第2話 修行開始
「では、今日から走り込みを始める」
初めての採取から数日後の早朝。麗しき古硬貨亭の一階食堂スペースは意外と朝早くからにぎわっていた。
お互いの生活のために二度ほど採取を挟み、その間にティファの体力状況を確認したユウが、ついに修行のスタートを宣言する。
「……あの、ユウさん。ちょっと質問、いいですか?」
「なんだ?」
「魔力の制御と走り込みって、どんな関係があるのでしょうか?」
学院指定の運動着を着用したティファが、文句があるというより素朴な疑問としてユウにそんな質問をする。
その来るであろうと予測していた質問に対して、小さく頷くながらユウが答える。
「まず、大前提として、魔法に限らず何をするにしても、体力というのは重要だ」
「それは充分に分かるんですけど、学問や魔法の研究、戦場に出るにしても後方で攻撃や支援をするのがメインの魔法使い系には、そこまで体力や足の速さは重要じゃないんじゃないかな、と」
「前にも話したが、いくら後方といえど、戦場に出る以上は自分の方に攻撃が飛んでこないとは限らない。どれほど防御魔法や結界魔法で攻撃を防いだところで、まったく何も消耗しないなどということはまずない。何より、敗北が確定したときに迅速に逃げるためには、どれだけ体力と足の速さを鍛えていても鍛えすぎということはない」
「おお、確かに」
ユウの説明に納得するティファ。その後ろで朝食を取りながら二人を見守っていた冒険者達の中で、魔法使い系の幾人かがびくっとした反応を見せたのはここだけの話である。
「あと、ティファに教える制御法はな、習得するのにかなりの体力が必要となる。習得して極めてしまえばそれほどでもないが、そこに行くまでには相当な訓練が必要になる上、当然その訓練には普通の人間の何倍もの体力が必要となる。鍛えねば、話にもならん」
「そうなんですね。分かりました! 頑張ります!」
ユウの説明に、表情を引き締めて気合いを入れるティファ。その様子を見たユウが、少々困ったような表情を浮かべ、たしなめる言葉を口にする。
「気合いを入れるのはいいが、初日からあまり飛ばしても無駄に疲れるだけだぞ」
「でも、相当頑張って体力付けないといけないんですよね?」
「体力なんぞ、一日二日走り込みをしたところで増えるものではない。それに、普段走っていない、どころか今まで半分養生していたような状況なのだから、走り方も自分のペースも分かってなかろう? そんな状態で無駄に頑張りすぎれば、下手をすれば体を壊す」
「えっと……となると今日はどうすれば?」
「今日は、というより当面は走るのに慣れることを優先だな。なに、十日も続ければ十分やそこらは余裕で走り続けられるようになるさ」
ユウの言葉に、気負いすぎたことを反省しながら、意外と緩い内容に拍子抜けするティファ。その余裕もそんなに長続きしないのだが、今のティファにはそんなことは知る由もない。
それならできそうだと能天気に構え、そのまま気になった質問を口にする。
「それで、最終的にはどれくらいを目指すのでしょうか?」
「目指す先に上限などありはしない。だが、とりあえず当面は一時間ぐらい走り続けられる体力と、その時間内でここから中央公園まで行き来できる程度の足の速さを目標にする予定だ」
「えっ!? ……それって、結構な時間とスピードですよね?」
「ああ。だが、中堅以上の冒険者なら、少なくとも装備なしなら無理でもない筈だ。そのあたりはどうだ?」
ティファの感想を受けたユウに問われ、見ていた冒険者全員がほぼ同時に頷く。
基本的に冒険者の装備というのは金属の塊なので、フル装備でそれをやれと言われれば厳しい人間もいる。特に大型の武器と金属製の鎧を身に着けている前衛のドワーフなど、フル装備の場合下手をすれば全力で走っても一般人の速足よりは速い、という速度になることもある。
が、装備なし、運動着でいいというのであれば、たとえドワーフであっても結構な足の速さで駆け抜けることができる。
それぐらいの足がなければ、中堅になるまで生き延びられないのだ。
「そういうわけだから、とりあえずの目標を達成したとしても、走り込みは続けるぞ」
「分かりました」
「では、行くか」
そう言って、麗しき古硬貨亭を出ようとしたところで、中堅冒険者の一人が声をかけてくる。
「なあ、ユウ。飯は食わないのか?」
「軽くは済ませたが、本格的には、走り込みが終わってからだ」
声をかけてきた冒険者に残念なものでも見るかのような視線を向け、そんな風に端的に答えるユウ。今日からジョギングを始めようという素人に、走り込みの前からまともなものを食わせるわけがないのだ。
だが、そんなユウの視線に気がつかず、冒険者がよっしゃとばかりにガッツポーズをする。
彼の名はジェームズ・ロウ。ユウと同じ二十五歳、冒険者歴十年ほどの中堅を卒業しつつあるどこかチャラいというか軽い雰囲気を纏う男だ。
「だったら、終わった後はちゃんと食うんだよな?」
「戻ってきてすぐにではないが、当然ちゃんとしたものを食わせるつもりだ」
「だったら、ティファちゃんの料理は? 俺におごらせてくれよ!」
「それはありがたく受けるが、メニューはもう決まっているぞ?」
「構わねえよ!」
やたら嬉しそうに断言するジェームズを、不思議そうに見るユウとティファ。そんな彼らに対し、朝食の配膳がひと段落したカレンが口を挟む。
「はいはい。変態のジェームズさんは、ティファに近寄っちゃだめだよ」
「変態ってなんだよ、変態って」
「はたで見てると、どう見ても幼い子供を美味しい食べ物で釣ってたぶらかそうと必死になってる変態にしか見えないよ。ねえ、バシュラムさん?」
「そうだなあ」
「たぶらかそうとしてるんじゃねえよ! 俺だって、俺だってなあ! 嫁さんとティファみたいな娘が欲しいんだよ!!」
「気持ちはわかるけど、微妙にアウト」
カレンにばっさり切り捨てられて、ガクッとするジェームズ。誰か味方はいないのかと周囲を見渡しても、誰も彼も同じようにジトッとした目を向けるだけである。
