2、初めての男装
「お母様、ほら見て。
お庭のチューリップが満開でした」
母アイセルの寝室に花を届けると、母はすでに身支度も済ませぼんやりと窓の外を眺めていた。
「ロッテ……。姫君がそのように騒がしく部屋に入るものではありませんよ」
「ごめんなさい母上様。気をつけます」
アイセルはロッテに視線をやると、いつものように小さなため息をもらした。
「ああ、本当になぜあなたは男子ではなかったのでしょう。
屋敷の者はみんなみんなあなたが後継ぎの子息であればと噂しているのに……」
アイセルのこの愚痴は毎日の事だった。
「母上様、悲しまないで下さい。
ロッテはもっともっとたくさん勉強して、必ず母上様の満足出来る立身出世を果たしてみせますから」
ロッテの言葉にアイセルは、ふっと苦笑した。
「おバカさんね。
女はいくら勉強しても剣がうまくなっても馬に乗れても、出世など出来ないのよ。
そればかりか、不要な能力は女としての可愛げをなくしてしまうの。
男達に疎まれて、捨て置かれるだけ……」
現に闊達で国政や経済にも深い知識を持つアイセルは、つい知識をひけらかす所があり、嫁き遅れた挙句に血筋の良さの割りに第二夫人にとどまっている。
しかも……。
「それに女の価値は男子を生めるかどうかで決まるの。
男子を生めなかった女は、どれほど教養があろうとも、美しかろうとも何の発言力も力も持たないのよ」
実際、アイセルと第一夫人の待遇の違いは開くばかりで、近頃はウィレム父上もこちらの離れ屋敷に出向く事はほとんどない。形ばかりの季節の挨拶だけだ。
その点第一夫人は、本屋敷の中に広い敷地をもらい、父上は王宮での公務が休みの日には、ほとんどそちらで過ごしているとの噂だった。
兄であるフロリスには多くの従者があてがわれ、朝から晩まで様々な教師が大公家の後継ぎに相応しい教育をしているらしい。
姫君などは、容姿を磨き、あとは礼儀作法とダンスぐらいが出来れば充分だと思っている。
ウィレム公は手のかかるフロリスの教育にばかり頭を悩ませていた。
まあ、そのおかげでロッテはこの離れ屋敷で自由奔放、時にはこっそり剣や馬の稽古をして過ごす事が出来ている。
だからロッテはこの暮らしを結構気に入っていた。
ただ、母のアイセルだけが不遇な自分を嘆いていたのだ。
「母上様。では私が女の生き方を変えてみせます。
女の中で一番の出世をしてみせます!」
「ふふ。女の一番の出世は王の正妃になる事よ。
そして王子を生むこと」
「いいえ! 私は大商人になります!
世界を飛び回って海賊をやっつけ、世界一の豪商になります!」
「ふふふ。私もあなたぐらいの年にはそんな夢を持ってたかしら」
「母上様、いつもの海賊と戦う商人の話を聞かせて下さいませ」
「そうね。今日はでは東洋に旅する商人の話にしましょうか」
ロッテがこんな夢を持つのは、すべて母の受け売りだった。
母は驚くほど博識で、外国の言葉にも通じて多くの見聞録を読んでいた。
子守唄がわりに聞かされたそれらの物語は非常に壮大で、ロッテは惜しい才能を埋もれさせるばかりの母の影響を強く受けていたのだ。
◆ ◆
母の部屋を辞したロッテは、こっそり離れの屋敷を抜け出し、本屋敷の来賓室を窺っていた。
(さっきのオレンジの騎士様はまだいるのかしら?)
離れに住むロッテ母子は、本屋敷の行事や来客も蚊帳の外だった。
王太子様が来るなんて聞いてもいないかった。
来賓室の中庭に面した入り口を黒地にオレンジのラインが入った護衛騎士が警護している。
(まだいらっしゃるのだわ)
もっと近くで見ようと来賓室の隣りの控えの間に近付くと、中からウィレム公の声が聞こえてきた。
「何をしている! 早くせぬか!
王太子様がお待ちなのだぞ!」
「ですがウィレム様……それでなくとも人見知りで繊細なフロリス様をいきなり王太子様の前に引き出すなど……無茶でございます」
「シエル様が会ってみたいと仰せなのだ!
若い内から王太子様に懇意にして頂ければ、フロリスの未来も安泰じゃ。なぜ分からぬ!」
「ですがこのように怯えて震えておられるフロリス様をどのようにして……」
「ええい。こんなチャンスは滅多にないと言うに……なんと情けない……」
「流行病で御前に行けないとおっしゃって下さいまし」
「うむむ……。仕方があるまいか……」
ガッガッというせわしない足音が聞こえ、ロッテが身を隠す暇もなく、ドアが開いた。
「!!!」
ウィレム公はドアの外に立つ久しぶりの我が娘に、一瞬頭の中のすべてが吹っ飛んだ。
そして真っ白な頭で、見えたものを口にした。
「フロリス……」
そう。
ドレスを身につけてはいるが、あまりにそっくりな容姿。
姫の教育は侍女の仕事だと、あまりじっくり見る事もなかったが、久しぶりに見ると見分けがつかぬほどにそっくりだった。
「いや……ロッテか……」
しかしすぐに現実を思い出した。
「こんな所で何をしている!
