18、イザークの悩み
「フロリス、良かったら僕の屋敷に遊びに来ないか?
いや、いきなり家に誘うのは引かれるかな。
まずは近くのサロンで開かれる音楽会に誘ってみようか。
そういえば東の広場に最近ローマ風の大浴場が出来たと聞いたな。
遊技場もあって面白いらしい。
裸の付き合いで一気に距離を縮めて……。
裸の……。
は、はだかっ?!」
イザークは妄想が膨らみ、ドッカンと頭の血流が飛び出たかと思った。
「ぎゃあああ! 俺は何を考えてるんだ!
違う、違うんだ、フロリス!
俺はただ友人として仲良くしたいだけで……。
決して君にやましい気持ちなど……」
そう。
自分は兄のルドルフとは違う。
普通に女の子も好きだった。
可愛いし綺麗だとも思う。
男に興味などないはずだ。
現にジル達友人と男色など、想像したくもない。
気持ち悪くて吐き気をもよおす。
だからフロリスへのこの気持ちも、ただ純粋に友人になりたいだけだ。
美しく聡明な友人に憧れのような気持ちを抱いているのだ。
「俺は君と馬で遠出したり、夜通し語り合ったり、時には泊まりあったり……。
いつの間にか眠ってしまって、朝起きると君が隣りで寝ていて……。
君の無防備な寝顔に……俺は……」
はっと我に返る。
「わあああ! 違う、違うんだ!
キスしようとなんかしないよ!
勝手に俺の頭が想像してしまうんだ。
俺のバカッ! なんて事考えるんだ!
俺はそんな不埒なマネをするつもりなんか……」
でも、出来る事ならしてみたい……。
「ぎゃあああ! 違う! 違うんだって!」
「一人でも楽しそうだな、イザーク」
部屋で一人もんどりうつイザークに背後から声がかかって振り向いた。
「ル、ルドルフ兄上!」
イザークと同じ栗毛を背で緩く結ぶ、緑のつり目の男が立っていた。
「へ、部屋に入るならノックして下さい!」
「何度もしたぞ。
お前の声が大きくて聞こえなかっただけだ」
「そ、それは……」
部屋の外まで聞こえていたらしい。
かっと真っ赤になった。
「な、何かご用ですか? 兄上」
気を取り直して尋ねた。
「いつものようにこれを……」
ルドルフはイザークに一通の手紙を渡した。
「またステファンですか?
もう嫌ですよ。こんな取次ぎなど……」
兄の手紙をステファンに渡すのはイザークの役目になっていた。
「お前は趣味だけで私が男色にはしっていると思っているのか?」
「違うんですか?」
「絆だよ、イザーク。
お前も処世術の一つとして知っておくといい」
「絆?」
「気持ちと体で繋がった男は裏切らない。
そういう意味では女の方が余程薄情だ。
女は強い男を見つければ、簡単に乗り換えるものだ」
「兄上はたまたまそういう女とばかり関係があったのでは?」
「ふふ。お前はまだまだ遊び足りないな。
男と女の真実を知らない」
「そんな真実知りたくありません」
「甘ったれた事を言うな。
お前もこの東大公家という強大な権力を持つ家に生まれたならば、その権力を更に強大にして子孫に手渡さねばならない。生まれながらにその重責を背負っているのだ。
若い内から自分の手足となって動く者を手なずけておく事は重大な責務だぞ」
「それが男色ですか?」
「ふふ。その気のある者には手段の一つとして使う事も厭わない。
だがその趣向がない者には無理強いはしないさ」
「男色でないならどうするのです?」
「方法はいくらでもあるさ。
金、女、権力、そして弱みを握る」
ルドルフの緑の細目が怪しく光った。
「弱み? ステファンの弱みを握ったのですか?」
イザークはごくりと唾を飲み込んだ。
「ふふ。あれは賢い坊やだね。
なかなか弱みを握らせてくれないよ。
だから尚更欲しいんじゃないか」
「欲しいとか……そういう言い方やめて下さい。
俺の学友の一人なんですから」
イザークは兄とステファンの絡みなど想像したくもない。
「お前がもっと巧くこちらに引き込まないから私が仕方なく介入してるのだ。
あの博識と人柄、それにミデルブルフの領地は手に入れて損はない。
ちょうどホーラントとヘルレの中間に位置する要所だ。
今はホーラント寄りだが、過去にはヘルレの領地だった事もある。
ジル達のようなつまらぬ悪童とばかりつるんでないで、ステファンと仲良くするんだ」
ただ男色の趣味だけでステファンに執心してなかった事に少しほっとした。
だが狡猾で恐ろしい兄だと、改めて思った。
「でも、向こうは俺をあまり良く思ってないから……」
イザークはずる賢さの才をすべて兄に手渡して生まれてきたのか、腕っ節の強さは勝るものの、要領よく立ち回るという事が苦手な男だった。
小さな頃からいつも兄に嵌められて、イタズラをしても喧嘩をしても弟のイザークが怒られた。だがそういう所が憎めなくて、屋敷の者からは好かれていた。
そして兄ルドルフも、弟をいたぶるのが趣味になる程度には偏愛していた。
だから……。
「その手紙は今回はステファンに宛てたものではない」
にやにや笑いながらイザークに告げた。
「ステファンじゃない? じゃあ誰に?」
「フロリスだ」
「!!!」
イザークは見事に蒼白になった。
「フ、フロリス? い、いやお待ち下さい、兄上。
フロリスは西大公の子息ですよ?
下手な事をしたら父上も巻き込む大騒動になる」
「下手な事などせぬ」
「下手な事をしないなら、一体フロリスに何をしようと……?」
じわじわとイザークの額に汗が滴る。
「そうだな。向こう次第だな。
遠目に見た事があるが、女のような細身の美しい男だった。
あれはもしや男色の気があるかもしれぬぞ。
うん。落とし甲斐のある男だ」
ルドルフは弟の顔色が青ざめていくのを、にやにやと見守った。
この迂闊な弟は、さっきのように大きな独り言を言うクセがあるので、フロリスに執心しているのは以前から知っていた。
ただ、自分のように男色を楽しむつもりもないらしく、どういうつもりなのか知りたかった。
「フ、フロリスは……だ、男色など……そんな男ではありません。
とても清廉で潔白で無垢な……」
「無垢? はは。無垢な男などいるものか。
それは女を表現する言葉だろう?」
ルドルフは可笑しくなった。
「と、とにかくフロリスに変なちょっかいを出すのはやめて下さい、兄上」
「やれやれ。思ったよりも重症だな」
「お、俺はただ大公家とか関係なく、フロリスと友人になりたいだけです」
「友人ね。ならば手紙の代わりにフロリスをこの屋敷に招け。
さもなくば、私が直接声をかけて、王宮の私室に連れ込むやもしれぬぞ」
イザークは青ざめた顔で兄の命令を受け取った。
この兄はやると言えば絶対やる人間だとイザークはよく知っていた。