言葉だけを見ていればそれほど問題なさそうなジェームズだが、異常なまでの必死さに加え、子供に向けるにしては何とも言い難い表情がいろんな意味でアウトだった。
少なくとも、自分の子供代わりに可愛がりたい、という種類の表情ではなかった、と表現すれば、どれほどアウトな顔をしていたか想像できるだろう。
「そもそも、ティファちゃんの食費その他は、あたし達みんなで分担するって決まってたのに、何必死になって抜け駆けしようとしてるのよ」
「そうよそうよ。折角ユウが納得してくれて学長先生も折れてくれて、ようやく毎朝ティファちゃんがここに来るようになったっていうのに、話し合いもせずに勝手なことしてんじゃないわよ」
「あたし達だって餌付け……もとい、ティファちゃんにご飯食べさせてあげたいんだからね!」
そこに、数少ない女性冒険者のお姉さま方が、集団で言葉攻めを始める。
今文句をつけた以外にも数名、追い打ちをかけるように日頃の所業をあげつらっている。
その際、近くにいた女性冒険者が守るようにティファを抱き寄せ、ジェームズに対して態度でこれは自分のものだと見せつける。
それに対して「ぐぬぬ」という感じで本気で悔しがるジェームズ。
この様子を見ている限り、ジェームズが独身なのは、冒険者という安定性のない職業だけが原因ではない感じである。
突然のこの流れについていけず、というより、そもそも何の話をしているかもなぜ抱き寄せられたかも理解できずに、きょとんとした様子で言い合いをしている連中の様子をうかがっているティファ。
それらに対して我関せず、といった感じでもう一度地図を見ながら走り込みのルートを確認しているユウ。言い合いの内容には全く興味はないが、正直飯の時間が遅くなっていろいろ予定がズレるので、いい加減早く終わらせて訓練に行きたいのだ。
「ほらほら、そこまでにしておけ」
「「「「「「はーい」」」」」」
集中砲火を叩き込んでいたお姉さま方が、バシュラムにたしなめられて素直に矛を収める。
どうやらよくある光景らしく、集中砲火を食らった本人はけろりとしており、周囲の冒険者達も仕方ないなあ、という表情で苦笑している。
ジェームズ・ロウ。かつて幼いころのカレンに粉をかけ己好みに育てようとして失敗し、それ以外にも再々同じようなことをしようとしては周囲から阻止されている変態。
油断すればそういうことをしようとする変質者ではあるが、大人になるまではノータッチの精神を貫き通し、男女関係なく未成年が事件に巻き込まれれば、利益その他を度外視した上で率先して動く紳士でもある。
恐らく、ティファの担当がユウに決まらなければ、あの手この手でティファを陥落させて今度こそ計画を遂行しようとしたであろう、という意味では油断ならない人物だが、残念ながらその点以外はきちっとしている上、自分好み計画にしても子供をさらったり洗脳したりといったことは一切考えない程度には善人だったりする。
「そういえばユウさん、『食費その他で学院長が折れた』とは、どういうことなんでしょうか?」
「ああ、その件か。特待生資格を剥奪された子供達の飯代、学院の教師で分担する、という話になっていたことは覚えているな?」
「はい。いくら食事内容をユウさんが決めると言っても、本来一人の冒険者にそこまで負担を求めるのはおかしい、ということでしたよね?」
「ああ。その代わり、俺の護衛代は半額になったが、その分はついでにいろいろ採取や討伐してここに納品しているから気にする必要はない。さっきの話ではないが、弟子の面倒を見るのに護衛として依頼料を取るのも、おかしな話だからな」
「いえ、あの、そうでなくてもとっくにいろいろ面倒を見ていただいているのに、さらにそこまでしていただくのはちょっと申し訳ないんですけど……」
ユウの微妙に気前が良すぎる言葉に、戸惑いだの遠慮だのが浮かびまくった表情であわあわとそんなことを言うティファ。そのティファの言葉を無視して、ユウが説明を続ける。
「とりあえずそれで話が決まったんだが、それを聞いたバシュラム殿をはじめとした幾人かが、お前さんみたいないい子が食い詰めてるのも、それを学院と俺のような本来無関係の新米だけが面倒を見ようとするのもおかしいと言い出してな」
「そうそう。子供はみんなで面倒見るのが、健全な社会というものです」
「という感じでな。主人をはじめとした数人が押し掛けて、学院長殿に直談判したそうでな。俺も呼び出されてそれでいいのかと聞かれて、食事内容に口を挟まないでくれるのであれば、という条件で有難く話を受けることにした」
「あ、その、みなさん、ありがとうございます……」
いい子と言われて素直に喜ぶべきかに迷いつつも、ユウの言葉に納得して頷くティファ。
まだそんなに接点がないはずの冒険者たちが、なぜ自分のような小娘に入れ込んでいるのかは分からない。分からないのだが、ここの主人が噛んでいる以上、差し伸べてくれる手にありがたく縋ってもいいのではないか。そう素直に考えることにする。
実のところ、看板娘はともかくマスコット的な存在がいない麗しき古硬貨亭では、しっかりした指導者《飼い主》がいて甘やかしても大丈夫な癒し系の生き物に飢えていたのだが、この年でそんな事情が分かるようでは将来が心配にもほどがある。
故に、ティファにはそんな冒険者達の思惑などとんと理解できぬまま、ユウと主人の判断を尊重することにしたのだ。
余談ながら、ユウと学院側の取り決めには、今年いっぱいは午前中は授業に出ない、採取や訓練その他の関係で午後も授業を休むことがある、それらに対してペナルティを一切つけない、というものもある。
すでに座学は基礎課程をすべて終了しており、実技の大部分は参加するだけ無駄だというティファ特有の事情がなければ、まず間違いなく合意を得られない種類の取り決めだ。
こんな取り決めが通るぐらい、学院はティファの指導に関して行き詰まっていたのだ。
「というわけで、ユウ。昼はあたし達仕事だけど三時頃には帰ってきてるから、おやつぐらいは奢ってもいい?」
「もちろん、といいたいところだが、もう少し待ってほしい」
「え~? なんでよ?」
