20、王宮サロンの音楽会
「何かの罠じゃないのか? 調べてみたけどアルル嬢主催の音楽会らしいよ」
そう不安げに言うステファンだったが、すでに二人はサロンの前に立っていた。
「罠であったとしても気になる。彼女が何を言うのか聞いてみたい」
この一週間何度もかわした会話を、もう一度繰り返しただけだ。
二人は袖口と裾にぜいたくな刺繍がされた上衣と、ベストにキュロット、そして白いタイツに先のとがった革靴という音楽会のドレスコードに合わせた衣装で、結局王宮のサロンにやってきた。
嫌なら自分一人で行くとロッテは言ったのだが、またしてもフリッツを大食いした後「僕も行くに決まってるだろう」とステファンは答えた。
あんなに食べてよく太らないなと思うのだが、今も華やかな衣装をスマートに着こなしている。
「あれ? フロリスじゃないか!」
王宮のサロンに一歩入ると、すぐに知っている顔に呼び止められた。
しかも面倒なことに、東の小公子のイザークだった。
「ステファンも、珍しいな。音楽会に顔を出すなんて」
イザークはすぐに間に入って、二人の肩に腕をまわした。
大柄なイザークだと、上から二人にかぶさるような形になる。
そして昨日も会ったような距離の詰め方だ。
実際には馬舎で大浴場に誘われた一ヶ月ほど前から会っていない。
「君こそ音楽が趣味だとは思わなかったよ」
ステファンが少し嫌みをこめて返した。
イザークに音楽の趣味などあるはずがない。
今日はハープの奏者を招いての音楽会だと聞いている。
イザークとハープを繋ぎ合わせるものがあるとすれば、アルル嬢しかいない。
すぐに三人の前にアルル嬢が真っ赤なドレスであらわれた。
「来て下さいましたのね、フロリスさま」
胸元が大きく開いた毒々しいほどの赤いドレスなのに、膝を折る淑女の礼は厳粛なほど気品にあふれている。警戒していても思わず見惚れてしまう妖艶さだ。
アルルの後ろには、遠巻きに年若い姫君たちの群れが出来ていた。
「まあ! アルル様の言った通りだわ」
「本当にフロリスさまがいらっしゃるなんて」
「一番お気に入りのドレスを着てきて良かったわ」
「さすがアルル様ね。本当にお顔が広いわ」
こそこそと話す声から、今日フロリスがこの音楽会に顔を出すと言いふらしていたらしい。
誘われただけで行くとも答えてないのに、アルルには絶対来る確信があったらしい。
「良い席をご用意していますわ。どうぞこちらに」
アルルの思惑通りに動かされているようで、少し不快だった。
「いえ、私はステファンたちと一緒に座りますから」
しかしアルルはロッテの言葉を予想していたように、笑みを増して答えた。
「もちろんステファン様のお席もお隣にご用意しておりますわ。イザーク様もどうぞご一緒に」
「えっ? オレの席も?」
イザークはいつもそっけなくあしらわれているアルルが自分の席まで用意していると聞いて舞い上がった。
「よし! 行こうぜ、フロリス!」
ロッテとステファンはイザークに押されるようにして連れていかれた。
部屋には二人掛けや三人掛けのソファが適所に置かれていて、すでに男女で語らっている者や、酒を片手に男ばかりで盛り上がっている場所や、姫君が緊張した面持ちで三人で座っているソファなど、それぞれが好きな場所で好きなように過ごしていた。
そしてどこまで先読みしていたのか、ハープ奏者に近過ぎず遠過ぎない絶妙な位置に、三人掛けのソファが用意されている。そこにフロリスを真ん中に三人で座らされた。
「お飲み物はワインでよろしいかしら?」
アルルは手馴れたように飲み物のトレイを持つ給仕係を指一本で呼んだ。
「あ、私は果実ジュースにして下さい」
ロッテはあわてて言い直した。
「あら、お酒を飲まれませんの?」
「ええ。病弱だった子供の頃に飲んで倒れてから、父に禁止されているのです。どうも体に合わないようです」
あれ以来一度も飲んだことはない。
いつもこの言い訳で誤魔化している。
「そうそう。フロリスは酒が合わない体質なんだよ」
イザークはその時酒を飲ませた張本人であることを今でも後悔している。
だから、そばにいる時は一緒になって断ってくれる。それでずいぶん助かってきた。
「フロリスさまは、まるで深窓の姫君のような方ですわね」
くすりとアルルは微笑んだ。
こういう場でも未婚の姫君はお酒を口にすることはない。
良家の姫君にとっては、おおやけの場でお酒を口にするのはふしだらな事だった。
父のウィレムはロッテに男のふりをさせておきながら、こういう場でお酒を飲むことを固く禁じていた。そして、ロッテ自身も出来れば飲みたくなかった。
だがアルルのからかうような言い方にムッとした。
この姫君は、良くも悪くも人の心を波立たせるなにかを持っている。
ムキになってワインを注文しそうなロッテを制するように、ステファンが言った。
「僕も果実ジュースにしてもらえますか?」
「あら、深窓の姫君がこちらにも」
アルルが言うと、後ろの姫君たちがどっと笑った。
おかげで気まずいムードが少しなごんだ。
ロッテたちが給仕係から飲み物を受け取ると、驚いたことにアルルはワインを手に取った。
「アルルさまはワインを飲まれるのですか?」
年若い姫君がお酒を手にとることに違和感を感じる。
「ご存知なかったかしら? 私は一度結婚しておりますのよ。未亡人ですの」
それは知っていたが、まだ十代のアルル嬢なら再婚の話もあるだろう。
