28、ロッテのいない王宮
「ねえ、聞いた? ステファン」
アカデミーでテオがステファンに尋ねた。
「聞いたって何を?」
ステファンは熱心に薬草の本を読んでいる風を装っているが、まったく頭に入ってなかった。
「フロリスの噂」
「えっ?!」
ステファンは青ざめた顔で本から顔を上げてテオを見た。
「噂って? どんな?」
まさか……と心臓が早鐘を打つ。
「今日で公務にもアカデミーにも来なくなって5日でしょ?」
ステファンの前で涙を見せて駆け去ってから、5日が過ぎていた。
病欠だと聞いているが、おそらく自分との事が原因に違いないと思った。
どうしたらいいものかとずっとずっと頭を悩ませていた。
フロリスの別邸に訪ねてみようかとも思ったが、きっと会わせてもらえないだろう。
だいたい会って何を言っていいのか分からない。
ステファン自身も、自分がどうしたいのか分からなかった。
パーティーの日、破れたレースから見えたのは胸を隠すように巻いた布だった。
それだけだったけれど、細い鎖骨と共に見えたその布に自分と違う性を感じた。
一瞬の直感だったけれど、それはパズルの最後のピースのようにそれまで抱いた微かな疑問を、あるべき答えへと導いた。
肌を極端に見せたがらないのも……。
よく貧血を起こすのも……。
男としての知識にだけ無知なのも……。
そして……。
ドレスを着たフロリスは、あまりに眩しくて……こんな気持ちになる自分がおかしいのかと思った。
困ってる友人の世話を焼いてしまうのは性格的なものだと思っていたが、フロリスに対してはそれだけでは済まない庇護欲のようなものがあった。
透明な水晶のように美しいフロリスを1つの傷もなく守りたいと思ってしまう。
イザークの病気がうつってしまったのかと思っていた。
(女の子だったんだ)
そう確信すると、もう疑いようがなかった。
そして……。
自覚すると、カッと体が熱くなった。
社交界にもデビューしていない、女兄弟もいないステファンには、女性への免疫がない。
どう接していいのか分からなくなった。
そばにいるだけでドキドキして、平常心を保つだけで精一杯だった。
動揺してしまう自分のせいでバレてしまうんじゃないかと思って、避けるようになった。
フロリスがなぜ男のフリをしているのか。
それは、そっくりな妹と病弱な小公子の話で予想をたてる事が出来た。
(病弱な兄の代わりに妹のロッテがフロリスのフリをしている?)
まさかそんな大それた嘘を?
西大公様が?
でもそれ以外考えられなかった。
(それはいつまで?
フロリスの病気が良くなるまで?
じゃあ一生病気が良くならなかったら?)
聞いてみたい事はいっぱいあったけれど、どう聞いていいか分からなかった。
そして女の子だと思うと、きつい仕事を命じる事など出来なかった。
分かってはいても贔屓してしまう。
(だってしょうがないじゃないか。
僕は女の子だって知ってるのに、重い本を運べなんて言えるわけないじゃないか)
「3日前に、西大公様の別邸から豪華な馬車が出て行くのを見たヤツがいるんだ」
「豪華な馬車?」
ステファンは再びテオの話に首を傾げた。
「西大公ウィレム様は今、北のフリースラントに外遊中だから、そんな豪華な馬車に乗る人物はフロリスしかいない。そしてその馬車はホーラントに向かったらしい」
「ホーラントに?」
「どうもね、今朝アカデミーと図書房にフロリスの長期休養届けが出されたらしい」
「長期休養届け……?」
「ほら、フロリスって子供の頃から病弱だって噂だったでしょ?
なんか病気が悪化して領地に帰ったんだって噂になってる。
もしかして、このまま戻って来ないんじゃないかって……」
ガタンッ!! とステファンが椅子をひっくり返して立ち上がった。
「まさか……」
「ステファン?」
ステファンの顔は見た事がないほど蒼白になっていた。
「どうしたの、ステファン? 大丈夫?」
「ごめん、テオ……。
今日は休むから師範様に伝えておいて……」
「え? 休むって? もう来てるじゃない」
「気分が悪くなったから早退したって言っておいて」
「え? ステファン? ステファンッ!!」
呼び止めるテオにも振り返らず、ステファンは駆け出していた。
◇
そしてもう1人、フロリスの噂を聞いて動揺しまくっている男がいた。
「おい、どこに行くつもりだイザーク」
ルドルフに呼び止められてイザークはギクリと肩を震わせた。
最低限の食料を持ってこっそり馬に乗ろうとしていた所だった。
「い、いえ。ちょっと気分転換に遠乗りでもしようかと……」
「こんな時間からか?」
午後までのアカデミーの授業を終えて夕方になっていた。
ステファンが朝一番で教室を出て行った時は何事かと思った。
イザークがフロリスの噂を耳にしたのは授業がすべて終わった後だった。
「ち、ちょっとジル達と飾り窓地区に夜遊びに出ますので、今夜は帰らないかも……」
「ジルならさっき大量のパンを買い込んで別邸に戻って行くのを見たぞ」
「そ、それは……」
(ジルの食いしん坊め! 兄上に見られるなよ)
つくづく使えないヤツだ。
「そういえば西大公家の綺麗な坊や……」
ルドルフの言葉にイザークは再びギクリとした。
「領地に帰ったらしいな。パーティーで少々いじめ過ぎたかな?」
「そ、そうですよ! 兄上が女装なんてさせるから宮仕えが嫌になったんだ!
兄上のせいです!」
口に出して言ってみると、そうに違いない気がしてきた。
そういえばパーティー以来、元気がなかった。
「女装程度で逃げ帰るなら、この先やっていけまい。
王宮での出世など諦めた方がいいだろう」
「び、病気だって聞きました。
そういえばよく貧血を起こしていた」
「ふーん、病弱の噂は本当だったんだな。
見た感じは元気で快活な坊やだったけど。
まあ、ちょっと痩せすぎかな。
私はもう少し筋肉質な男の方が好きだ」
「兄上の好みなど聞いてません!」
「それで? まさか公務をほっぽり出して見舞いに行こうなどと思ってはいまいな?」
「そ、そ、それは……そんな事は……」
「領地の者でもない人間が簡単に他の領土に入れると思うなよ。
ヘルレの人間がホーラントに入ろうと思ったら、父上でも手形が必要だ。
同じ国とはいえ、ヘルレの者がホーラントで歓迎されると思うのか?
充分な護衛無しになど殺されに行くようなものだ」
「……」
王宮にいたら、領土意識は薄れていくが、領地に住む者は地元愛が深い。
ライバル心が強まって敵対心にまでなってる領民も多いのだ。
「分かったら大人しく部屋に戻れ。
男色狂いもいい加減にしないと父上に殺されるぞ」
冗談ではなく、充分ありえる話だった。
イザークは仕方なく兄について屋敷に戻った。
次話タイトルは「フロリスの秘密」です