「お前らの普段の調子でティファに菓子を食わせた日には、夕飯が食えなくなる上に肥満一直線だ。体の基礎が完成して、そのあたりのカロリーコントロールができる技を身につけたら、思う存分食わせてやっても構わんが、今はまだ、きっちり食事内容を守って体を作る時期だからな」
「……それを言われちゃったら、引くしかないわねえ。お茶一杯とクッキー一皿五枚ぐらい、もしくはケーキかタルトをワンピース、ってのはどう?」
その提案を聞き、ユウがティファに視線を向ける。ユウの視線を受け、昼食を食べたあと夕食までどの程度食べられるかを頭の中で計算するティファ。
計算結果が出て、実に悲しそうに首を横に振る。
「まだ、そんなには食えないらしい。クッキーを一枚だけに絞れば、どうだ?」
「それぐらいなら、食べて大丈夫そうです……すいません」
「ということだ。おそらく、来週か再来週には、ケーキのワンピースぐらいは食っても夕食に差し支えない程度にカロリー消費が増えるだろうから、それまで我慢してくれ」
「はあい。女の子でも、甘いものが別腹じゃない子もいるのね~」
「俺が言うのもなんだが、別腹云々以前にそもそも年齢一ケタの子供が、そんなに大量に食えるわけがなかろう?」
「まあ、そうよねえ……」
ユウの突っ込みに、無念そうに頷くお姉さまたち。
カレン以来、こんな小さな女の子が冒険者を恐れずに酒場に日常的に出入りすることなどなかったこともあり、とにかくかまって可愛がって手なずけたいようだ。
「さて、いい加減遅くなったから、行くぞ」
「はい、ユウさん!」
ユウの宣言に頷き、麗しき古硬貨亭を出て走り始めようとするティファ。
「ちょっと待て」
「はい?」
頑張って走ろうとしたところを止められ、不思議そうに首をかしげるティファ。そんなティファに、ユウが注意事項を口にする。
「訓練の時は、何をするにしてもちゃんと準備運動をしてからだ」
そう言ってティファに準備運動を丁寧に丹念に教え、念入りに行わせるユウ。
ユウに言われた通りにしっかり準備運動を行い、きっちり体をほぐして、いざとばかりに走り始めるティファ。
ユウの予想通り、いきなり全力疾走かといわんばかりのスピードだ。
結局、五分どころか三十秒も経たずに失速し、息を乱しながらヘロヘロと歩く。
「……少し休憩して、息を整えてからにするか」
「……は、はひぃぃ……」
ティファの様子を見て、とりあえず休憩を入れるユウ。
ユウの言葉を聞き、そのままその場でへたり込むティファ。あまりの無様さに涙目になってユウを見上げると、ユウも現状を特に気にした様子もなく隣に腰を下ろす。
「あのぉ……」
「新しい事をする以上、失敗はつきものだ。そもそも、加減なんてやってみなければ分からんし、初めての挑戦にはいきなり必要以上に全力を出して最後まで持たない、というのはティファに限った話でもないしな」
「そ、そういうものですか?」
「ああ。最初から加減をしてチャレンジするなんて知恵は、それなりにいろいろな事を経験した大人でないとできん事だ。そもそも、今日はティファの限界を確認する予定だったから、そういう意味では何一つ問題はない」
「そうだったんですか?」
「ああ。少なくとも、全力疾走で何秒走れて、どのぐらいの距離を進めるかは分かっただろう?」
(ふうう、確かに……ユウさんは何でもお見通しなんですね)
ユウの実に前向きな言葉に、心の中でそんなことを思いながらほっとするティファ。
実際のところ、別にユウはティファを慰めるためにこんなことを言ったわけではなく、本気でティファの全力疾走の限界も確認する予定だったのだ。
それに、ペースが分かっていないのだから、特に指示を出さなければテンションに任せていきなり全力疾走をしても、それ自体は何らおかしくもなければ問題もない。
なので、指示をするしないだけの問題で、ここまではほぼ予定通りだったりする。
「さて、そろそろ走れそうか?」
「はい!」
「では、先ほどの半分ぐらいのスピードで走ってみるといい」
「はい!」
ユウの指示に従い、半分ほどのスピードと頭の中で何度もつぶやきながら再度走り始めるティファ。とはいえ、そもそもペースを一定に保つこと自体、慣れていない人間には難しい。
何度も速度が上がりすぎてはペースを緩め、を繰り返しているうちに、気がつけばどんどん息が上がってくる。
最初の全力疾走も響いてか、結局この日ティファは、一キロも走り切ることはできなかった。
「ふむ、こんなところか」
「はあ、はあ、はあ……」
「ティファ、きついかもしれないが、整理運動をしておかないと後でひどい目にあうぞ」
「はあ、はあ、はあ……」
ユウに注意され、へたり込みそうになりながら根性で踏みとどまるティファ。そのティファに、容赦なく整理運動を徹底的に行わせるユウ。
「はあ。整理、運動、せいり運動、せいりうん……」
整理運動が終わったところで完全にダウンし、ティファはそのまま眠りについた。
「明日からは、歩いてもいいからまず二キロ踏破を目標に、というところだな」
準備運動と整理運動を合わせても三十分も続かなかった本日の走り込みを振り返り、明日以降どうするかを決定するユウ。
結局この日はジェームズが仕事に出るまでティファが目を覚まさず、泣く泣く朝食代だけ支払って出ていく彼を見送りながら、今年は非課税枠の稼ぎで終わる覚悟を固めるユウであった。
☆
走り込み開始から約一カ月。当初の目標である往復二キロを走り切れるようになり、目標が三キロとなったある日の事。
「そろそろ次のステップへ、と言いたいところだが、その前に余裕が出てきたから、料理と裁縫の練習を始めようかと思う」
針仕込みを終え、本式の朝食を食べていたユウが、そんな宣言をする。
「え!? お料理に……裁縫、ですか?」
「ああ。その手のことは、子供の内からやっておくに越したことはないからな」
「それは分かりますし、お料理は前にも聞いていましたけど、裁縫もですか……」
「針仕事は嫌か?」
「嫌、というより、糸を針に通すのが苦手です……」
