未来に、幸あり!
不惑を迎え、なお彼女いない歴=年齢の超絶非モテチー牛の俺の前に、突如として一人の少女が現れた。
「わたしはミライから来た、あなたの娘です!」
「えっ!? 俺結婚できたの!? バンザーイ!」
HAPPY ENDING♡
ご愛読ありがとうございました。小路余栄先生の次回作にご期待ください。
「いやいや、HAPPY ENDING♡ じゃなくて!」
「え? 俺ハッピーエンドになるんじゃないの?」
「そんなネタバレ、いまできるわけないじゃん。とにかく、もうちょびっとだけ付き合ってよ」
「亀○人かよ。それ絶対ちょびっとじゃ終わらないやつだから」
「かたいこと言わない。それじゃあ本編始めるよ~! 下にスクロールよろしくねっ☆」
この世の中、不思議なことは数あれど、どうしても腑に落ちない点が二点ほど。まず一つ目。現代の技術ではタイムトラベルは不可能である。それが許されるのは漫画やアニメ、ドラマの中だけだと相場が決まっている。二つ目。俺はこのあいだ不惑を迎えたばかりだが、いまなお彼女いない歴=年齢を更新中だ。そんな俺に、なぜこんなに可愛い娘を、いや、そもそも妻などを持つことができようか。地球がひっくり返ったってありえないのである。
急に、身の毛がよだった。
(こいつやべぇ)
なんの前触れもなく『ミライから来た娘』なんて訳のわからない属性を引っ提げてきたのだ。クスリでもやっているに違いない。それか、彼女いない歴=享年となるのが確定している俺を騙そうとしているのか。うん、そうだ。そうに違いない。
冷静に、追い返さなければ。頭でそう思ったまではよかったが、体がまったく動かない。目の前の少女の愛くるしさに魅入られていたのだ。子供に悩殺されるなんて……チー牛童貞ここに極まれり。ロロロロリコンちゃうわ!
「わたし、智以! おじさんはなんて言うの?」
困惑する俺を嘲るように、少女が自ら名前を口にした。やめてくれ、その名前はチー牛を自負している俺に効きすぎる。
ちなみに軽く自己紹介をしておくと、俺は生まれもってのチー牛で、どんくさいし学校の成績も悪く、幼稚園から高校を出るまで毎日いじめられていた。大学など行くはずもなく、いまも職を転々としながら働いている。両親とは不仲だが、昔は優しかった。成績が悪ければ塾に通わせたり、いじめられたら柔道を習わせたりなど、挽回するチャンスだって何度も与えていた。しかし俺はすべて拒否した。俺が努力したぐらいで挽回できるはずがないし、よしんば挽回できても、ほかの連中はそんなことをする必要すらなかったはずで、そう考えると虚しさだけが残る。俺にとっては、どんな努力もプラスにはならない。子どもながらにそれを理解してしまっていた。
「牛太郎……です」
かなりの間をおいて、吐き出すように自分の名を告げた。
ちなみに牛太郎というのはもちろん(いや、本当に牛太郎という名前の人がいたら失礼極まりないが可能性として低いという俺の観点によってもちろんと判断しただけで科学的根拠はなにもないけれども)あだ名で、本当の名前は別にある。牛太郎とは、牛のように丸くて足が遅かったことが理由で、クラスの奴が呼び始めたのがきっかけだった。客観的には黒歴史なのかもしれないが、皮肉なことにそれがいまの俺に与えられた唯一の個性であり、存在意義となっている。それを崩されるのが怖い。何より俺自身、本当の名前が大嫌いなのだ。幸せになってはいけない俺にはまったく釣り合わない。思い出しただけで虫唾が走る。そんな理由があり、いまでも俺は自分を牛太郎だと思い込むようにしている。
「その……あなたは、いま、何歳なのかな?」
「智以! 十歳!」
ちびっこの名前すら恥ずかしくて呼べない俺への呆れと怒りを含んだような顔を見せながら、少女は両手を大きく広げた。
十歳という割にはしっかりしているように見えるが、表情から垣間見えるあどけなさは確かに十歳らしかった。
