4、にせフロリス修行
カンッ、カアンッ、ガッ!
ホーラント家の中庭では、剣の重なり合う音が響いていた。
「はい! そこまで!」
教官の合図で、フロリスとロッテは剣を縦、横に動かし、一礼すると鞘にしまった。
剣術試合の終わりの挨拶だった。
「フロリス様は非常に型がお綺麗ですが、剣が消極的過ぎますね。
もう少し攻撃も加えないと、一生勝つ事など出来ませんよ。
それからロッテ様は……」
教官はそこで考え込むように一旦言葉を区切った。
「初心者とは思えぬ見事な剣筋でございます。
今までに剣の手ほどきを受けた事がございますか?」
そう言われて、ロッテ以上にそばではらはらと見守っていたセバスチャンがギクリと背中を揺らした。
シエル王太子は、また来年フロリスの成長を見に来るといい置いて帰って行った。
それを聞いて慌てたのはウィレム公だった。
理想としては、フロリス本人が来年期待通りの成長を見せていればいいのだが、気弱で人見知りの小公子にはとても無理だと思っていた。
結果、ウィレム公はロッテをしばらくの間フロリスの影武者として育てる事にした。
フロリスと同じ衣装を着て、同じように政治経済を学び、剣も馬も共に学ぶ。
更には男子としての社交儀礼も身につけさせる事にしたのだ。
そして驚いた。
「ロッテ様はどこでお学びになったのか、幼い割に政治経済にも明るく、剣も馬も弓も非常にお上手でございます。私も多くのご子息を教えて参りましたが、これほど文武共に優れたお子は初めてでございます」
どの教官も口を揃えてロッテを褒めちぎった。
ウィレム公は、気弱で少し怒られると泣いて部屋に閉じこもってしまうフロリスが悩みの種だっただけに、突如現れた優秀な『息子』が気になり始めた。
教官達はみな、離れ屋敷で秘かに育てられた双子の弟だと思っている。
あまりにそっくりで、姫だと気付く者は誰もいなかった。
こうなってくると、ウィレム公にも欲が出てきた。
◇ ◇
「明日、良家の子息が集まる音楽会がある。
サロンに集まって鑑賞するだけだが行ってみるか?」
男装をするようになって半年ほど過ぎた頃、ウィレム公はロッテに尋ねた。
ロッテはひとつ年を重ね、11才になっていた。
今までもそういう会はあったが、フロリスは人を怖がって決して首を縦に振らなかった。
プレ社交界といった感じだが、フロリスは他の貴族の子息に比べてずいぶん出遅れていた。
「私は構いませんがフロリスじゃなくて私が行ってよいのですか?」
すっかり男言葉も様になってきたロッテは、隣りに座るフロリスを窺った。
「ぼ、僕は……、そういうのは苦手だから……。
ロッテが良ければ行って欲しい……」
フロリスは目の前の威圧的な父に話すだけでも震えている。
「フロリスがいいなら、私は行ってみたい。
音楽会なんて楽しそうだ」
好奇心旺盛なロッテには断る理由などなかった。
「あくまで小公子フロリスとしてだぞ。
決して女とバレぬように出来るか?」
ウィレム公は念を押すようにロッテに尋ねた。
「私本人ですら女だという事を忘れているのに、気付かれるはずもございません」
それは事実だった。
もうこの頃には、自分が女だという事の方が不自然な気がする。
ドレスを着たいなどと少しも思わないし、刺繍やダンスなんてやりたくもない。
男社会こそが自分の生きる場所だと思っていた。
「よく言った! よし、それでは早速に明日の準備をさせよう」
ウィレム公はすっかりご機嫌で子供部屋を出て行った。
2人きりになると、フロリスはようやく緊張を解いて、くだけた表情になった。
この半年で、二人は気の許せる間柄になっていた。
「君は凄いね、ロッテ。僕は人の目が恐ろしくて仕方ないよ。
西大公の小公子というだけで、どこに行っても注目されるんだよ。
言葉一つ、仕草一つを多くの目が見張っている。
もし何か粗相をしたらと思うと、僕は一歩も進む事が出来ないんだ」
フロリスは決して愚鈍な少年ではない。
むしろ勉強などはロッテよりも優れた事も多い。
詩や歴史学などは、博士と言っていいほどの知識を持っている。
ただ、それを人前で発揮する事が出来ないのだ。
「完璧にしようと思い過ぎるんだよ、フロリスは。
失敗したら、笑ってしまえばいいんだよ。
案外誰もそれ以上非難したりしないもんだよ」
ロッテが何が優れていると言って、この人当たりの良さだ。
くるくる変わる表情が憎めなくて、少々の失敗も許してしまえる愛嬌がある。
それは女であるからこその特技かもしれない。
「僕は……僕は本当は王宮仕えなど一生したくないんだ。
この屋敷でずっとずっと静かに本を読んだり、美しい物や自然に囲まれながら生きていけたらそれでいいんだ」
「私はフロリスとまったく反対の事を考えているよ。
一生屋敷の中で刺繍をしながら、来ないかもしれない主人を待ち続ける人生なんてまっぴらだ」