ティファの言葉に、さもありなんと頷くユウ。コツを覚えるまで、ユウもそのあたりは非常に苦手だった。
何しろ、この世界の糸や縫い針は、庶民の手に届くようなものは非常に品質のばらつきが大きいのだ。中には最初から縫い針の穴に通らないほど太い糸や、逆に一番細い糸すら通らない縫い針も混ざっている。
大量生産向けの紡績機や針成型用のプレス、及び金型で作ったものであれば、一応先のような問題は解決している。だが、それとてすべての針と糸の組み合わせが完璧に使用可能なのはごく一部で、それを生産できる設備を持つ国も片手で数えられるぐらい。大部分は、まだまだ結構なばらつきが存在しているのだ。
それゆえ、ティファのように入口のところで針仕事への苦手意識を持っている人間は、かなりの数に上っているのである。
因みに、ミシンは超高級品な上に結構な場所を取る大型のものしかないので、冒険者が話題にあげるようなことはあり得ない。
「とりあえず、そのあたりは何度もやって、コツをつかむしかないな。どうしてもうまくいかないなら、先端を切れば太さが変わってうまくいくこともあるしな」
「そうなんですか?」
「ああ」
ユウの説明に、思わず目を丸くするティファ。貧乏性のティファは、見た目に問題がない糸を使わずに切り落とすという発想がなかったのだ。
「まあ、どんなことにでも向き不向きはあるから、そこの苦手意識を克服しても、上達しない可能性はどうしてもある。が、それでも練習しないよりは練習したほうがいい」
「どうしてですか?」
「上達しないと言っても、まったくできるようにならないことなどめったにないからな。最低限の事ができるだけでも、採取などの時に引っ掛けてほつれさせた裾を造ろうとか、その程度の補修はできるようにはなる」
「あ、そういう時に活かせるのは便利ですね」
「ああ。後、うちの古巣の副長と第二師団長が言っていたのだが、『料理と裁縫は女子力に直結している』そうだ」
ユウの台詞に何やらザクッと来たらしく、周りで食事中だったお姉さま方が、硬直してスプーンを取り落とす。どうやら、全員料理か裁縫、もしくはその両方ができないらしい。
どうでもいい余談だが、このお姉さま方、『深紅の百合』という女性だけのパーティを組んでいる二十代前半から半ばの六人組だ。他にもこの酒場に出入りしている冒険者の中には幾人か女性はいるが、今の時間に朝食をとっているのは彼女達だけである。
「えっと……そういうものですか?」
「そういうものらしい。俺は男だからよく分からんが、対外的にも団の内部でも人気がある女性だったお二方が言うのだから、間違いはあるまいさ」
「というか……女子力って何でしょう?」
「それこそ俺に聞かれても困る」
無意識に無差別攻撃を叩き込むユウとティファに、硬直していたお姉さま方がテーブルに突っ伏す。
そこに、この酒場のおかみさんが口をはさんでくる。
「裁縫ですか。だったらユウさん、うちのカレンにも教えてあげてくださらないかしら?」
「いろいろ世話になっているから、それは別にかまわないのだが、おかみさんが教えてはいけないのか?」
「私が教えようとしても、すぐに逃げちゃうのよ。だから、男の人、それも元騎士で現在冒険者のユウさんのほうが腕がいいって分かれば、真面目に打ち込むのじゃないかしら、と思って」
「あっ! わたしもカレンさんと一緒だと嬉しいです!」
「なるほどな。まあ、こういうことは、一人教えるのも二人教えるのも大した差ではないから、ティファと一緒に仕込めるところまでは仕込んでおこう。その代わり、俺とティファに料理を教えてもらえると助かる」
ユウの交換条件に、どことなく面白そうな表情を浮かべるおかみさん。そばで聞いていたバーテンダーも、興味津々ですという態度を隠さない。
「あら。ユウさんは料理もできるのでしょう?」
「基礎はな。だが、どうしても野外料理を主体とした戦場飯に偏りがちで、レパートリーが少ない。それに、どうすれば食える範囲の味にできる、という教育はできても、どうすればうまい飯が作れるかというのは疎くてなあ……」
「なるほどね。ちょうどいい機会だし、そこのあなた達も一緒に……」
「「「失礼します!!」」」
「ちょっと、あたしを巻き込まないでよ!」
「こっちは針仕事はともかく、料理はちゃんとできるのよ!?」
「私、料理習いたい~!!」
おかみさんに声をかけられた瞬間、料理が致命的に苦手だと思われるお姉さま三人が、残りの三人を捕まえて大慌てで仕事に向かう。
それだけ慌てて逃げたというのに、朝食はきっちりずべて平らげているあたり、美女ぞろいだというのに妙に残念さが漂うお姉さま方である。
「……とりあえず、なんとなく女子力云々については分かった気がするな」
「……わたしも、なんとなく分かった気がします」
「まあ、女子力とやらと伴侶ができるかどうかはまた、別問題らしいのだがなあ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。実のところ、第二師団長殿は他所の騎士団との合同作戦で婿を捕まえてきたが、副団長殿は美人なのに浮いた話がなくてなあ……」
「えっと、ユウさんはその副団長様とは……」
「そんな恐れ多いことは考えたこともなかったな。性格的にも優しくて好ましい方ではあるが、肩書だけでなく実力も俺より圧倒的に上でな。正直、何かの理由で喧嘩にでもなった日には、一方的にボロ雑巾のごとく叩き潰されるのが目に見えている」
ティファの疑問に対し、割と身も蓋もない理由を答えるユウ。その答えに、思わずくすくすと笑い声を漏らすおかみさん。
「おかみさん、割と笑いことではないのだが……」
「殿方なのだから、そんな情けないこといってちゃだめよ?」
「人間、できる事とできない事がある。そもそも、あの方と男女の関係になった日には、同僚や後輩たちから何をされるか分かったものではない」
「本当に、人気があるのね」
「あの方を権力でどうにかしようとしたどこぞの伯爵家のバカ息子の末路を考えると、とてもではないが俺ごときがどうこうしようなどという妄想は抱けんさ」
