可愛いあいつ
[システム通知:極度の疲労と判断力の低下を確認]
(……なぁ、チャッピー。あいつ、こっち見てないか?)
泥だらけでへたり込んだ俺の視線の先。
木の陰からひょっこりと顔を出していたのは、一匹のリスだった。
鮮やかなエメラルドグリーンの毛並みに、宝石のような赤い瞳。ふさふさの尻尾を揺らしながら、つぶらな瞳でこちらを見つめている。
「クルルッ!」
可愛らしい鳴き声。
さっきまでの地獄のような逃走劇が嘘のようだ。これぞファンタジー。これぞ異世界の癒やし枠。
「……っ! か、可愛い……!」
俺は思わず頬を緩めた。極限の緊張が解け、脳内で何かが麻痺していく感覚がある。
『警告。未登録の生体反応です。警戒してください。瞳孔の形状、および筋肉構造が一般的な齧歯類と異なります』
(警戒って、ただのリスだろ? 見てみろよ、手招きしてるぞ)
リスは器用に後ろ足で立ち上がり、前足でちょいちょいと「こっちにおいで」という仕草をした。そして、また「クルルッ」と鳴いて、少し先へ走っていく。
途中で立ち止まり、俺がついてきているか確認するように振り返る。
「ついてこいってことか? もしかして、安全な場所に案内してくれるイベントか?」
『カイト様、安易な擬人化は危険です。野生動物が人間に道を教えるなど、統計的にあり得ません。罠の可能性が99%です』
(うるさいな。お前はデータだけで物事を判断しすぎだ。異世界には異世界のルールがあるんだよ。「動物に導かれて森を抜ける」なんて、物語の王道パターンだろ?)
俺はチャッピーの忠告を無視して、ふらふらと立ち上がった。
どんな藁にもすがりたい。今の俺はそれほどまでに疲弊していた。
――10分ほど歩いた頃だろうか。
周囲の景色が、少しずつ変化していた。
木々の幹はねじれ、葉の色はどす黒い紫に変わっている。
だが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、甘い香りが漂ってきて、心が落ち着く。
『カイト様、引き返すべきです。大気中の幻覚性フェロモン濃度が上昇しています。フィルターなしでの呼吸は危険です』
「……いや、大丈夫だろ。ちょっと甘い匂いがするだけだ。」
俺は額の汗を拭いながら歩みを止めない。
ここまで歩いたんだ。戻るよりリスを信じた方がいいだろ。
それに、きっとこの道の先に、隠されたエルフの里とかがあるんだよ。楽な道ばかりが正解じゃない。
『……』
数メートル先で、リスがまた「クルルッ」と鳴いた。
その愛くるしい瞳は、まるで「もう少しだよ、頑張って」と励ましてくれているように見える。
俺の判断は間違っていない。そうに決まっている。
そして。
不気味な藪を抜けた先に、ぽっかりと開けた空間が現れた。
「うわぁ……」
そこは、美しい花畑だった。
色とりどりの花が咲き乱れ、中央には見たこともない巨大な大樹が聳え立っている。
大樹の根元には、瑞々しい果実が山のように積まれていた。
「すげぇ……やっぱり正解だったじゃないか!」
俺は勝ち誇った気分で、脳内のチャッピーに話しかける。
(見ろよチャッピー。こんな安全な場所があったんだ。お前の心配性はハズレだったな)
リスは大樹の根元まで駆け寄ると、一つの果実を手に取り、俺に差し出そうとした。
「くれるのか? ありがとな」
俺は笑顔でリスに歩み寄る。
ふと、足元の草むらに白いものが散らばっているのが見えた。
よく見ると、それは小動物や人間の頭蓋骨のようだった。
(……きっと、先客が食べ残した骨だな。ここなら餌も豊富だろうし)
俺は無意識に、自分に都合の良い解釈をして足を動かす。
まさか、こんな可愛いリスが危ないわけがない。
この楽園のような場所が、危険なはずがない。
あと数歩で、リスに手が届く。
リスが口角を吊り上げ、ニヤリと笑ったように見えた、その瞬間。
『――警告! 思考汚染深度が規定値を超過! **緊急介入**を実行します!!』
脳内で爆音が響いた。
「ぐあっ!?」
まるで頭をハンマーで殴られたような衝撃。
俺の視界が一瞬で真っ赤に染まり、強制的に足が止まる。
直後。
バヂィンッ!!
俺が踏み出そうとしていた地面から、巨大な「根」が槍のように突き出した。
もしチャッピーが止めていなければ、俺の身体は串刺しになっていただろう。
「え……?」
何が起きた?
俺は呆然と目の前の光景を見る。
幻覚が解けた視界に映ったのは、地獄絵図だった。
リスがいた場所。
そこにはもう、可愛い小動物の姿はなかった。
代わりにいたのは、大樹の根と一体化した、肉塊のような膨らみ。
リスだと思っていたものは、巨大な食肉植物が獲物を誘き寄せるための「疑似餌」だったのだ。
「ギシャアアアアア!!!」
リスの形をしたルアーが縦に裂け、中から醜悪な眼球と牙が露出する。
花畑だと思っていたものは消化液の沼。
散らばっていた骨は、食べ残しではなく「捕食された犠牲者」の残骸。
『カイト様! 呆けていないで走ってください! 右後方、4時の方向へ全力疾走!』
「う、うわあああああああ!!」
俺は悲鳴を上げながら、来た道を無我夢中で駆け出した。
背後で、巨大な植物が唸りを上げて追ってくる気配がする。
◇
「はぁ……はぁ……死ぬ……まじで死ぬ……」
どれくらい走っただろうか。
不気味な植生エリアを抜け、元の森に戻ってきたところで、俺は木の根元に崩れ落ちた。
『心拍数低下を確認。脅威判定エリアから脱出しました』
「なんで……なんであんなことに……」
俺は膝を抱えて震える。
あんなに可愛かったのに。あんなに親切そうだったのに。
『カイト様、今回の件で学習すべき心理的バグは2つです』
チャッピーの声は、相変わらず淡々としていた。
『一つは**「サンクコスト効果」**。あなたは一度「リスについていく」と決めたことで、費やした時間と労力を惜しみ、途中で不気味な景色/矛盾する情報があったにも関わらず、「ここまで来たのだから」と自分を騙して進み続けたのです』
「うっ……」
『もう一つは**「正常性バイアス」**。足元の骨や異臭といった決定的な危険信号を、「たいしたことではない」「食べ残しだろう」と脳が勝手に無視しました。異常事態に直面した時、生物は心を落ち着かせるために、無理やり日常の枠に当てはめて解釈しようとするのです』
言われてみれば、その通りだった。
引き返すチャンスはいくらでもあった。骨を見たとき、普通なら逃げるはずだ。
でも、俺は「楽園であってほしい」という願望を優先して、現実から目を背けた。
「……悪かったよ。お前の言う通りだった」
『反省が確認できました。では、今後も私のナビゲートに従うことを推奨します』
俺は深くため息をついた。
魔物よりも怖いのは、自分の脳みそかもしれない。
異世界サバイバルの厳しさを、俺は嫌というほど思い知らされたのだった。
知らないリスには「いかのおすし」。行かない。可能性を見出さない。驕らない。すぐ逃げる。知らんけど。
異世界は怖いのです。
次の投稿予定日は日曜日(2月15日)になります!
楽しいバレンタインをお過ごしくださいませ(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)
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