1-87:80年目の春です2
冬の寒さが次第に和らぎ、次第に人々の表情に笑顔が見られ始める。
春の恵みを求め、森に入る者、秋に向けて田畑を耕すもの、どの人々も昨年とは違い悲壮感は余り感じられない。家から出て、それぞれの仕事へと向かう前に、誰もが村の中央に植えられた一本の樹へとお祈りを捧げ、それから各々の仕事へと散って行く。
ここ最近に習慣となったこの行動を、誰もが自然に行っている。自分達が今こうして穏やかに過ごせるようになったのが、この樹の御蔭であることを誰もが知っていたのだ。
「不思議な物だ、春になると梅の様な花を咲かせ、花が散ると次は桜、いったいこの樹は何なのだろう」
枝に咲き始める梅の花を見ながら、祈りを捧げ終わった村人がそう呟く。
しかし、その視線は決して樹を忌避している物では無く、ただ純粋にこの樹の不思議さ、神聖さに思いを馳せている。何と言ってもこの樹が村に植えられてから、今まで減少傾向であった田畑の収穫量が次第に回復し始めた。そして、3年目を迎えた今年は、豊作と言っても良い収穫量を達成したのだ。
村人達の誰一人としてこのような黄金を敷き詰めたかのような田や、緑あふれる畑を見た事は無い。
この樹を分け与えてくれた王室に対し、今まで以上の感謝を捧げるのだった。
「この樹は神樹と呼ばれている様だぞ?ユーステリア様がこの世界を心配なさって分け与えてくださったらしい」
熱狂的なユーステリア神教の信者である男が、彼らにその様に告げる。同様の事柄を教会の司祭たちが演説しているのを耳にする事もある。しかし、王室からはこの神樹はユーステリア神教と何ら関係が無いとの発表がされている。どちらの言葉が正しいのか村人は知らないし解らない、ただこの神樹が自分達を救ってくれた事は確かであり、その事に対し村人は感謝を捧げるのだ。他の村人達の大半も同様だろう。
祈りを終えた男は、近くの森へと春の恵みを探しに向かおうと踵を返した。その視界の中に、先日王都から来た役人が立てていった立札が目に入る。
「それにしても、あの立札はなんなのかな」
男の視線の先にある立札には、一つの告知書が張られていた。
その内容は以下の通りである。
神樹になる木の実は必ず育成に回す事。
決して木の実を口に入れる事はまかりならん。
もし違反すれば、終生後悔する事となるだろう。
以上の内容が記されていた。また、設置した役人から村人達は、説明を受けていた。しかし、その内容を理解出来たものは誰一人としていなかった。ただ皆が解った事は、この木の実を口にすると高熱を発し、最悪命を落とす事が有る、ただこの一点に限られた。
「とにかく今は森の山菜を採らないと、誰かに根こそぎ採集されては目も当てられん」
そう呟きながら村の出口へと歩いていくのだった。
◆◆◆
そんな穏やかな春を迎えた者達が居れば、まさに今生死を掛けた戦いを行っている者達もいた。
事はフランツ王国における軍隊の大損害に発する。
当初フランツ軍は、多数の兵士を失った事をひた隠ししながら復興を図ろうとした。
しかし、当たり前のように情報は国民たちの知る事となった。損害を受けた軍隊の兵士達、彼らには当たり前に家族も、親しい者達もいる。それで情報が漏れないわけがない。
そして、当たり前のように城へと多くの者達が情報の確認と、更には抗議に訪れる。
平時であれば国の対応も違ったのだろう、また現場にいる兵士達も心の余裕を持って対応出来ただろう。
ただ、結果として一人の衛兵が詰めかけた男と口論になり、更に男が殴り掛かってきた為斬り捨ててしまった。兵士の行動は、あるいみ正当なものであった、しかし、時期が余りに悪かった。
この事を切っ掛けとして男の仲間たちが衛兵へと切りかかり、衛兵を交えての戦闘状態へと発展、ついには暴動が発生した。放火、略奪、まるで鬱憤を晴らすが如く城下は混乱と炎に包まれたのだった。
「ご報告を致します。城下にて発生していました暴動は一先ず鎮圧が終了しました」
「うむ、御苦労!それで、被害はどれ程になった?」
フランツ3世はこの後、兵士の報告を聞き、溜息を吐いた。
城下の約3分の一が焦土と化した。さらには暴動、略奪などで多数の者達が命を落としている事だろう。
未だ今回の鎮圧における死傷者数の連絡は届いていない。これは、あまりに数が多く把握する事が非常に困難な状況である事を示していた。
「早急に国力を回復させねばならんが、言うは易しだ。そもそも回復させる事が出来るならば遠征などしておらんからな」
フランツ3世の言葉に、周囲にいた官僚達は誰も発言する事が出来なかった。今この時において下手に発言をすれば自分の首を絞めかねない。そんな例えようもない恐怖が、城内に漂っていたのだった。
「衛兵を複数組織し、城下を警邏させよ、これ以上の犯罪を許すな!夜間の外出は禁止させろ、とにかく治安を最優先に回復させるのだ」
フランツ3世にとって唯一幸運として上げるのなら、今回の暴動鎮圧によって直接行動を起こすような者達がとりあえず城下から一掃された事であったかもしれない。
しかし、残念なことに不幸とは思いもよらない時に来るのだ。そして、それは幾重にも重なり合い、国すらも飲み干そうと牙を剥いている。
それらに、そのような意思があるのかどうかは解らないが、唯一言えるのは・・・送り狼には気を付けろ!
もっとも、それらは全てを俯瞰して眺めることの出来る神ぐらいにしかわからない事であろうが。
必死の思いで帰還してくる兵士達が絶えて、すでに数十日が過ぎている。
それでも、自分の親が、恋人が、今日にでも、明日にでも戻ってくるかもしれない。
そんな思いで毎日城門の外で帰りを待つ人々がまだ一定数残っていた。
夕日が街道を赤く染め上げるなか、今日も待ち人が戻る事無く俯いて城下へと戻って行く人々。
そんな中、一人の女性がいつものように振り返り、振り返り門を潜ろうとした所で口を開けて立ち止まってしまった。
周りにいた者達も、その様子に気が付き一人、また一人と足を止めて振り返る。
彼らの視線の先には、赤く照らし出された街道が、次第に黒く塗りつぶされていく様子であった。
決して夜が訪れたのではなく、何かが、自分達の知らない何かが群れを成して此方へと向かって来る姿であった。
誰もが声を発する事すら出来ず、ただ立ち尽くす中、甲高い鐘の音が突然響き渡った。
それは、敵の襲来を知らせる警報であった。しかしその警報の鐘は、誰も聞いたことも無い不気味な音を鳴り響かせたのだった。