ところで、ここは俺の住む賃貸アパート(ちなみに家賃は三万円。本当はもっといい家に住みたいのだが、チー牛の俺には叶わぬ夢。つなみに三十路まで実家暮らしだったのだが、そのころから両親には何一つ期待されずお金さえ入れなくていいと言われ、そのくせ家では金食い虫と言われ、そんな両親から逃げたくて一人暮らしをすると言ってもおまえにできるわけがないと馬鹿にされ、子どものように泣きながら家を出たのが両親を見た最後の日で、その日から十年間住み続けている)の玄関前である。そして今は冬の時期で、音が聞こえるほどの風も吹いている。にもかかわらず、少女はコートすら身に着けていない。選択肢をなくされることは時に残酷なものである。
「じゃあ、と、とりあえず中……」
吃音気味に言って、少女を自室の中に入れる。当たり前だが待っている人などいないので、静寂とした空間に迎えられるだけだった。もちろん暖房などついていないので、俺は急いで暖房のスイッチを入れた。無駄に大きな起動音が実に安アパートらしい。
「片付いてるんですね」
智以はそう言いながら、ソファーにどっかと腰を落とす。
「そんなことない、よ……」
出ました。チー牛特有の『褒められてもひたすら遠慮して距離を離したがる症候群』。十歳にして無遠慮な口ぶりの智以とはどこで差がついたのだろう。あと、部屋が片付いていることには自覚がないわけではないが、実際のところは暇すぎて掃除ぐらいしかやることがないだけだ。
「隣座ったら? 空いてるんだし」
いつのまにか、智以から敬語が消えていた。十歳の少女にリードされる情けない俺は、おずおずとソファーに腰を落とした。
このソファーは、中古の家具屋に置いてあったものから適当に選んで買ったものだった。横幅は広いが、このアパートに来てからは俺に寂しさを与えるだけの余分なスペースになっていた。そこにいま、出会ったばかりの少女がこうして座っている。
「わたし、謝らなきゃいけないことがあるんだ」
謝らなきゃいけないこと? 俺は心の中でリピートした。勝手に家に上がり込んだことについてだろうか。それとも……
「ミライから来た、というのは嘘なんだ」
この瞬間、俺の心にあった重りがすとんと落ちた。「は、はは……」と情けない返事をしながらも、心底安堵していた。そうだよな~、話がうますぎると思ったんだ。俺が結婚して娘を持つなんて、やっぱりありえない話だったんだ。
「ただ、牛太郎さんのミライの娘になりたいのはホントだよ。お母さんにも、ちゃんと相談したから」
小柄な少女が、背だけは無駄に高い(百八十センチある。どうせチー牛なのだからこの身長のいくつかを全国のモテ男たちに分けてやりたいとどれだけ思ったかしれない)俺の顔を、ぐいと顔を上げながら見つめていた。
(やっぱりこいつやべぇ)
最初に比べて恐怖感は薄れていたものの、やはり彼女の言うことが理解できなかった。モテ男だったら理解できるのだろうか。いや、モテ男だったらそもそもこんなシチュエーションにはならないか……。
「よかったら連絡先教えてもらっていいかな? 今度お母さんを入れた三人でお話ししたいから」
やばいやばいと思いながらも、断る度胸もなく(あれば四十年もチー牛やってませんからねっ!)、なにより女の子の連絡先が貴重だと感じてしまった下心ゆえに、疑うことなく教えている俺が、そこにはいた。テスト用のメッセージを一往復させたところで、彼女は深く頭を下げて帰っていった。
一週間後、智以からメッセージが来た。
『お母さんを入れた三人で会いましょう。次の日曜日、予定は空いてますか?』
という簡素な文面に、とあるカフェの住所が添えられていた。戸籍もスケジュールも真っ白な俺に予定を尋ねるなんて親切なのか、それとも嫌味なのか……。
ともあれ俺は『いつでもいいです』とだけ返しておいた。
はぁ。俺は何を期待しているんだろう。オシャレ(と言われるのは一般論であって俺に似合うかはまた別問題だが)な服なんて一生着ないと誓ったし、時間にもルーズになった。はずだったのに……なぜ俺はタンスからオシャレ(と言われるのは一般論であって俺に似合うかはまた別問題だが)な服を取り出し、三十分も前に寒空の中で待っているのだろう。それが無駄な行動であることは、俺の長きに渡る黒歴史――世間では婚活というらしい――で証明されたではないか。はずだったのに……なぜ俺はタンスからオシャレ(と言われるのは一般論であって俺に似合うかはまた別問題だが)な服を取り出し、三十分も前に寒空の中で待っているのだろう。それが無駄な行動であることは、俺の長きに渡る黒歴史――世間では婚活というらしい――で証明されたではないか。はずだったのに……
