3、鹿狩り
「ウィレム公には確か姫君もおられたか……」
シエルはロッテの頬に手を添えたまま、覗き込むようにじっと見つめた。
「は、はい! 不思議な事にこのフロリスと同じ日に生まれ、鏡に映したようにそっくりな娘がおります」
「鏡に映したように?」
「はい。親の私でも見分けがつかぬほどにそっくりでして……」
「なるほど、そうか……」
シエルは納得したようにロッテの頬から手を離した。
「将来が楽しみな子供達だな。そなたに似ず、とても美しい」
「は、はい。みなに言われております」
ウィレムはほっとして額の汗を拭いた。
「フロリス、こたびはお忍びで鹿狩りに来たのだ。
今宵こちらに宿泊して、明日の朝デンハーグの森に行く」
シエルは優雅な物腰でロッテに説明した。
その深い闇のような黒い瞳は、不思議に澄んで温かい。
横広に長い王家の領地は、ホーラント家の北部と接している。
西部の海岸線に近い領地は、ホーラント家の屋敷の方が距離的には近いのだ。
「どうだ? そなたも行くか?」
しかしシエルの突然の誘いに、ウィレムの額から再び汗が噴き出した。
「お、王太子様。フロリスはまだ幼く、馬にも上手に乗れませんゆえ……」
「アベルの馬に乗せてもらえば良い。
いいだろう? アベル」
右脇の側近に確認を取ると、苦虫を噛み潰したように迷惑そうにしている。
「シエル様のご命令であるならば、断る道理はございません」
「し、しかし……。フロリスは臆病な所がございまして……」
「どうだ? フロリス。
狩りは初めてだろう。面白いぞ」
ウィレム公が目で断れと合図している。
しかしロッテは湧き出る好奇心を抑える事が出来なかった。
「はい! お供致します!」
◆ ◆
「とんでもない事になった。
なぜ断らなかったんだ、このバカ者め」
夜になって、久しぶりに離れの屋敷にやってきたウィレム公は、部屋に入るなりロッテの頬を打った。
小さな体は簡単に床に転がった。
「きゃああっ! 落ち着いて下さい、旦那様」
第二夫人アイセルは転がる娘に駆け寄り抱き起こした。
「これが落ち着いていられるかっ!
女のくせにでしゃばりおって!
お前に似て女の慎ましさが足らん。
お前の教育が悪いから後先考えずに安請け合いするのだ」
ウィレムは日頃母に抱いていた鬱憤を晴らすように詰った。
「明日もロッテがフロリス様に変装して行けば大丈夫です。
ロッテならきっとうまくやります」
「簡単に言うでない!
もしも女とバレたなら、王太子様を謀った事になるのだぞ。
さすれば、どんな罰を受けるとも分からぬ」
「父上様、決してバレぬようにしますから、どうかお許し下さい!」
ロッテは、憤慨する父の姿を見て初めて、事態の深刻さに気付いた。
「もしも失敗をしたら、そなたも母も無事でいられると思うな。
場合によっては離縁も有り得ると覚悟するがよい」
父にとっては娘など政治の駒に過ぎない。
息子のフロリスは跡継ぎとして不可欠だが、娘はいても損はないぐらいの思いしかない。
身を挺して守るほどの存在とは思われていなかった。
ロッテはこの時初めて、自分がこの大公家でどの程度の立場か知ったような気がした。
「ウィレム様、このセバスチャンもどうか明日の狩りに連れて行って下さいませ。
この命に代えてもロッテ様をお守り致します」
第二執事のセバスチャンが名乗り出るとウィレムは思い出したように肯いた。
「そうか。そなたがいたな。うむ、いいだろう。
王家のしきたりに通じたそなたが粗相のないよう見張るがいい」
◆ ◆
「おはようございます! 王太子様!」
翌朝、狩りの衣装を着込んだロッテは、馬の準備をする護衛騎士と共にシエルを待った。
そして父と側近3人を連れて屋敷から出て来たシエルに、弾けるような声で挨拶をした。
「おはよう、フロリス。朝から元気だな」
シエルはくしゃりとロッテの頭を撫ぜた。
隣りでロッテを睨む父は恐ろしかったが、それ以上にシエルの笑顔、言葉、仕草、一つ一つが嬉しくて仕方ない。
満面の笑顔になるフロリスを側近アベルがひょいと持ち上げた。
「お前はこっちだ。うん? なんか女くさいな。子供だからか?」
ギクリとしたロッテとウィレムだったが、あっと言う間もなく、アベルの馬に乗せられていた。
そして自分もひょいとロッテの後ろに飛び乗った。
「俺は子供だからって手加減しないからな。
しっかりしがみついてないと落っこちるぞ」
「は、はい。分かりました」
耳にかかる茶髪と青目のこの男は言葉通りに容赦ないに違いないと思った。
引き締まった筋肉と、隙のない切れ長の目は、常に殺気を放っている。
(苦手だ……この人……)
女のロッテは本能的に嫌われているような気がする。
「わたくしもお供させて下さい。
フロリス様の執事のセバスチャンと申します」
護衛騎士の誰よりも体格のいいセバスチャンがアベルの馬に並んだ。
いつもの執事服ではなく、狩りの衣装を着ている。
