七灯 河原に咲く青い花
――春の終わり、灯町を流れる川は、空を映して淡く揺れていた。
昼は子どもたちの笑い声で賑わい、夜は蛍の灯で静けさをまとう。
その水辺に、ひっそりと青い花が咲いていると、町で噂が立ち始めた。
「先生、聞きました? 川に咲く花の話!」
春太が机を拭きながら目を輝かせた。
澪は紅色の金平糖を摘むと、口の中に放り込む。
「花なら、春に咲くのは珍しくないだろう?」
「でも、咲くのは夜だけなんですって! 昼になると消えるらしいです!」
「妖が関わってそうでありんすね」
紅が廊下から現れ、扇子をゆらりと広げた。
その金の瞳が、ふと遠くを見つめる。
「夜にしか咲かぬ花。……それは、誰かの悔いが形になったものでありんす」
「悔い、ねえ」
「人でも妖でも、後悔は水に流せぬもの。流そうとすれば、底に沈む」
澪は立ち上がった。
紅が扇子で口元を隠し、微笑む。
「行くんでありんすね」
「夜の花見も悪くないさ」
「旦那さま、金平糖を忘れんすな」
「花より団子か」
「団子より旦那さまでありんすよ」
春太が思わず顔を真っ赤にした。
◇
川辺には、夜風が吹いていた。
灯町の外れ、柳の枝が水面を撫でている。
その下に、淡く青く光る花がひとつ――そしてもうひとつ。
まるで星が川に落ちたように、美しく揺れていた。
「……本当に咲いてる」
「妖の気配がありんす。河童の与平でありんすね」
その名を言った途端、川の奥からぴちゃりと水音がした。
緑の皿が月を反射し、ずぶ濡れの影が姿を現す。
「やれやれ……紅姐さん、嗅ぎつけるのが早いねぇ」
「与平、元気そうでありんすな」
与平は頭の皿の水を指で弾き、澪の前に出た。
その顔にはいつもの調子がなかった。
「……あの花、あっしが咲かせたんです」
「どういうことだい?」
与平は黙って川面を見た。
青い花が風に揺れる。
そのひとつが、水の流れに合わせて淡く震えた。
「ちょうど十年前のことです。ひとりの人間を、あっしが沈めた」
春太が息をのむ。
「沈めた……って、殺したってことですか?」
「……いや。助けられなかった、が正しい」
与平の目が細められる。
「あの日、大雨が降ってた。橋から落ちた娘を見つけたんだ。助けようとしたけど、もう遅かった。気づいた時には……流されてた」
紅が静かに扇子を閉じる。
「それで、後悔を抱いたんでありんすね」
「ええ。あの夜から、毎年、同じ場所に花が咲くんです。娘が沈んだ場所に」
「妖が咲かせる花……それが“悔恨の花”でありんす」
澪がしゃがみ込み、花をひとつ摘もうとしたが、指先に触れた瞬間――
冷たい痛みが走った。
「っ……!」
指先が凍ったように冷たい。
花は光を放ちながら、微かに声を響かせる。
『わたしは……あの夜の水底……』
「声が、聞こえる」
「旦那さま。花の中に、娘の想いが残っておりんす」
『もう……泣かないで、与平さん』
与平の肩が震えた。
月光の下、河童の瞳が滲む。
「……聞こえるのか、ほんとに」
「娘は、怒っておりんせん。与平を赦しておりんす」
紅の声が静かに響く。
与平はゆっくりと川の中へ膝をついた。
皿の水が、静かに波紋を広げる。
「……あっし、ずっと怖かったんでさぁ。助けられなかったのに、平気で笑ってる自分が、怖くて」
「笑ってたのは、生きようとしてたからでありんす」
「……姐さん」
「死者は、祈りを望むんでありんす。罪人は、祈りを恐れる。けれど、悔いを言葉にするだけで、花は静かに散るんでありんす」
澪が河原に立ち、ひとつの金平糖を取り出した。
青い花の前にそっと置く。
「彼女の魂が、少しでも甘いもので包まれるように」
花がふっと光を強めた。
やがて、青い花びらが空へ舞い上がり、川面に淡く溶けていく。
与平が顔を上げた時、涙と水が入り混じり、頬を伝って落ちた。
「……ありがとう、旦那、紅姐さん。あっし、もう一度、川で生きてみます」
「その皿の水が枯れぬうちは、何度でも生き直せるでありんす」
「……へへ、姐さんの言葉は、心に染みますね」
◇
帰り道。
紅が月を見上げてぽつりと呟いた。
「後悔って、不思議なものでありんすね。流そうとしても、残る。けんど、残るからこそ、人はやり直せる」
「人も妖も、同じだね。忘れないことが、罪じゃなく希望になることもある」
「旦那さま、今日は珍しく真面目でありんす」
「君の前では、たまにはね」
「……うれしゅうて、皿の水をこぼしそうでありんす」
「皿なんて持ってないだろ」
「心の皿でありんす」
紅が笑い、風がやさしく吹き抜ける。
川面に残る光が、まだ淡く青く揺れていた。
「旦那さま」
「なんだい」
「今日の花、綺麗でありんしたね」
「ああ。きっとあれは、赦しの色だ」
「……あちきも、いつか、そうなりたいでありんす」
「赦す側か、赦される側か?」
「どちらでも。大切なのは、縁を切らずにいることでありんす」
紅の声が夜風に溶け、金平糖のようにやさしく残った。
灯町の川は、静かに流れ続ける――まるで、人と妖の涙を運ぶように。