「牛太郎さん!」
堂々巡りをしていると、あどけなくも元気のよい声で俺を呼ぶのが聞こえた。同時にすごく懐かしく感じた。
果たしてそこには、一週間前に見た少女がいた。間違いなく智以本人で、一度会っただけでも顔は鮮明に脳に焼き付いていたらしく、見間違えることはなかった。
「初めまして。お会いできる日を楽しみにしてました」
智以の隣に立つ、清楚な雰囲気をまとい、女性にしては少し背が高めの女性が、優しく微笑みかけてくれた。この笑顔もどうせ罠だ――と俺は、長きにわたる黒歴史で学んでいた。いまからでも、人違いでしたすみませんと言って、帰ってくれないだろうか。
寒空の中にもかかわらず、俺は動こうとしなかった。人違いを期待して動かなかったわけではない。女性をカフェに入れるだけの行動力が俺に備わっていないだけだ。過去の黒歴史の中でも、カフェに入るときは決まって女性からだった。黒歴史、ああ黒歴史、黒歴史……牛太郎、心の一句。
「寒い中待たせてすみません。入りましょうか」
ほら見ろ。今回だってカフェに入るのは女性から。しょせん俺は一生自分から女性をカフェに入れることができないチー牛ですよーだ。
カフェに入り、ようやく俺は着こんでいたコートを脱いだ。
「ご紹介が遅れましたね。私、未来と申します。ミライと書いて、未来」
言葉遣いこそ丁寧であるものの、その表情にはまるで生気がなかった。ミライと書く割にまったく未来のある顔ではない……。俺と同じ、『幸』を捨てたかのようだった。チー牛特有の『同族に依存したがる特性』を持っているからか、そういったことを感じ取る能力だけは誰よりも優れていた。もちろん世間的にはまったく必要のない能力です(ドヤ顔)。
「あ、あの……牛太郎、です……」
自分と同族であるからといって、自分が強く出られるわけではない。強く出られるの度胸があれば四十年もチー牛などやってはいない。俺は相も変わらず重苦しく名乗るだけだった。
「智以が突然押しかけちゃって、びっくりしましたよね。でも、この子も考えがあったうえでやったことですから。どうか許してあげてください」
どう考えたら『ミライの娘になりたい』なんて思考に至るのやら。俺にはさっぱりわからなかった。モテ男ならわかるのかもしれないが……。
「その……未来さん……は、いまおいくつなんですか?」
最初に尋ねることか? 女性に年齢を尋ねるまえにまず自分から名乗れって小学校のときに習わなかったのか? それすらわからないからチー牛なのか。なるほどねー。
「四十です」
見えない! そして俺と同い年か。四十ということは三十歳ぐらいまでに愛し合った男のアレコレを経て智以が産まれたというわけで、その間に俺は誰一人の女とも交われなかったわけで俺はなにをしてたんだと死にたい気分になった。
三つの異なる感情が錯綜していたところに、俺と未来が注文したホットコーヒーと、智以が注文したオレンジジュースがテーブルに届いた。
「詳細な経緯は追ってお話しします。まずは要点だけ伝えます」
未来の顔を見ると、先ほどまでまったく感じなかった強い眼差しが俺に向けられていた。
「牛太郎さん……私と智以と一緒に、三人でミライを歩んでくれませんか?」
あはー☆ 俺に声をかけるってやっぱそういうことですよねー。わかってました。わかってましたよ期待した俺が馬鹿でしたー。勧誘乙ー☆ 言葉だけじゃ笑ってるように見えるけど心は盛大に泣いてまーす。LIN○アイコンのジェー○ズみたいな感じでーす。さすがチー牛、たとえ方も下手ー☆
すぐに立ち上がって帰るべきシチュエーションなのに、俺は動くことができなかった。口もまったく開かなかった。正確には、口が開いたまま動かなかっただけなのだが。