腰に剣まで差していて、こうして見ると執事姿よりずっと様になっていた。
「そなたは昨日姫君に付いていた執事ではないのか?」
「はい。必要に応じて、どちらにも付かせて頂いております」
妙に馬慣れしている執事に、アベルは警戒の色を見せた。
「シエル様のそばに付くなら、オレンジの物を身に付けよ。
さもなくば、間違えて切り捨ててしまうやもしれぬ」
そう言ってオレンジの襷を懐から取り出した。
冗談なのか本当なのか分からない。
いや、気に入らなければ間違えたフリをして切り捨てる事も充分ありえそうだ。
セバスチャンは襷を感慨深げに受け取ると、慣れた手つきで肩にかけた。
◆ ◆
「わあああ!!!」
「うるさいぞ、ぼうず! 黙ってしがみついてろ!」
「す、すみません。きゃっ!!」
「女みたいな声を出すな! 気持ち悪い!」
無茶苦茶な走りをするアベルの馬にきちんと並走するセバスチャンは、ロッテが振り落とされないか気が気ではなかった。
森に着いて狩りが始まると、ロッテは初めて男というものがどういう生き物なのか目の当たりにした。
今まで優雅に馬を走らせていた貴公子達が、鹿を見つけるやいなや、獲物を追いかける無慈悲な狩人の顔になる。
木々の合間を駆け抜け、馬を自分の手足のように右に左に傾け、弓を打ち鹿を追い立てる。
そして容赦なく追い詰められた弱者を射殺す。
「ひゃっっ!!」
シエルの弓から放たれた矢が見事鹿を射止めると、ロッテは思わず顔を覆った。
アベルはともかく、この優雅な王太子が殺戮に手を染めるのが恐ろしかった。
「おお! お見事でございます。王太子殿下」
王太子一行のスピードについて来れなかったウィレム公一行は、すっかり獲物の処置が終わった頃にようやく愚鈍な馬に乗って追いついた。
「いやはや噂には聞いておりましたが、シエル様の狩りの腕前は大したものでございます。
側近の皆様も馬の扱いが上手でございますが、殿下の俊敏な馬さばき、正確な弓には驚きましてございます」
ウィレム公はもちろん王太子をたてるために出張るつもりもなかったが、精一杯やっても足元にも及ばぬほどシエル達は段違いに優れていた。
(噂以上に武の才能がおありだ……)
まだ17才なのに、恐ろしい王太子だとウィレムは胸に刻み込んだ。
「大丈夫でございますか? フロリス様」
セバスチャンは、アベルの馬から降りて呆然と鹿を見つめているロッテを心配そうに覗き込んでいた。
いくら活発な子供だと言っても、10才の姫なのだ。
初めての狩りと生き物の死にショックを受けているに違いない。
「なんだ、男のくせに鹿の血にびびったか。
そんな事ではシエル様のおそばには仕えられぬな」
アベルは本当に容赦がない。
「フロリス様はまだ10才なのです。
生き物の死に何も感じぬ方が問題です」
セバスチャンは、ついむっとして言い返していた。
「お前は……一体何者だ。
執事のくせに我らの馬によくついて来れたものだな」
アベルは剣を持つ姿が板につき過ぎている執事を怪しんでいた。
「私は……」
「父上の17騎士の1人であったな。見覚えがある」
言いよどむセバスチャンの言葉を遮ったのは、シエル王太子だった。
馬から降り、オレンジのマントを揺らしロッテの前に片膝をついて視線を合わせた。
そして昨日と同じようにロッテの頬に手を伸ばした。
しかし、触れる寸前にロッテはびくりと後ろに引いてしまった。
その手はたった今、無抵抗な生き物を殺した手なのだ。
「……」
シエルは怯えた目をするロッテを見て、ため息をついてそっと手を下ろした。
「私が怖くなったか? フロリス」
「……」
「だが王になるという事は、常に殺戮のすぐそばに身を置くという事だ。
時には鹿ではなく人を殺す事を命じねばならぬ事もある。
戦う事を避ければ、結果、それ以上の多くの民が死ぬ事になるやもしれぬのだ。
戦う覚悟のない者に私の側近は務まらぬ。
もし宮仕えを希望するなら、その覚悟を持った時に来るがいい」
「……」
優しそうに見えて、本当は残酷で怖い人かもしれない。
でも、きっととても誠実で正直な人なのだと思った。
だから……。
「考えます」
「?」
がっかりして立ち去ろうとしていたシエルは、ロッテの返答に振り向いた。
「よく考えてみます。
そして覚悟が出来たならお側に仕えさせて下さい。
でも考えてみて、間違っていると思ったならシエル様にはお仕えしません」
「バ、バカもの! 何を言って……」
ウィレム公が蒼白になって怒鳴ろうとするより早く、高笑いが響いた。
「ははは! 面白い!
各地を巡って多くの子息に会ってきたが、そなたのような返事は初めてだ。
10才ゆえの無謀か、それとも年以上に聡明なのか」
シエルは森の緑を映す黒目を細めて微笑んだ。
「いずれにせよ気に入った。
そなたの答えを待っていよう、フロリス」
次話タイトルは「にせフロリス修行」です