おかみさんの追及に、本気で嫌そうにそう答えるユウ。その様子から、相手のことを女性として一切意識していないことは明白であろう。
「まあ、話を戻すとして、カレンにも教えるとなると、今日のところは何かで時間を潰してからのほうがいいな」
「そうですね……だったら採取が良さそうですね」
「そうだな」
ティファの提案に頷き、採取道具を回収してくるユウ。
基本的にユウとしか組まないこともあり、ティファの分の採取道具も、ユウの部屋に予備が常備されている。なので、こういう突発的な形で採取に行く、となっても、いちいち道具を取りに戻らなくてもいいのだ。
「簡単なものですが、お昼を作っておきました。持って行ってください」
「すまない、助かる」
話を聞いていた主人が、用意したサンドイッチボックスをユウに渡す。それを受け取り、いつものように帰還陣を設置した後、二人連れだって採取に向かう。
最近ではティファも随分体力がついており、朝走ったからといって、採取場所まで歩いただけでダウンするということはなくなっている。
当然、その分回収できる素材の量も増え、余禄としてのモンスター素材もたくさん入手でき、ホクホク顔で帰還陣を使って麗しき古硬貨亭へ帰る。
「おかえり~! またいっぱい持って帰って来たね~!」
「今日はいい穴場を見つけたんです!」
「そっか、よかったね」
「ああ。いい調子だったことだし、主人が鑑定と清算をしてくれているうちに、裁縫の練習を始めるぞ」
「え~~!? やっぱりやるの!?」
「やらんわけがなかろう?」
「カレンさん、わたし、カレンさんと一緒にお勉強したいです!」
「あ~、う~、ティファちゃんにそこまで言われちゃあ、しょうがないかあ……」
カレンとティファのやり取りを聞き流して部屋に上がると、裁縫道具と大量の端切れを持って降りてくるユウ。その様子に肩を落とし、さらにティファに止めを刺されたことであきらめて、母に押し付けられたものの滅多に使わなくなって久しい自分の裁縫道具を用意するカレン。
なお、ティファの分は、ユウが資金立て替えで勝手にそろえている。
「では、まずは糸を針に通して、縫う範囲にあわせて長さを決めるところからだな」
「はい、頑張ります!」
ユウの指示に従い、素直に糸を針に通すティファ。いつもは割と苦労するのだが、今日はびっくりするほどあっさり成功する。
そんなティファを横目に、上手く糸を通せずに四苦八苦するカレン。
彼女が糸を通し終えるのは、それから三分後のことであった。
「では、長さを決めたら糸を切って、反対側をこうやって玉結びにする」
「えっと、こうですか?」
「ああ。というか、ティファは上手いな」
「なんだか最近、体が上手に動く気がするんです!」
「そうか」
ティファの言葉に、多分気のせいだろうなと思いつつ頷くユウ。何しろ、今まで指導した内容は全て食事がらみか体力づくりのもので、体の動かし方や手先に関するものはこれからの課題となっているのだ。
実際、ティファが上手く体を動かせるようになったと感じているのは、単に栄養状態が改善されて体力がついたことにより、集中力が増した影響に過ぎない。
「カレンは、どうだ?」
「こっちもいけたよ」
「では、基本の縫い方から行くか」
そう言って、基礎中の基礎ともいえるなみ縫いのやり方を見せるユウ。そのやり方を真剣な表情で観察するティファの隣で、首をかしげるカレン。
「どうした?」
「えっとね。こんなやり方、習ってたかなあって」
そんなカレンの言葉を聞き、酒場の掃除をしていたおかみさんが思わずため息をつく。それを見たカレンの顔色が変わる。
「も、もしかして……習ってた?」
「カレン、あなたがお母さんの説明を全然聞いていなかったことは、よく分かりました」
何やら親子の間で問題が発覚したようだが、よそ様の過程のことなど知らぬとばかりにティファに指導を続けるユウ。
カレンが復帰するのを待っていては、いつまでたっても進まない。
「ではやってみろ。指を突かないよう注意してな」
「はい!」
ユウに促され、とりあえず手のひらサイズの小袋を作ることを目標に、ほぼ同じサイズの端切れを縫い合わせていくティファ。
だが、残念ながら、ティファの快進撃は玉結びまでだったらしい。
「痛っ!」
予定通りというか予想通りというか、何度か針を通し縫い目をつけたところで、思いっきり指先を突き刺すティファ。思いっきりといってもティファの腕力なので大した深さではないが、普通に血がにじむぐらいには刺してしまったようだ。
「あっ、大丈夫? ちょっと見せて」
「はい……」
あまり上手くいっていない自分の作業を棚上げし、ティファの傷を確認しようとするカレン。ティファが見せた指の傷を見て、唐突にその指を口に含んで傷口を舐める。
「はわっ!?」
「とりあえず消毒はこんなものかな? 大した傷じゃないけど、一応絆創膏ぐらいは張っとく?」
突然の行動にわたわたしているティファに頓着せず、どうするかを確認するカレン。
下町では割と当たり前に見る光景であり、また自身も幼い頃近所のお姉さん(すでに遠方に嫁いでいる)に同じような事をしてもらったことがあったため、妹同然のティファにする分にはカレンの方には全く抵抗がないのだ。
その様子を見ていたユウも、当たり前の事をしているという態度で全く気にせず傷口を確認している。
「……それぐらいなら、すぐ止まるだろう。それまでは休憩だな」
「あっ、あっ、うう、はい……」
派手にミスしたこととカレンの突然の行動にうろたえているティファに、ユウが何事もなかったかの如く声をかける。
「まあ、失敗したときは一度手を止めて落ち着いたほうがいいから、傷の深さに関係なく休憩はするべきだがな」
「えう……。そういえばものすごい大失敗しちゃいました……」
「心配せずとも、誰もが通る道だ」
「そういうものですか?」
「ああ。というか、よほどの名人でも、やるときはやってしまうそうだからな。それに、そもそも勉強や練習というのは、何度も失敗をして、回数を重ねて覚えるためのものだ」