この世には二種類の男しかいない。俺か、俺以外か。つまり俺以外は全員モテ男。この世に一人しかいないチー牛の俺は、常に女に飢えている。女からの誘いを断ることなどできない。正確には、断る度胸がないだけなのだが……それはたとえ、勧誘であっても例外ではない。この勧誘を断ったら、一生女と話す機会すら失ってしまうぞ。いくら断ってもわんさか女に言い寄られるモテ男にはわからないだろうけどな。
「気づいてるかもしれませんけど……私、一度離婚してるんです。二年ほど前に……。智以は前の主人との間にできた一人娘なんです」
文字通り言葉を失っていた俺を差し置いて、未来は話を続けていた。
「別れた理由はDVで……前の主人は暴力が激しい人でしたから……」
「お母さんだけじゃないよ。わたしもたくさん殴られた。あのときのあいつ、すっごく怖かったし……笑ってた」
智以の表情も曇っている。実の父親への愛情が残っていないのがよくわかる。
「あれで本当に人が怖くなって……対人恐怖症だったんだと思います。なので仕事も辞めました。死のうと思いました」
待て待て。話が飛躍しすぎじゃないか? 対人恐怖症は……まあ俺もそうだから強く言えないとしても、仕事を辞めてすぐ死ぬだって? チー牛の俺でさえ、そこまで飛躍したことはないぞ。正確には死ぬ度胸がないので選択肢にないだけなのだが。
「わたしも学校に行けなくなった。お母さんが死ぬって言うから、わたしも一緒に行こうと思った」
「私はきょうだいもいませんし、両親も早くに亡くなっていますから、智以を引き取ってくれる肉親がいないんです。だから施設に連れていこうともしました。でもその話をしたら、智以がわんわん泣き出して……その姿を思い出すと、とても智以を止めることなんてできません。むしろ、一緒に行くと言ってくれて心からほっとしました。あの世で一緒に暮らせるね、って最後に笑い合うことができたから……」
いやいや、そこは止めろよ。つかあんたも死ぬなよ。這いつくばってでも泥水をすすってでも娘を育て上げてみせろよ。出ましたチー牛特有の『自分ではできないくせに一般論だけで偉そうにする特性』。なに一つ成しえていない俺に反論する権利などないというのに。
「でもわたしもお母さんもここにいるよね」
それは間違いない。俺は視力だけはいいからな。自慢じゃないが両目ともに2.0だ。なのにミライは見えない。この無駄な視力をモテ男に分けてやりたいとどれだけ思ったかしれない。
いやまさか、俺がいるのがあの世だとでもいうのか? そう思ったら身震いがした。存在価値のないチー牛の俺でも、死ぬことだけは怖いからだ。死ぬまでなにもない時間をただ過ごすだけの恐怖といまでも戦い続けている。
「……死に損なったんです」
そう語る未来の表情は、とても生還したことを喜んでいるようには思えないほど苦しそうだった。
「近所の人に発見されて、病院に連れていかれました。発見が早かったらしくて、私にも智以にも障害は残りませんでした」
「もうわたしもお母さんもあの町にいられないって思ったよね。だから引っ越したんだよ」
逃げるようにね、と付け加えた智以の表情からは、一種の覚悟のようなものが見えた。どうりで十歳にしては肝が据わりすぎていると思ったんだ。
「私たちは死ぬことさえ許されなかった。神様はどこまでも残酷だと思いました。でも生かされた以上は、私も働かないといけませんし、智以だって新しい学校に通わせてあげないといけません」
「わたしはいいって言ったんだけどね。給食費もったいないから。でもお母さんから、義務教育だけは絶対受けなさいってすっごく怒られて。でもあのときのお母さんの顔、すっごくわたしを愛してくれてる顔だったから……だからわたし、いまはこの町の学校に通ってる」
「過去のことをなにも知らないこの町でなら、私も智以もやり直せる気がしました。いえ……この言い方は正しくありませんね。生かされた以上、やり直さないといけない。使命感のようなものですね。だから私も必死に社会復帰を目指しました。おかげでパートですけど、いまは私も働いていますし、智以の給食費もなんとか払えています」
