四灯 灯町奇譚・狛犬の咆哮
――灯町の朝は、やけに静かだった。
狐火庵の煙突から立ちのぼる白煙の向こうに、天灯神社の鳥居が見える。
境内では、いつも通り子どもたちが遊び、犬が尻尾を振って駆け回っている。
……はずだった。
その日は、違った。
「先生っ! 神社にいる人が……石になったって!」
春太が駆け込んできた。息を切らし、頬は青い。澪が筆を置くと、紅が扇子で口元を覆い、眉をひそめた。
「石に、でありんすか?」
「はいっ。参拝してた人が、急にガチガチに固まって!」
「妖の仕業かなぁ」
提灯の灯助が天井からぶらぶら揺れて、のんきな声を上げた。
「まったく、また厄介ごとでござるな!」
「神社で妖が暴れるなんて珍しい話でありんす。……旦那さま、行きんしょう」
「了解。春太、留守番――」
「僕も行きます!」
「おやおや。怖いもの見たさでありんすねえ」
「そ、そんなことないです!」
澪が笑い、外套を羽織った。
金平糖をひとつ口に放り込みながら、外の冷たい空気に身を沈める。
「……石の匂いがする」
「旦那さまの鼻は、妖より利くでありんすね」
◇
天灯神社は、狛犬兄弟――兄の白蓮と弟の黒蓮が守る、由緒ある社だ。
境内に入ると、異様な静けさが広がっていた。
人々が騒つく声が消え、風鈴だけが鳴っている。
石段の途中に、ひとりの男が立っていた。
正確には、立ったまま――動かない。
その肌は、灰色に変わっていた。
まるで石像のように。
「……これが石化の噂か」
「ひいぃ……!」
春太が身をすくめる。
「動かないけど……まだ温かい」
澪が手を伸ばすと、肌の表面にほのかなぬくもりが残っていた。
「完全な石じゃない。……何かに覆われている」
「呪の層でありんすね。祈りが歪んで固まったもの。……でも、誰が?」
「我らではないぞ」
低い声が、空気を震わせた。
鳥居の上に、二つの影。――狛犬の兄弟である。
兄の白蓮は穏やかに微笑み、弟の黒蓮は牙をむき出しにした。
「愚かな人間は、神の領に土足で踏み込み、妖のせいにする」
「黒蓮、落ち着け」
「兄上はいつもそうだ! “共に生きる”だの“理解し合う”だの……。だが現実は違う! 奴らは我らを祀るふりをして、恐れているだけだ」
黒蓮の瞳がギラリと光る。
「探偵風情が我らを裁けると思うな。人間は祈りのふりをして、己の罪を洗う。だが、その祈りこそが石を生むのだ」
「祈りが、石を?」
「信じることをやめた心は、やがて形を失う。……だからわしは、いっそ“すべて固めてしまえ”と願った」
白蓮が目を伏せる。
「黒蓮、それは違う。守りとは、閉じ込めることではない」
「黙れ、兄上!」
地が震えた。
黒蓮の身体が膨張し、白煙のような妖気が吹き出す。
石畳が割れ、周囲の石像が微かに震えた。
「旦那さま!」
「わかってる」
澪が紅を見ると、彼女はすでに手を広げていた。
金の瞳が光り、赤い糸のような光が空へ伸びる。
「黒蓮の“縁”を視るでありんす」
紅の糸が夜気に揺れた。
彼女にしか見えない世界の中で、黒蓮の身体を包む糸は黒ずみ、絡まり、千切れそうになっている。
「……断ち切られた信仰の糸。人の祈りが届かなくなったんでありんす」
「それで黒蓮は暴れているのか」
「孤独は、妖を狂わせんす」
黒蓮が咆哮を上げた。
その声に、石化した人々の身体がびくりと動いたかと思うと、ひびが走る。
石の中から、かすかな声。
『たすけて……』
澪は舌打ちした。