血が止まるのを待ちながら、自分が特別どんくさいわけではないらしいと知ってホッとするティファ。ユウの生活にいろいろ負担をかけている自覚があるだけに、あまりどんくさいと申し訳が立たないと思っているらしい。
「子供が妙な心配をするな。そもそも根本的な話、何でもかんでも教えてすぐできるようでは、大人の立場がない」
どうにも気を使いすぎている感が強いティファに、ユウがそう言ってティファを諭す。
よほどの天才か逆に致命的に才能がない人間でもない限り、どんなことでも打ち込んだ時間と熱意の量はダイレクトに実力に反映されるものだ。
その時点で、まだ八年の人生経験しかないティファは不利である。
そもそも、子供というのはよほど相性が悪くない限り、学べば学んだだけ、練習すれば練習するだけ伸びるものだ。伸び盛りの時期が限られており、性格的な向き不向きに指導者の技量や相性、さらに真剣さと集中力の差も絡んだ結果、能力の差がついているに過ぎない。
しかも、本人も意識しないところでもいろいろ学んでいるのだから、それがどこでどんな形でどう化けるかなど誰にも分からない。
古巣での教育でそのあたりをよく知っているだけに、現時点でティファがどれほどどんくさくて何もできなかろうと、ユウにとっては正直どうでもいい事である。
むしろ、失敗を気にしすぎて萎縮されたり、逆に成功が続きすぎて増長される方がよっぽど面倒くさい。
「それにしても、ティファはまあいいとして……」
「うう、言わないで……」
何をどうミスったのか、なみ縫いの最中にあっちこっちに糸を絡ませて団子にしてしまっているカレンに、思わず可哀想なものを見るような眼を向けてしまうユウ。
あれに比べれば、ティファには十分才能があると言えよう。
正直、カレンは他人のちょっとした怪我を気にしている状況ではない。
「特訓が必要そうね……」
「うん……。さすがにちょっと、八歳の子に負けるのは情けなすぎるから、今日から頑張る……」
自身のあまりのポンコツさに、これはヤバいと本気で裁縫の練習をすることを誓うカレン。
この後料理の勉強では、さすが冒険者の酒場の娘という腕前を見せ(それでも両親にはかなわないのだが)、どうにか年上の面目を保つカレンであった。
☆
走り込み開始から一カ月半。
麗しき古硬貨亭の裏庭では本日の走り込みを終えたユウとティファが、ついに次のステップへと移ろうとしていた。
「さて、出発前にも言ったが、今日からは新たな訓練を行う」
「はい!」
「次は、こいつだ」
そう言って、ティファに長い棒を渡すユウ。
その棒は、学院で使われている魔術師の杖を模したものであった。
「これは……、見た目はともかく中身はただの棒ですよね?」
「ああ。学院で使われている杖の形と重さをそのまま映しただけの、単なる棒だ」
「これで、何をするんですか?」
「ティファには、これから杖術、もしくは棒術と呼ばれているものを身に着けてもらう」
その言葉に、何やらピンとくるものがあるティファ。念のために一応確認だけはしておく。
「えっと、目的はやっぱり体力作りと、敵に接近されたときに生き延びるための能力を習得すること、ですか?」
「ああ。そもそもティファの体格ではモンスターはおろか大人を殴り倒すこともできんからな。そいつを振り回して身を守りつつ、逃げる、もしくは魔法を使うための隙を作る技能を教えよう」
「はい!」
「とはいえ、俺も杖術は専門外だからな。すまんが、教えられるのは基礎と、槍の使い方の派生とでもいうべき取り回し、それと長物で大体共通する扱い方ぐらいだ。それ以上を求めるなら、自分で師を探すなり我流で扱いを研鑽するなりしてくれ」
「分かりました、ありがとうございます!」
いい加減ユウの教える基準や内容を理解しているティファは、なんの文句も無くその方針に従う。
ティファが話を聞く態勢になったのを確認したところで、ユウが手に持った棒を構えてみせる。
「これが、基本の構えだ。やってみろ」
「はい」
ユウの手元や足の位置などを何度も見直し、見よう見まねで杖を構えるティファ。その構えを確認し、軽く手を添えて微修正する。
「まずは、意識せずともこの持ち方になるように、何度も素振りだ」
「はい」
「型はいくつかあるが、まずは守りに使いやすい三つを教える。それ安定して振れるようになったら、さらに新しい型を教える」
「分かりました!」
「では、一つ目から」
ティファの返事に一つ頷くと、まずは最も使用頻度が高くなるであろう、中段の払い落とし動作をやって見せるユウ。ユウの動きを見て、丁寧になぞるように棒を振るティファ。
振るたびにティファの動きを矯正し、安定するまで繰り返させる。
一度休憩させてから素振りを再開させ、型のブレが許容範囲に収まったところで、二つ目の上段の型を教える。
そうやって、途中何度も休憩を挟みながら型稽古を進め、とりあえず三つの型すべてを最低限のレベルで身に着けるまで叩き込む。
三種すべてに合格が出たのは、型稽古開始から一時間が経過していた。
「とりあえず、朝のうちはこれぐらいだな。少し遅くなったが、朝食を食べたら体を休めて、いつものように裁縫と料理の練習。昼からは学院に戻って講義を受けるように」
「はい」
「あと、講義が全て終わってからでいいから、今日教えた型を十回ずつ素振りしておさらいしておけ。十回でいいからな。それ以上は、俺が体の出来上がり具合を見て指示を出すまで禁止だ」
「分かりました」
ユウの指示に、真剣な表情で頷くティファ。自身の体がまだまだ脆弱な自覚があるだけに、ユウの言葉は絶対なのだ。
「……聞いてると耳の痛い言葉も多いが、それ以上に魔法学院の生徒にいまだに魔法の魔の字も教えないのもすごいな」
いつの間に来ていたのか、観客となっていたバシュラムが呆れと感嘆の入り混じった声でそんな感想を口にする。
「まだまだ鍛え方が足りん。やり方が特殊なだけに、もう少し鍛えないとな」
「……本当に、魔法の使い方なのか、それ?」
「ああ。だから、腕力をはじめとして不必要な筋力は、わざわざ鍛えさせていないだろう?」
「棒の素振りなんぞやれば、自然とある程度までは腕力も握力も鍛えられるだろうが」