若い未亡人は未婚の姫君と同じく、普通はおおやけの場で酒など飲まない。
「フロリスさまはお酒をたしなむ女性はお嫌いかしら? お若いのに古風な考えですのね」
そう言って、肉厚な唇をグラスにつけ、こくりと一口ワインを飲んだ。
なんというか、仕草一つ一つが色っぽい。
隣のイザークは口を半開きにしてすっかり見惚れているし、堅物のステファンすら困ったように目を伏せた。
とりあえず生半可な男なら、この段階でアルルに心をがっつり奪われるだろう。
女性のロッテですら、アルルの仕草が頭に焼きついて寝る前に思い出しそうだ。
「さあ、今日は王宮でも噂の三人の貴公子がこうやってお揃いなんですもの。時間がもったいないわ。是非とも姫君たちの質問に答えてやって下さいな」
「姫君たちの質問?」
アルルは後ろでずっともじもじと待っていた姫君たちに場所を渡した。
先日挨拶をかわした社交界デビューしたての幼い姫君から、ロッテより年上だと思われる姫君まで、これでもかとドレスを飾り立ててロッテたちの前に並んだ。
「あ、あの、フロリスさま。お好きな女性のタイプを教えて下さいませ」
「好きな女性のタイプ?」
あまり考えたこともなかった。
男達の中にいて、問われたことのない質問だ。
男同士では、せいぜい歴代で好きな騎士を聞かれるぐらいだ。
こういう時どんな答え方をするものなのだろう。
「えっと……イザークは? 先に答えてくれ」
とりあえずイザークにふってみた。
「えっ、オレ? オレはそうだなあ……強い女性が好きかな。ちょっとわがままなぐらいの姫君の方がドキドキするというか……、奔放なところも可愛いと思う」
視線は完全にアルルに向いている。
分かり易すぎるイザークにロッテはため息をついた。
あまり参考にならなかった。
「じゃあ、ステファンは?」
仕方なく今度はステファンにふってみた。
「えっ?」
ステファンは自分に質問が回ってくると思ってなかったのか、あわてて答えたために結構な本音が出てしまった。
「僕も強い女性は好きかな。手のかかる人の方が放っておけないというか……」
言ってから、しまったという顔でコホンと咳払いをして誤魔化した。
「あら、殿方は大人しくて従順な女性を好む人が多いと聞きますのに、近頃の若い方はそうでもないのかしら? 二人とも揃えたように同じようなタイプが好きですのね」
アルルの言葉でロッテはまさかとステファンを見た。
イザークは自分でもアルルを好きだと公言しているし分かりやすいが、ステファンもまさかアルルを好きなのだろうか? 強くて手のかかりそうな姫君など、ロッテの出会った姫君の中にはアルルぐらいしかいない。この二年ほとんど行動範囲が同じステファンもそうだろう。
「なに?」
ステファンはロッテに見つめられて、怒ったように尋ねた。
「いや、意外だなと思って」
ステファンの好きなタイプなんて、聞いたこともなかったが、勝手に貴族女性の鑑のような人がタイプだと思っていた。先日決めた人がいると聞いてからは、きっとミデルブルフの領地にそんなタイプの婚約者が、慎ましやかに待ってるのだと想像していた。
「そういうフロリスさまはどうですの? まだ答えてませんわよ」
アルルはロッテに答えをうながした。
「私は……二人に比べると普通かもしれません。淑女の心得を忘れず、いつも慎ましやかで愛らしい女性に心惹かれます」
それはロッテにないものをすべて持っている女性だった。
自分が捨ててしまったすべてを、まだ手の中に大事に持っている人に心惹かれる。
好きというよりは、ないものねだりの憧れに近かった。
ロッテが答えると、「わっ」と姫君たちが歓声を上げた。
「まあ、良かったこと。こちらにいらっしゃる姫君たちは、まさにフロリスさまの理想通りの良家の姫君ばかりですわ。みんな幼い頃より熱心な淑女教育で育てられた方達ですの。さあ、みなさま他に質問があったら聞いておかれませね」
「あの、フロリスさまは何色が好きですか?」
「お好きな食べ物は?」
「ホーラントとはどのような所なのですか?」
姫君たちから次々に浴びせられるどうでもいいような質問に答えているうちに、アルルは音楽会の主催者側として、他の来客の接待に行ってしまった。
まるで社交界のすみずみまで知り尽くした老婦人のように接待慣れしている。
音楽会の主催など、本来若い姫君のすることではない。
芸術好みの金持ち貴族か、男女の仲を取り持つのを趣味にしている暇な老婦人ぐらいだ。
アルルが何を考えているのか分からない。
そうしてハープの演奏と共に時間は流れ、ゆっくり話すことも出来ないままお開きになった。
サロンの外で、預けたマントを受け取りながらロッテはステファンに囁いた。
「結局姫君たちの相手をしただけだったね」
「アルル嬢にしてやられたんだよ。本当はシエルさまの事なんて何も知らないに違いない」
「なんでそんなウソをついたんだろう?」
「決まってるじゃないか。君を音楽会におびき寄せるためだよ」
「姫君たちに紹介するために?」
「そうだよ。滅多にサロンに来ない君を誘い出したとなったら、アルル嬢の株は上がるだろう? それが目的だったんだ。彼女には要注意だよ、フロリス」
「ステファンはアルル嬢が好きなんじゃなかったの?」
「はあ?」
ステファンが素っ頓狂な声を上げたと同時に、ロッテの背に声がかかった。
「お待ち下さいな、フロリスさま。お約束のお話がまだでしたでしょ?」
アルルがにこやかに立っていた。
次話タイトルは「シエルの秘密」です