姫ともあろうものがはしたなく屋敷をうろつくでない!」
「は、はい。申し訳ございません、父上様」
あわてて踵を返そうとしたロッテは、思い直したウィレムに呼び止められた。
「いや、待て! そうか……。
そういう手もあるか……」
「え?」
「そなた、フロリスの代わりに王太子様にご挨拶出来るか?」
◇ ◇
控えの間に入ると、侍女や執事に囲まれて煌びやかな衣装を着せられた少年がマントに顔を埋めて泣いていた。
「みな、フロリスの衣装を脱がせてロッテに着せよ」
ウィレムの命令に家人達は一様に驚いた。
「そ、そんなまさか……。
正気でございますか? ウィレム様」
「ほんの一瞬のご挨拶だ。
バレる事もなかろう。早くせよ!」
ロッテはさめざめと泣く少年の背中をそっと撫ぜた。
母の違う二人は、滅多に会う機会もない。
行事の会食などで遠くに見るぐらいだった。
「大丈夫? そんなに泣かないで。
ね。私が代わりに行くから」
ロッテの言葉にフロリスは泣き濡れた顔を上げた。
それは鏡を見ているのではないかというほど自分にそっくりだった。
フロリスも驚いて目を丸くしている。
「いいの? あなたは怖くないの?」
「うん。全然平気よ。
上手に挨拶してみせるから安心して」
ロッテの笑顔に、フロリスもようやく涙を拭って立ち上がった。
そうして……。
出来上がった偽フロリスはどこから見ても見事な小公子だった。
胸元をフリルでおおったブラウスに、水色の膝ズボン。白いハイソックスに先の尖った革靴。
金髪の巻き毛は背で軽くゆわえ、最後に水色のマントを肩にかけた。
鏡の前に立つロッテは心が躍った。
そして自分が本当はいつも男姿に憧れていたのだと気付いた。
ドレスを着て部屋に閉じこもって刺繍をするより、自分の真の姿はこれなのだと思った。
「おお! なんと見事な変装だ。
もうフロリスにしか見えぬではないか」
ウィレムも喜んで、さっそく男子の挨拶を即席で教えた。
教えられなくともロッテも知っていたが、頭の中のイメージは先ほど石畳で受けたオレンジの騎士の優雅な挨拶だった。
(どうやったらあんな風に優雅に動けるのかしら)
◇ ◇
「はじめまして。西大公家、嫡男、フロリス・フォン・デル・ホーラントでございます。
シエル王太子殿下に、このように近くでお目にかかれて光栄でございます」
フロリスはオレンジの騎士の動きを思い浮かべて右手を折って頭を下げた。
「うむ。顔を上げるがよい、フロリス」
ロッテがそっと顔を上げると、来客用のソファーに先ほどのオレンジの騎士が座っていた。
その両脇と後ろに護衛騎士が立っていて、右脇がアベルと呼ばれていた失礼騎士だった。
「ずいぶん待たされたが、その甲斐があったな。
なんと美しく利発そうな少年だ。
公は人見知りが強いと言っていたが、そのようには見えぬがな」
「は、はい。普段はまったく恥ずかしがり屋で困っておりますが、今日は王太子様の美しさに臆病の虫もどこかに飛んで行ったようでございます」
ウィレム公は見事な挨拶にほっとして、ポンポンとロッテの肩を叩いた。
「では、フロリス。下がっていなさい」
早々に下がらせようとしたウィレムだったが、シエルはふと何かに気付いて引き止めた。
「待たれよ、フロリス殿。
もう少し近くで顔を見せるがよい」
ウィレムはぎょっとして王太子を見つめた。
「な、なにゆえ近くに……?」
「こちらにおいで。フロリス」
シエルは、にこりと微笑んでロッテに直接命じた。
「はい……」
ロッテは優しげに自分を呼ぶシエルに操られるように、知らず歩み寄っていた。
まさか女とバレたのかと蒼白になるウィレムの気も知らず、ロッテは目の前の神々しいほどに美しい王太子の魅力に引き込まれるように、手の届く場所まで近付いた。
(近くで見ると、またなんと美しい方なのかしら)
臆する事もなく食い入るように自分を見つめる少年に、シエルはそっと右手を伸ばした。
そして、うっすらピンクに色付く頬に添える。
ロッテは触れられた途端に雷にでも打たれたような衝撃を感じた。
体中の血も肉も一気に沸騰して昇華しそうな衝撃。
幼いロッテにはそれがどういう感情なのか分からなかった。
ただ分かるのは……。
(この方に仕えたい……。
この方のためなら命も惜しくはない……)
次話タイトルは「鹿狩り」です。