「本気で鍛えさせるなら、その程度で済ませるわけがなかろう?」
ユウの反論に、それもそうかと納得するバシュラム。
今までのティファへの指導を見ていると、体力その他にあわせての加減はしているが、鍛えるべきと判断した要素は徹底して鍛えている。
腕力が必要なら、そのための指導をしない筈がない。
「それに、嬢ちゃんのほうもよく素振りだけで納得したなあ。普通、こういうのを習ったら、その日のうちに一度は打ち合いをやりたいって言いそうなもんだが」
「そんな、まともに振り回せてもいないのに、打ち合いなんてやっても意味ないじゃないですか」
「それを嬢ちゃんの年で普通に言えるってのがすごいんだよ。子供や若造は短絡的に結果を求めたがったり、見た目に分かりやすい派手なことをやりたがったりしがちだからな。俺が昔面倒見てた連中も、二言目には素振りなんかで強くなれるのかとうるさかったもんだ」
「あの、素振りってちゃんとした武器の振り方を覚えて、どんなに咄嗟の状況で振ってもちゃんと攻撃できるようにする練習ですよね? やっておかないと、何回攻撃してもダメージにならない、みたいなことになりそうな気がするんですけど……」
「……嬢ちゃん、なんでそんなに物分かりいいんだよ……」
「ティファは、基礎が身につかないことで苦労してきてるからな」
物分かりがいい、どころの騒ぎではないティファの言葉に、思わず唖然とするバシュラム。そんなバシュラムに、ティファの境遇を捕捉するユウ。
ティファのこの物分かりの良さは、ものすごく素直でおとなしい性格の影響も大いにあるが、そもそも魔力制御の基礎の基礎が何度やってもうまくいかなかった経験が大きい。
大魔力を持ちながら魔力制御がまともにできず、魔力を外部に放出する、いわゆる魔法を使うことができなかったティファは、その基礎部分ができないことで座学の方にも大いに影響が出ていた。
元々、魔法関係の座学に関しては、日常で使うレベルの魔法ぐらいは普通に使える前提で進んでいく。だが、魔法を使えないと得られない知識や感覚を元にした説明が多くなると、どんなに理路整然とした説明であっても、どうしても理解できない部分が増えてくる。
それらを図書館などの資料をあたっての予習復習と想像でどうにか補い、並々ならぬ努力で初等教育の魔法学を優秀な成績で前倒しで修了したティファではあるが、仮に現在いきなり魔法がつかえるようになったとしても、それらの知識が使い物になる気は一切していない。
本質的なところが理解できていないのだから、テストの点数には出てこないところで間違った理解、認識をしているところが沢山ある。その自覚があり、まったくの無駄とは言わないが非常に遠回りをしているとしか思えないのである。
そこに来て、ユウの指導によって一つ一つ堅実に積み上げていくことの効能を、現在進行形で実感しているのだ。
健康で五体満足なら誰でもでき、その武器を扱う上で何をするにも重要となることを身につけられる、基礎中の基礎ともいえる武器の素振り。それを無駄だと切って捨てる連中の感覚など理解できないのも当然であろう。
「その苦労をしていると、ますます基礎をやらずにうまくいく方法を探そうとするか、逆に違う発想の基礎を積み上げようとしそうなもんだが」
「だから、今現在その違う発想の基礎というやつを積み上げているわけだが」
「……ああ。言われてみればそうだな」
ユウの言い分に、確かにと納得するバシュラム。普通のやり方が通用しないのだから、一見まったく関係ないように見えるところから積み上げていくのは、アプローチとしてはおかしくない。
単に、ユウがやっていることがそうだとは、到底思えないのが問題なのである。
「まあ、とりあえず、片づけて飯だな」
「はい! あっ、バシュラムさん」
「ん? どうした?」
「袖口がほつれてますので、お時間があればご飯の後で直しますね」
「おう、頼む。今日は特に何をするってのもないから、慌てなくてもいいぞ」
「はい!」
壁に立てかけていた杖を手に取り、タオルをポシェットにしまいながら元気に返事をして中に入っていくティファ。
ティファの姿が消え、絶対に聞こえないと確信を持てるようになってから、小声でひそひそ話を始める年長者二人。
「……俺が言えた筋合いではないが、あまり駄賃を弾みすぎないように」
「おう。にしても、嬢ちゃんは賢いなあ……」
「ティファがものすごく賢いというのは同感だが、あの年の娘はあれが普通なのか?」
「まさか。あんなに大人みたいな考え方をする物分かりのいい子供なんて、まずいねえよ」
「やはりそうだろうな。あれは、いわゆる天才の類なんだろうな」
「だな。魔法学院でへこまされたのは、果たしてよかったのやら悪かったのやら……」
ある種の異常性すら伴ったティファの優秀さに、思わずそんな話をしつつため息をつくユウとバシュラム。
現時点では肉体的には伸び率も含めて普通の子供の範囲を超えないが、逆に言えば、最終的に普通の子供をこの時期から鍛えたのと同等には身体能力が育つ、ということである。
いや、性格の素直さと頭の良さ、地味な反復練習やきつい走り込みを嫌がらない我慢強さを考えると、よほど才能がマイナスに振り切れていない限り、普通の子供より大きく伸びる可能性もある。
今のところは深紅の百合をはじめとした冒険者達が惜しみなく愛情を注いでいるが、頭角を現しすぎたり新人が増えたりした際には、どうなるか分かったものではない。
「さて、いつまで俺の手に負えるのやら……」
「実力で下克上されても、師弟は一生師弟だ。心配しなくても、あの嬢ちゃんはお前のいうことなら素直に聞くさ」
「だといいがな」
バシュラムの言葉にため息をつくと、自分も朝食をとるために中へと入るユウ。
ティファがすでにユウなしの生活など考えられなくなるほどに依存しつつあるという事実に、この時ユウは気がついていなかった。
☆
指導開始から約三カ月。学年としては三年生に進級していたティファだったが、ユウと出会ってから学院生活よりユウとの訓令のほうがメインとなっており、大きな生活の変化はなかった。
