五灯 夢子の見る夢
――夢というものは、時に未来を覗く窓にもなりんす。
蒼原探偵事務所の朝。
外では雀が鳴き、提灯の灯助がぶらぶら揺れている。
けれど、いつもの陽気な声はなかった。
「……どうしたんだい、静かだな」
澪が階段を上がると、紅が座敷の隅で何やら心配そうに膝をついていた。
その腕の中では、座敷童子の夢子が小さな手を握りしめて眠っている。
「夢子が、起きんせんのです」
「寝坊じゃなくて?」
「ええ、寝過ぎでありんす」
澪は夢子の額に触れた。
微かに温かい。だが、夢の底に沈んでいるように、まぶたはぴくりとも動かない。
「紅、夢子は妖の中でも“予見の座敷童子”だったね」
「そうでありんす。夢の中で、これから起こる出来事を見る。けんど――見過ぎると、夢の底に引きずり込まれることがあるんでありんす」
「つまり、“夢に囚われている”」
紅は頷いた。
「旦那さま、夢子の夢に入る方法がひとつありんす」
「夢に、入る?」
「妖と縁を結んでいる人間なら、その“糸”を伝って潜れるんでありんす。ただし、戻れる保証はありんせん」
「保証がないなら、なおさら行くしかないね。夢子は家族だ」
紅の瞳がかすかに揺れる。
「……あちきも同行いたしんす」
◇
夜。
探偵事務所の畳の上に、夢子が横たわっている。
紅と澪はその傍らに座り、手を重ねた。
「旦那さま、目を閉じて。あちきの声が聞こえたら、離れないように」
「了解」
紅の指先から、赤い糸の光がゆらりと伸びる。
それが夢子の額に触れた瞬間――澪の意識は暗闇に落ちた。
◇
闇の中に、白い雪が舞っていた。
どこまでも広がる、静かな夜の町。
灯町のようだが、どこか違う。音がない。色も淡い。まるで硝子越しの世界のようだ。
「旦那さま、聞こえんすか?」
背後から紅の声。
振り向くと、彼女も夢の中に立っていた。
着物の裾が風に揺れ、金の瞳が微かに光る。
「ここが夢子の見ている世界かい」
「ええ。けんど……何かが、違いんす」
紅の声に、不安が混じっていた。
町の通りには、誰もいない。
提灯はすべて消え、狐火庵も、神社も、姿を消している。
ただ一軒――探偵事務所だけが、灯をともしていた。
「……誰か、いる」
澪が扉を開けると、机の向こうに見慣れた背中があった。
黒髪を束ね、金平糖を口に放り込むーー自分自身だった。
「……僕?」
紅が小さく息をのむ。
「旦那さま、これは夢子が見せる“もしも”の姿でありんす。未来の一つの形」
机の上には、皿がひとつ。
金平糖が、ひと粒だけ。赤ではなく、透明な色。
夢の中の澪が、ぼそりと呟く。
『紅が……いないと、甘くないな』
澪の心臓がどくりと鳴った。
紅がわずかに後ずさる。
「……あちき、いないんでありんすか?」
「そうらしい」
「いつ……どうして……」
紅の声が震えた。
夢の外の風が冷たく吹き抜け、雪が舞う。
夢子の気配が、遠くから微かに響いた。
『見て、知って……止めて』
「夢子……!」
澪が呼びかけると、白い光が駆け抜けた。
気づけば、二人は探偵事務所の外――灯町の橋の上に立っていた。
川面の向こうに、人影。
紅にそっくりな姿の“もうひとりの紅”が、夜の川を見下ろしている。
「……旦那さま」
「わかってる。あれは“夢の紅”だ」
紅の分身――“虚の紅”が、静かに言った。
『あちきは、守る為に消える。未来で、そうなる』
「それは、夢の話でありんす」
『夢は、予兆。現は、続き』
「違いんす!」
紅が叫ぶ。
声が雪を震わせ、夜にこだまする。
「旦那さまを置いて消えるなんて、そんな未来、選びんせん!」
『けんど……縁は、長く続きすぎると、切れる。あちきの糸は、燃え尽きる』
「燃え尽きたら、また結べばいいでありんす! 何度でも!」
紅が踏み出し、分身に手を伸ばす。
その瞬間、地面に亀裂が走った。
夢の世界が崩れ始める。
「紅、戻るよ! 夢子のところへ!」
二人が駆けだす。
足元の灯町が崩れ、硝子のように割れていく。
紅の指先が光を掴んだ――夢子の小さな手だった。
◇
ぱちり、と瞼が動いた。
「……あ、」
夢子がゆっくり目を開けた。
紅が安堵のため息をつき、澪は微笑む。
「おはよう、夢子」
「……おはよ。夢、見たの。紅ちゃんが、いなくなっちゃう夢」
「それは予知夢でありんすか?」
夢子は首を横に振った。
「ううん、分からないの。澪兄ちゃんが迎えに来てくれたから、帰ってこれた」
「そうか。偉いね」
紅が夢子の髪を撫でる。
その指先が、わずかに震えていた。
「……怖かったでありんす」
「怖いのは、生きてる証拠さ」
「旦那さま」
「ん?」
「もしも、あちきがほんに消えることになったら、どうしんす?」
「その時は――」
澪は金平糖をひとつ取り出した。
紅の掌にそっと乗せる。
「これを渡す。次に会う時まで、溶かさないで持っておいてくれ」
「……また、金平糖でありんすか」
「縁の印だからね」
紅は微笑んで、金平糖を胸元にしまった。
提灯の灯助が、天井からゆらゆらと光を投げる。
「いやあ、めでたしでござるな! 夢子殿、起きて何より!」
「お腹、すいたの」
「さすが座敷童子。飯を食えば運も戻る!」
春太が駆け上がってきて、団子を運ぶ。
小鬼が皿を持って走り回り、沙叉が団子をくわえて逃げる。
事務所はたちまち賑やかになった。
澪は窓を開け、夜空を見上げる。
外には淡い霧がかかり、星がぼんやり滲んでいる。
「……紅」
「なんでありんす?」
「夢ってのは、不思議だね。怖いのに、どこか優しい」
「優しさは、怖さと同じ場所にあるんでありんす。……どちらも、誰かの心から生まれるものだから」
澪は微笑んだ。
紅の金の瞳が、灯助の光を映して輝いている。
「また夢を見たら、呼びんすよ。今度は旦那さまの夢にも、お邪魔いたしんす」
「じゃあ、金平糖を用意しておかないとね。夢の入場料に」
「ふふ、夢でも甘いのが好きでありんすね」
灯町の夜は、静かに更けていく。
妖たちの笑い声、そして紅の柔らかな囁き。
そのすべてが溶け合い、まるで夢の続きのように、穏やかに時間が流れていった。
――縁は、夢よりも確かに、そこにあった。