それはまさに不毛な人生を嘆く母を見てきたから思う事だった。
「僕は羨ましいけどな。主人が来なければ尚いいじゃない。
ずっと自分の世界に浸っていられるもの」
「私達は男と女が逆であれば良かったのにね。私は男になりたい」
「僕は女になりたいとまでは思わないけれど、部屋に籠もっていられるなら女が良かった」
「じゃあフロリスは、私が王宮に行って王太子様に仕えても構わないの?」
「君がそうしたいなら、頼むからそうして欲しいよ」
「では本気で考えるよ? 私はシエル様に考えるって約束したんだ」
◆ ◆
翌日、ロッテは生まれて初めて馬車に乗って屋敷の外に出た。
「今日の音楽会には、東のヘルレ大公家からイザーク小公子も来られるようだ。
そなたより2才年上の13才だったと思うが、すでに王宮での公務見習いを始めている。
年下だからと甘く見られてはならぬぞ。いいな? フロリス」
ビロード地で張り巡らされた豪華な馬車の中でウィレム公は念を押した。
聡いロッテは父が東大公にライバル心を燃やしているのだと心得た。
世間一般には、辺境の北と南の大公家は格が一段下だという認識が強い。
そして西と東の大公家は拮抗する権力ゆえに、長年牽制し合ってきたのだ。
「はい。分かりました」
本物のフロリスなら、泣きべそをかいて馬車から出たくないと震え上がる所だが、ロッテは不安よりも好奇心が先に立って、窓の外の珍しい景色に目を輝かせていた。
(本当に大丈夫なのか? この娘は……)
ウィレム公は、フロリスより頼もしい娘に安堵したものの、あまりに堂々としているロッテに一抹の不安を覚えた。
今回は王都の西寄りの城で開かれる音楽会だったため、朝の暗いうちに屋敷を出ると、昼過ぎにはサロンに着いた。
遠方の子息達は前日から王都の別邸に宿泊してやって来てるらしい。
ロッテが着いた時には、サロンはすでに馬車の波も引いて、大勢が歓談していた。
フリルのブラウスに凝った刺繍の腰丈の上着、膝丈ズボンに白のタイツと先の尖った革靴を履いた同年代の貴族の子息が20人ばかりあっちやこっちで騒いでいる。
もっと堅苦しい場を想像していたが、そこは10才前後の男の子達だ。
やんちゃと好奇心に溢れている。
すでに幾人かは顔見知りらしく、すっかり仲良くふざけ合っていた。
そしてロッテが部屋に入って行くと……。
一瞬にしてあれほど騒がしかった部屋がシンと静まり返った。
「え? 誰?」
「見た事ないけど、あんな貴族の子いたっけ?」
「き、綺麗な子だよなあ。どこの子息だろう?」
「ちょっ……、あの一緒にいる人って西大公様じゃ……」
「え? まさか。
西大公家の子息は恥ずかしがり屋でこういう場には出てこないって聞いたけど……」
白亜の装飾で彩られたサロンでは、あちこちで囁き合う少年達の声が聞こえる。
付き添ってきた伯爵や男爵達も驚いた様子でロッテを見ていた。
「西大公様の子息は病弱で屋敷から出られないと聞きましたが……」
「私は心の病で臥せっているのだと聞いてますよ」
「今まで一度も人前に出て来なかったというのに……」
世間では病気か、社交界に出せないほどの難のある子息だと思われていた。
『西大公様はご立派でどんどん出世をなさっているが、お気の毒に、後継の子息には恵まれなかったらしい』
それが世間一般に噂されている内容だった。
「に、西大公様、このような小さな音楽会にようこそお越し下さいました。
お連れのお方は縁戚のご子息でございましょうか?」
今回の主催者の男爵は、年頃の息子がいる西大公に形式だけの招待状を送っていた。
今まで出席した事もないので、来るとは思っていなかったのだ。
「何を言うておる。私の息子、フロリスだ」
鼻息荒く答えたウィレム公に、サロンが再びざわめいた。
「ええ!? フロリス様は病弱と聞いておりましたが……」
「うむ。これまで病弱のため、流行病をうつされては心配と慎重になっておったが、もう大丈夫だろうと連れて出てみたのだ。
フロリス、バンテル男爵だ。ご挨拶をせよ」
ウィレム公に促され、ロッテは右手を折って胸につけ、ゆったりと頭を下げた。
この頃には目に焼きついたオレンジの騎士の挨拶を完全にコピーしていた。
「西大公家、嫡男、フロリス・フォン・デル・ホーラントでございます。
本日はお招き頂きありがとうございます」
ほうっとサロンの各場所からため息のような感嘆の声が洩れた。
「な、なんと典雅な……」
「それにあの見事な金髪をご覧下さい。なんともお美しい」
「いえ、あの碧い瞳の聡明な輝きはどうでしょう」
「西大公様にあのようなご子息がいたとは……」
ウィレム公は一瞬で人々の心を捉えた息子に、すっかり得意満面になった。
そしてその様子を見て、一人だけ敵対心むき出しに顔を歪める男がいた。
次話タイトルは「イザーク小公子」です