「春太、ここから離れろ!」
「で、でも先生!」
「いいから!」
紅が糸をさらに広げる。
「旦那さま、黒蓮の中に“白い欠片”が残っておりんす! 信じたい心、まだ消えておりんせん!」
「なら――引き出す」
澪が懐から金平糖を取り出し、指で弾いた。
小さな粒が空を舞い、黒蓮の鼻先で光る。
「なんだ……これは……」
「金平糖さ。甘いものを食べると、怒る気が抜けるだろ?」
紅がふっと笑う。
「人も妖も、甘いものには敵わんすね」
黒蓮の身体の光が少し弱まった。
白蓮がそっと弟に歩み寄る。
「黒蓮。人は恐れる。だが、その恐れも“信じたい”の裏返しだ。祈りを奪うな。共に守れ」
「……兄上……」
その瞬間、黒蓮の身体に走っていたひびが、光に変わった。
空を裂くように広がり、境内を包み込む。
石化していた人々が、少しずつ色を取り戻す。
目を開け、驚いたように互いの顔を見合った。
「……元に戻った」
春太が息をつく。
「ふぅ、命の火は消えずに済みんしたね」
紅が手を下ろし、袖で額の汗を拭った。
その顔に、安堵の笑みが浮かぶ。
黒蓮は地に伏せ、深く頭を下げた。
「すまぬ。……人を石にしたのは、わしの心の歪みだった」
「誰にでもあることさ。信じたいものを見失うのは」
澪が静かに言う。
白蓮が弟の肩に手を置いた。
「明日からは、ふたりで祈りを聞こう。石ではなく、声の形で」
「……ああ」
◇
事件のあと。
天灯神社には“祈りの灯籠”が増えた。
灯町の人々が自らの手で灯をともす。
その灯が、黒蓮と白蓮の狛犬像をやさしく照らしていた。
「旦那さま。人も妖も、信じるというのは難儀なものでありんすね」
「信じるってのは、疑う覚悟があるってことさ」
「ふふ、深いお言葉でありんす」
紅が湯呑を差し出す。
茶の中には、金平糖がひとつ溶けていた。
「甘い香り……まるで、祈りの味みたいでありんすね」
「祈りが甘いなら、神さまも笑ってくれるだろう」
提灯の灯助が揺れた。
「いやぁ、よかったでござるなあ! これでまた祭りが開ける!」
「祭り?」
「狛犬さまの御礼祭でござる! 甘酒飲み放題!」
「……そりゃ信仰も戻るわけでありんすね」
紅が笑い、澪も肩をすくめた。
「春太、準備を手伝っておいで。どうせ妖だらけの祭りになる」
「えっ、僕、人間ですけど!」
「人間でも、金平糖を配る係くらいできんすよ」
「えぇぇぇ……!」
◇
夜。
神社の境内では、紅と澪が並んで灯籠を眺めていた。
無数の灯が風に揺れ、金平糖のようにきらきらと光っている。
「旦那さま」
「ん?」
「あちきも、あの灯のひとつになってもいいでありんすか?」
「どういう意味だい」
「人の祈りの中に、あちきの灯を紛れ込ませるんす。……そうすれば、百年先でも旦那さまのことを覚えていられる気がしんす」
「百年後の約束、覚えてるんだね」
「ええ。狐火庵で交わした約束でありんすもの」
澪は笑い、夜空を見上げた。
灯籠の光が風に流れ、空の星々と溶け合う。
「紅。祈りってのは、灯すもんじゃなく、分けるもんだと思うよ」
「分ける……でありんすか」
「そう。僕が今日も生きてるのは、君が灯を分けてくれたからさ」
紅の頬に、月明かりが映る。
その微笑みは、灯町のどんな灯よりもあたたかかった。
「……ありがとでありんす。旦那さま」
その声が、夜風に溶けていく。
境内では、灯籠の光がきらめきながら――まるで人と妖の祈りがひとつになったように、静かに夜を照らしていた。




