらない。
昨日エレノアに啖呵を切った手前、私は資料漁りをはじめると決意する。そうして一時間前、相棒のラップトップを持って意気揚々と大学図書館に乗り込んだわけだ。
しかし現実はそう甘くない。
伝記、歴史の文字が掲げられた書架へ向かい、検索で引っかかった本を探す。が、そもそも冊数が多すぎる。ここまでくると本の分類も気持ち程度の助力しかしてくれない。
しかも、言ってしまえばマイナージャンルである。開架にありそうなものは粗方見つけたが、大体がロストテクノロジーを追い求める話。アルマス・ヴァルコイネンは技術を奪い去った悪役としてキャスティングされるばかりだ。
仕方がないので堕ちたドラゴンの本ならといくつか貪欲に開いてみるも、全て撃沈。どれもこれも、目次には彼と関係のなさそうな内容が並んでいる。
「うーん、アルマス、ヴァルコイネン……。ほんとなんもないなぁ」
いや、確実に一冊は心当たりがある。『スズランの手記』だ。だが、それだったら学校の図書室の方が充実しているだろう。何せ私の通う学校の運営母体は、『スズランの手記』の原本を保管する教会なのだから。当然のことながら写しも翻訳版もよりどりみどりである。
「――お?『黒竜討伐記』?」
やけくそ気味に書架の前をうろついていると、ふとそんなタイトルが目にとまる。私はもしやと思い本を手に取った。彼は黒いドラゴンだし……
「――いやどこの無双チート!?」
ついツッコミを入れてしまい、私は慌てて口を押える。この本には確かに黒いドラゴンが登場するが、お目当ての情報でないのは明らかだった。
「これ今の私に調べられることなのかな……」
とにかく本が見つからない。情報統制でもされているのだろうか。博士号でも取れば古文書にまで手が出せるようになるだろうが、私は一介の高校生。許しを得られたとして、それはまだまだ先の話だ。
そのとき急に視界が陰る。
「――こんにちは、お嬢さん。少々頭の上をお邪魔していいですか?」
「っ!?」
私は咄嗟に、声とは反対の方向へ飛び退る。
いったい何が起きたんだ。こんな甘く優しい声で囁かれるきっかけなど、私の人生には一つもない。
目線を上げた先、そこにいたのは私と同じくらいの年頃の青年だ。だが油断してはいけない。聞いた者すべてを誘惑するようなこの声は、高校生には出せない。証拠に左手には指輪が光っている。
とはいえそれは些末なことだ。老化せず永遠を生きる存在は、そこらへんで結構見かける。ドラゴン自体はさほど珍しくない。
しかしこの青年――いやお爺さんか。この人にばったり出会ってしまったのは、非常にまずい。
「……赤髪に紫色の目」
「驚かせてしまいましたか。すみませんでした」
調査開始からたったの一時間で引き当ててしまうとは、私は運がいいのか悪いのか。
整った顔に、色気の香る立ち居振る舞い。髪色、ドラゴン特有の瞳。間違いない。
「……ローレント・D・ハーグナウアー」
「よくご存じで。僕も随分有名になってしまったようですね。――ただしここではノエ・シュバリエですので、悪しからず」
彼は先程まで私がいた場所に立ち、書架の最上段まで手を伸ばす。
「ローレン――」
「ノエ。呼び捨てで構いません。難しいようならシュバリエさん、とでも」
「では……、シュバリエさん。こんなところで何をしているんですか?」
「お仕事、ですね。これでも客員教授をさせていただいている身ですので」
彼は手に取った本をぱらぱらとめくりながら答える。さほど分厚くはない、年季の入った本だ。表紙の刻印が掠れていて、私の位置からだとまるで読み取れそうにない。しかも、私がみっともなく覗き込もうとしたのを悟ったのか、彼は棚の空いたスペースに本を置いてそれを阻止する。その自然さときたら、普段から意地の悪いこと請け合いだ。
そんな失礼なことを考えていると、彼がやや不愛想になって咳払いをする。そしてすぐに元の優男に戻った。
「――どうしましたか?」
とんでもない変わり身だ。思わず誘惑されそうになってしまう。私はフェロモンという名のシトラスな臭気を払いのけるため、勢いよく頭を振った。
「いえ、客員教授って、どんなお仕事をされているのかなぁ、と」
「ああ、大したことではありませんよ。普段は魔法の研究をしているんですが、人よりちょっと長命だからという理由で、戦史の授業も少しばかり。長く生きていると、やりたくないけれどできてしまうことばかり増えて、億劫になりますよ」
「戦史ですか?」
私が気になって尋ねると、彼は微笑を浮かべる。
「ええ。諧調歴の黎明期から現在までの主だった戦争についてですね」
「ちなみに、その前の話は……?」
「ノエ・シュバリエはそれほど長生きなわけではありませんから。教科書に載っている以上のことは教えられませんよ」
ちょっとした冗談のつもりだったが、彼の目は笑っていない。史上最悪の堕竜を補佐するだけあってその言葉の奥底には計り知れない含みがあった。これ以上踏み込んだら消されそうだ。
「そうですよね。知っている人なんてそうそういませんよね。失礼しました」
「いえいえ。お気になさらず」
「では私はこの辺で――」
どうも風向きが不穏だ。私は戦略的撤退を選び、苦笑いで誤魔化す。だが彼は私を許す気はないようで、鋭く呼び止めた。