少しだけ、未来に笑顔が戻ってきていた。この笑顔を見て、一つはっきりしたことがある。この家族はなんちゃって不幸だ。本当に不幸ならこうもあっさり立ち直れるはずがないのだ。本当の不幸ってのはな、一生引きずって再起不能になるものなんだよ。この俺みたいにな。なんちゃって不幸なくせに自殺未遂までして、すっごく苦労したアピールまでしやがって……おまえらが不幸を語るな。
「ま、それでも質素だけどね。いまって寒いからさ、お母さんもコートを買ってあげるって言ってくれるんだけど、ずっと断ってる」
「それでも私はこっそり買ってあげました。いつでも着ていいよとは言ってるんですけど……智以は全然着てくれなくて」
一週間前、智以はコートを身に着けていなかった。きょうだってそうだ。その理由が、まさかこんな形で明かされるとは。漫画やアニメなら『描くのが面倒だから』で通せそうなものだが、そんな事情があるとは夢にも思わなかった。
「ほら智以、ここからはあんたの口から話しなさい」
「わかってるよ」
今度は智以が、先ほど未来が俺に向けたような眼差しを向ける。やはり血は争えないようだ。
「わたし、ずっとお父さんがほしかったんだ。血のつながった他人なんかじゃなくて、本当のお父さんが」
本当のお父さん、に語気が強まっていた。
「だから一週間前、ちょっとヘンなやり方になっちゃったけど、牛太郎さんにその気持ちを伝えにいったんだよ」
「私も相談は受けました。私も再婚の気持ちは完全に消えたつもりでしたけど、気づいたら少しずつ芽生えちゃってて……。だから智以の気持ちを否定するなんて、私にはできませんでした」
いや待て待て。智以の思いはなんとなくわかった。だけどまだ、肝心なところを話していないではないか。だいたい俺なんかに声をかけなくたって、未来の見てくれならパート先の男も放っておかないだろうし、よしんばパート先で出会えなくても黒歴史、じゃなかった、婚活でもすればすぐに再婚は決まっていたはずだ。未来は俺とは違うモテる側の人間なのだから。
いや、そんなことより!
「どうやって俺に行き着いたんだ!?」
つい、声に出ていた。ついでに勢いよく席を立っていた。しかもいままでの空気を完全に無視した、無駄に大きな声が。いきなり声を張り上げて、ほかの客の冷たい目線がこちらに向けられているのを感じた。「それについてはこれからお話しします」と未来が言ったことで、俺はしぼむように再度腰を落とした。
「……正直、ほかの男性ではハードルが高いと感じました。婚活はお金に余裕がないからしなかったんですけど、パート先の独身男性とか、パート先の仲間に紹介してもらった男性とお会いしたことはありました。でもなんていうか、どの方も普通以上の方ばかりで……」
ほらみろ。引っ越してきたばかりなのに、ずいぶんな伝手があるじゃないか。四十年で何一つの伝手を得られなかった俺への当てつけか? おめでてーな。それに婚活しないのだって本当は『私クラスだとお見合いなんかじゃ物足りないわ。自然な出会いで結婚したいの。だって私、モテるし?』とでも思っているのだろう。
「絶望に叩き落とされ、神様から残酷な現実を突き付けられた私にとって、普通以上は荷が重すぎるんです。おそらくお相手の方も私が重荷になるでしょう。誰も私の過去を知らないとは言いましたけど、再婚となるとどうしても過去のことを話さないといけなくなりますからね……」
「だから足と嗅覚を使って、お母さんにふさわしい男の人を探すことにしたんだよ」
智以はしゃかしゃかと走るポーズをとったあと、びしっと人差し指を立てた。まさか『ビ○リーーチ!』とでも言うつもりか? 確かあれもカフェの中だったよな……。さすがチー牛、こんな空気でそんなことを想像するのはこの世で俺一人ぐらいだろう。
「絞ったターゲットたった一つ。自分が一番不幸だと思ってて、稼ぎも大したことなくて、ずっと暇そうで、人生の楽しみさえ見つけられなくて、一緒にいても笑ってくれなくて、ちっとも頼りにならなくて、努力もできなくて、いい年こいて子ども以下の恋愛偏差値で、それでも暴力だけは振るわない……そういう雰囲気の人に声をかけたんだ」