その訓練はと言うと、走り込みも杖術も合格し順調そのもので、ついに魔法を使うための本当の意味での第一歩となる段階を迎えていた。
「……さて、休憩も終えたことだし、早速始めるとするか」
これまでのことを振り返っていたユウが、意識を切り替えて次の指導に移る。
それを、これまた回想から復帰して居住まいをただしたティファが、真剣な表情で聞き入る。
「先ほども言ったように、お前には『気』のコントロールを身に着けてもらう」
「はい!」
「とはいえ、コントロールと一口に言っても、段階はある。まずはこれができねば話にならない、気を感知するところからだ」
「はい!」
「もっとも、こいつは感覚的なものだけに、口で説明するのは非常に難しい。まずは目を閉じて瞑想し、音をはじめとした周囲のいろいろなものを感じ取ってみてくれ」
「分かりました!」
非常にアバウトなユウの指示に従い、瞳を閉じて瞑想する。
視覚を閉ざしたことで感じ取れる様々な音やにおい、温度、空気の流れなど、今まで無意識に切り捨ててきた情報の多さに驚きつつ、一つ一つを丹念に拾い、分析する。
十分ほどそれを繰り返しているうちに、なんとなくほんのかすかにではあるが、どこに何があってどう動いているかというのが感じ取れるようになるティファ。
その情報をもとに、大雑把に頭の中で周辺環境の立体図を作ってみる。それをもとにさらに範囲を広げるか、それとも分析精度を上げてみるかを迷い始めた時点で、小さくお腹が鳴る。
――ぐぅううう。
「……あう」
「まあ、ちょうどいい頃合いではあるな」
ティファの腹の虫に、思わず苦笑しながらユウが朝食を準備する。
ここ最近は朝の訓練が長くなっているため、朝食は訓練場所の公園で食べられるものを用意してもらっているのだ。
「さて、食べながら確認する。何か分かったか?」
「えっと、いろんな音とかにおいがあって、目をつぶるとそれがどのあたりから来てるかとかがなんとなく分かるようになりました」
「ふむ、他には?」
「その情報を頭の中で整理して、このあたりかなって位置に配置すると、なんとなくこの近隣一帯の立体図みたいなものは作れると分かりました」
「なるほど。初歩はできているが、それだけといったところか」
「初歩だけ……ですか」
「ああ。念のために確認しておくが、今、俺が体の中で気を動かしていることは気がついているか?」
「えっ?」
その言葉に驚き、慌てて目をつぶってユウの状態を確認するティファ。
集中すること三十秒。悲しそうにへにゃりと表情をゆがめ、素直にギブアップする。
「えう……全然、分かりません……」
「今日いきなりやれと言われてすぐ分かるようなら、最初から誰も苦労はしない」
「でも……」
「ここから先は個人差が非常に大きい上に、口でうまく説明できる種類のものでもない。二度目のチャレンジであっさりできることもあれば、何の前触れもなく十日後ぐらいに感知できるようになったり、かと思えば十年かかってようやくというケースもある」
「十年……」
「まあ、十年というのはめったにないし、あまり長引きそうなら次善の策を使うから安心しろ。ただ、自力で何とかできるに越したことはないから、こちらの中で設定している期日との兼ね合いで、どうするか決めさせてもらう」
「は、はい…………」
すっかり意気消沈しながらユウの言葉に頷くと、味がしなくなった朝食をもそもそと食べる。
(どうしよう、どうしよう……)
まだ何一つ状況は改善していないというのに、再び窮地に追いやられてかなり深刻に悩んでしまうティファ。ここで結果を出さなければ、ポンコツのまま飢え死にする未来しかない。
なのに、いくら初日とはいえ現状は手探りにすらなっておらず、ユウが求めているものを感知できる気が全くしないと来ている。
このまま上手く行かずに過ごしていると、ユウに見捨てられるのではないか、と恐怖におびえ、悪い方に考えると本当になりかねないと、無理にポジティブに思考を切り替える。
ここをクリアすれば、遠からず魔法を使えるようになるはず。そうすれば、ユウの厚意に報いることができる。
と、そこまで考えて、では、魔法が使えるようになったら、ユウとの関係はどうなるのか、とか、その後の生活はどうなるのか、と別の不安が頭をよぎる。
ここ数カ月の充実した日々は、アルトに来てから初めて幸せを感じた日々だったと言っていい。
魔法が使えるようになってしまえば、ユウが自分を指導する理由もなくなる。本人は五年は仕込むべきことがあるとは言っていたが、それとて本当に必要なのかどうかも分からない。
(今はそんな先の、できるかどうかも分からない事を考えてちゃダメ!)
明らかに先走りすぎた不安を頭を振って追い出し、とにかく目の前の難題をどうにか乗り越えるのが先だと、再び気の感知に挑戦するティファ。
それを見ていたユウが、苦笑しながら声をかける。
「とりあえず、今の時点で焦る必要はない。ここがスムーズだったからといって、次の段階がスムーズにいくとは限らない。というより、傾向としてはここで躓いた人間のほうが、後の習得がスムーズにいくことのほうが多い」
「……でも、絶対にそうだとは限らないんですよね?」
「そもそも、技能の習得に絶対などというものはないからな。とことんまで追求してみなければ、絶望的に不向きで才能がないと分からないことも珍しくない」
慰めになっていないどころか、今のティファの不安に追い打ちをかけるようなことを平気で言うユウ。無責任な気休めを言う意味はないにしても、さすがに少々言葉が過ぎる感じではある。
「とりあえず、それ自体はいつでもできるから、時間が空くたびに試してみろ。コツと呼べるほどのことではないが、自分の体内にもある程度以上意識を向けておいたほうがいい」
「はい……」
ユウのアドバイスを聞き、ため息をつきながら食事を終えて再挑戦する。
それ以降も何度もチャレンジしたティファではあったが、脳内地図の精度が上がる以上の成果は得られず、ユウの弟子になってから初めての挫折を経験するのであった。