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六灯 紅と葵と、嫉妬の糸

 ――灯町の空は、春の匂いがした。


 風にのって金平糖のような花びらが散り、通りを淡く染めていく。

 そんな昼下がり、探偵事務所の扉が勢いよく開いた。


「澪! また妖絡みの事件でしょ、連れてって!」


 勢いよく飛び込んできたのは、新聞記者の水無瀬葵みなせあおい

 洋装に丸帽をかぶり、スカートの裾を揺らして息を弾ませている。


「……やれやれ。相変わらず取材熱心だね」


「だってあなたの担当だもの。灯町の妖探偵を追う記者として、ネタを逃すわけにいかないわ!」


「お褒めにあずかり光栄でありんす」


 紅が扇子を開き、涼しげに笑った。

 金の瞳が細く光り、その笑みはまるで絹に包んだ刃のよう。


「あら、紅。今日も艶やかね。……澪のそばに、また張り付いてるの?」


「旦那さまのお傍に仕えるのが、あちきの務めでありんすから」


「へえ。ずいぶんと熱心な務めね」


 二人の間に、見えない火花がぱちりと散った。

 澪は机の上で指をとんとんと叩き、溜め息をひとつ。


「……春太、金平糖を二人分頼むよ」


「は、はいっ!」


 助っ人を装って逃げる春太。

 灯助が天井から小声で囁く。


「澪どの。火種が二つ、落ちてまっせ」


「見りゃわかるさ」


   ◇


 葵が取材に来た理由は、嫉妬の妖にまつわる噂だった。

 町の花街で、男客が突如として錯乱し、恋人の首飾りで自ら首を締めたという。幸いにも相手は生きている。


「事件現場では赤い糸の束が見つかったのよ」


「赤い糸?」


「そう。まるで人の髪みたいに絡まってたらしいわ。気味が悪いって、花街の女たちが騒いでる」


 紅が静かに息をのむ。


「……嫉妬の糸絡み(いとがらみ)でありんすか」


「知ってるの?」


「ええ。人のねたみが絡まり、想いの糸を引き裂く妖。触れた者の心を乱し、愛を壊していくんでありんす」


「つまり、誰かが誰かを妬んだ結果――妖になった?」


「そうでありんす。しかも、その妬みが強ければ強いほど、糸は赤く、太うなる」


 澪は少し黙ってから、葵に尋ねた。


「葵。現場に行った時、何か感じなかったかい?」


「……風が、冷たかったわ。まるで誰かに睨まれてるみたいに」


 紅の扇子がふっと止まる。

 その刹那、彼女の指先から赤い光が漏れた。


「旦那さま……」


「見えるのか?」


「ええ。葵殿の肩に――“嫉妬の糸”が絡まっておりんす」


 葵が驚いて身を引く。


「う、嘘でしょう!」


「落ち着きなんし。今はまだ細い。放っておけば、すぐ消えるでありんす」


「……放っておけば、って言ったわね。紅、あなたわざとでしょ」


「なんでありんす?」


「嫉妬してるのは、あなたじゃない!」


 紅が微笑んだ。だがその笑みはどこか痛々しい。


「ふふ。嫉妬というのは、人間の特権でありんしょう? あちきは妖でありんすから」


「嘘。あなた、いつも澪のことばっかり見てるじゃない」


 空気がぴんと張り詰めた。

 澪が口を開こうとした瞬間――


 どこからか、風の音がした。

 窓の外で赤い糸がゆらゆらと舞っている。

 見る間にそれは束となり、まるで生き物のようにうねりだした。


「……来たでありんす」


   ◇


 “嫉妬の糸絡み”は、女の姿をしていた。

 長い黒髪が絡まり、身体を覆うように赤い糸が巻きついている。

 顔は見えない。けれど、その声は甘く湿っていた。


『――奪われるくらいなら、壊してしまえばいい』


 葵が後ずさる。

 紅が前に出て扇子を広げた。


「あなたを生んだ妬み、誰のものでありんす?」


『わたしを生んだのはあなたであり、あなたではない。妖でありながら、人の男に心を寄せた。哀れで滑稽な恋心。その醜さが、わたしを呼び寄せたの』


「……わっち自身の嫉妬、というわけでありんすか」


『そう。あなたがその女を睨んだ時、ひとすじの糸が生まれた。わたしは、それを喰った』


 紅が息をのむ。

 澪が前に出ようとすると、糸が絡みついた。


「旦那さま、下がりなんし!」


「下がっていられないよ。これは君の心にも関係する妖だろう?」


「ええ、だからこそ、あちきが相手をせねばなりんせん」


 紅が両手を広げ、赤い糸を指に絡めた。

 光の糸が次第に輝きを増し、彼女の身体を包む。


『わたしを否定するの? 同じ心を持つのに?』


「否定はいたしんせん。ただ、支配もさせないでありんすよ」


『その男が好きなのでしょう? なら、奪えばいい。手に入れなさい!』


 紅が目を閉じる。

 静かに、けれどはっきりと答えた。


「――あちきは、旦那さまの幸福を、壊したくはありんせん。それが想いでありんす」


 光が爆ぜた。

 糸が切れ、嫉妬の妖が悲鳴を上げて崩れ落ちる。

 葵の肩に絡まっていた赤い糸も、ふっと消えた。


   ◇


 嵐のような静寂が過ぎ、部屋には三人だけが残った。

 葵が息をつき、髪を整える。


「……あなた、強いのね」


「強いも弱いもありんせん。ただ、旦那さまを悲しませたくなかっただけでありんす」


 葵は紅を見て、ふっと笑った。

 その笑みは、少し泣き笑いに似ていた。


「私ね、澪が笑ってる顔が好きなの。あなたも、きっと同じでしょ」


「ええ。まったく同じでありんす」


 紅が柔らかく微笑む。

 葵は軽く手を振り、扉を開けた。


「今度お茶、誘うわ」


「……ふふ、よろしゅう。甘いもの付きでありんすよ」


   ◇


 夕暮れ。

 窓から淡い橙色の光が差し込む。

 澪は机に座り、金平糖をひとつ口にする。


「紅。君は、嫉妬なんてしないと思ってた」


「妖でも、心を持てば、人と変わらないということでありんしょう」


「でも、嫉妬は悪くないよ。愛の逆側にあるだけだ」


「そうでありんすね。……なら、旦那さま。次に嫉妬したら、金平糖を舐めてもよろしいでありんす?」


「どうして?」


「甘いもんは、妬みを溶かしてくれんす」


 澪が笑った。


「じゃあ、僕の分も頼むよ」


「はいはい。旦那さま、甘やかし上手でありんす」


 提灯の灯助がぶらりと揺れた。


「いやあ、やれやれ! 今度は恋の妖でござったか!」


「まったく、灯町は騒がしいね」


「騒がしい方が、旦那さまの笑顔が増えるでありんす」


 紅が扇子を畳み、窓辺に立った。

 外では桜の花びらが舞い、金平糖のように光を反射している。


「旦那さま」


「ん?」


「好きでありんすよ」


「……今なんて?」


「風の音で聞こえんしたかね?」


「聞こえたような、聞こえなかったような」


「なら、もう一度言う必要はありんせん。恋は、甘さを残す方が美しいでありんす」


 紅の微笑みが、夕陽に溶けた。

 その背に、澪はそっと金平糖を放る。

 紅は振り返りもせず、手のひらでそれを受け取る。


 ――甘い音が、春の風に消えた。


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