ー第2項 血の匂いではなく芳醇な葡萄の香りが戦場を支配する。魔女が掲げたワイングラスと、悪魔が散布した甘美なる幻覚
第2項 血の匂いではなく芳醇な葡萄の香りが戦場を支配する。魔女が掲げたワイングラスと、悪魔が散布した甘美なる幻覚
両軍が対峙し、緊張が極限まで高まった瞬間、セシリアはふとつまらなそうにため息をついた。
「ノワール、喉が渇いたわ」
「畏まりました、お嬢様」
戦場のど真ん中である。これから殺し合いが始まろうというその場所で、執事の悪魔はどこからともなく豪奢なテーブルセットを取り出した。純白のクロスが敷かれ、クリスタルのグラスが置かれる。
ノワールは恭しく年代物のワインボトルを開栓した。
ポン、という軽やかな音が、静まり返った荒野に響く。
トクトクトク……。
深紅の液体がグラスに注がれる音さえも、兵士たちの鼓膜を揺らした。
「極上のヴィンテージでございます。この地の豊かな土壌と、お嬢様の魔力が育んだ奇跡の一滴」
「ええ、香りが素晴らしいわね」
セシリアはグラスを軽く揺らし、その芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込む。そして、一口、優雅に口に含んだ。
その瞬間、ノワールが指をパチンと鳴らす。
「――では、皆様にもお裾分けと参りましょう」
悪魔の魔力が、ワインの香りを爆発的に増幅させた。
それは単なる匂いではない。脳髄に直接作用する、強力な精神干渉だった。
風が吹いた。
血と汗と泥の臭いに満ちていた戦場が、一瞬にしてフルーティーで甘美な香りに包み込まれる。
「あ……なんだ、この匂い……」
「いい匂いだ……まるで、子供の頃に嗅いだ母さんのスープのような……」
「焼き立ての肉……冷えたビール……」
王国兵たちの目に、幻覚が見え始めた。
ノワールが散布したのは『極楽のイメージ』。
飢えと乾き、恐怖に苛まれた兵士たちが最も欲している光景を、ワインの香りに乗せて脳内に直接投影したのだ。
彼らの目の前で、荒野が歪む。
剣を持った敵兵の姿がぼやけ、代わりに湯気を立てるローストチキンや、山盛りのフルーツ、溢れんばかりのワイン樽が見えてくる。
彼らの故郷ではもう決して見ることのできない、豊穣と幸福の光景。
「ああ……食べたい……」
「喉が渇いた……一口、一口だけでいい……」
武器を持つ手が下がる。膝から力が抜ける。
兵士の一人が、ふらふらと前へ歩き出した。
「おい、戻れ! 命令違反だぞ!」
指揮官が怒鳴るが、その声もまた虚しく響くだけだ。一人、また一人と、兵士たちは武器を地面に落とし始めた。
戦う気力など、最初からなかったのだ。
彼らが戦っていたのは「敵」ではなく、「飢え」だったのだから。
目の前に楽園がある。満たされた世界がある。
それを守る者たちが、あんなにも健康で幸せそうにしている。
ならば、自分たちがなすべきことは「攻撃」ではない。「懇願」だ。
「セシリア様……!」
「俺たちも……俺たちもそちらへ入れてください!」
「もう嫌だ! こんな国で死ぬのは嫌だ!」
カラン、カランと、剣や槍が打ち捨てられる音が連鎖していく。
それは降伏の合図であり、王国という国家そのものの敗北の音だった。
セシリアはグラスを傾けながら、その光景を冷ややかな瞳で見下ろしている。
「あらあら。聖戦はどうしたのかしら? 私を討ち取るのではなくて?」
「お嬢様、彼らは気付いたのですよ。真の聖地がどちらにあるのかを」
ノワールが愉しげにクスクスと笑う。
戦場での宴。それは血を流すことなく、敵の心を完全に破壊する、最も残酷で優雅な虐殺だった。