智以の人差し指が、刃のごとく何度も俺の胸に突き刺さっている。それ以上はやめてくれ、その攻撃は俺に効く。ていうか俺の稼ぎが大したことないってどうやって知ったんだ!? 俺そんなこと話してないぞ!? 俺は不惑ながら年収三百万だけども……はい私が間違っておりました申し訳ございません。
「だけど苦労したよ。みんな気味悪がって逃げちゃうし」
「皆さん私たちが思う以上に幸せそうなんですよ。まあ、無理もないですよね。気味が悪いとは自分でも思いますから。でもそんな私たちにさえ着いてきちゃうぐらい女性に飢えていて、押しが弱くて自分がなくて、人の話も聞かなくて、人を疑ってばかりで友達もいなくて、その割に女性と知り合えるチャンスが来たらひょいひょい着いていっちゃうぐらい隙だらけで、いてもなにもしてくれないような男性とじゃないと釣り合わないのに。なにもできなくたっていい。なにもしてくれなくていい。暴力さえ振るわなければ、ただいてくれるだけでいい。そういう人が私の求める夫の像で、智以の求める父親の像なんです」
まだ言うか。もう俺のライフはとっくにゼロだ……。ただ、死ぬ前にこれだけは言わせてほしい。
「どこがたった一つだよ……」
最後の力を振り絞ってそうツッコんだ俺は、雪崩れるようにテーブルに顔を打ち付けたのだった。
俺の意識は、目の前の未来を確実に捉えていた。
「牛太郎さん……私と智以と一緒に、三人でミライを歩んでくれませんか?」
俺と目が合ったのを確認して、未来が言った。さすがの俺も、二回目となれば勧誘だと間違えることはなかった。
しかし、俺は断った。なぜなら、牛太郎はもうこの世にいないからだ。
「俺は牛太郎じゃない……。俺は……俺は……」
未来、智以と一緒にミライを歩んでいく覚悟を決めた男の名を、俺は腹の底から叫んだ。
俺の本当の名前は幸太郎という。俺はこの名前が大嫌いだった。幸せになってはいけないと思い込んでいたからだ。だけど俺はあのとき、確かに幸太郎を呼び出していた。なぜなのかは、はっきりとは思い出せない。牛太郎が最後の最後に意地を見せてくれたのかもしれない……。ともあれ、消えていた幸太郎の命に再び火が灯り始めた。
はずだった……。
幸太郎は長く眠りすぎた。それを叩き起こした代償はあまりにも大きかったのだ。幸太郎の眠りの根源――恋焦がれ、憧れながらも一度も手にすることができずにいたもの――すなわち『幸』を得た反動で、俺はすべてに満足し、それ以上の活動をする気力を失ってしまった。婚姻届は提出したし、初夜だって経験した。それなのに、一切の感動が湧かなかった。あれほど俺を苦しめていた『童貞』の呪縛から解き放たれたのに、童貞への恨み言の一つも出てこなかった。挙式も披露宴もしなかった。両親への報告もしなかった。仕事も辞めた。新居は構えず、未来と智以が住むアパートに転がり込んだ。それ以来、俺は働きもせず、家でも力なく過ごしているだけだった。もはや生ける屍だ。
こんな状態だというのに、未来も智以も文句ひとつ言わず、一緒にいてくれる。
「幸太郎さん」
智以が俺を呼んでいる。俺は力なく、声のするほうへ顔を向ける。
「わたしがミライから来た娘だってこと、間違ってなかったでしょ?」
してやったりとばかりに、智以が白く輝いた歯をこちらに向けてきた。俺はただ、じっとその歯を見つめることしかできなかった。
「幸太郎、本当にありがとう。あなたのおかげで智以に笑顔が増えたのよ」
智以の笑顔も、未来の感謝も、いつ嘘になるかわからない。いつどこで誰が死ぬのかもわからない。それなのに俺は、いまだに信じ続けている。生ける屍となっても、これだけはどうしても心に根付いて離れない――。
『今から一秒後のミライは、俺と未来と智以の三人で、ともに歩んでいる』
偽らざる思いを込めたそのとき、たしかに俺は感じた。やれやれ……未来や智以と事情は違うにせよ、どうやら俺も死に損なった人間らしい。
俺の目にかすかな生気が宿っていたことを、俺はしっかりと感じ取っていた。
HAPPY ENDING……?




