三灯 狐火庵の約束
――約束とは、時に祈りであり、時に呪いでもある。
灯町の夜、しとやかに降る細雪の中。
通りを一本外れた場所に、「狐火庵」という茶屋がある。
人間の客が茶を啜り、妖たちが灯りに集う、人間も妖も共に過ごすことのできる茶屋だ。
のれんの奥から、香ばしい茶の香り。
店主の藍之介は、白狐の妖。人の姿を借り、今日も穏やかな笑みを浮かべている。
「いらっしゃいませ。あいにく今夜は人の客ばかりでしてね。妖の方は裏の座敷へ」
「妖の方でも、人の方でもないのが来たんでありんすけど、よろしいかしら?」
すっと、紅がのれんをくぐった。
その後ろから、探偵の蒼原澪が顔を出す。
「いつも通り、香ばしい匂いだね」
「おや、澪殿。夜に仕事ですか?」
「仕事かもしれないし、休憩かもしれない」
「それはつまり、いつも通りということですね」
藍之介が笑う。
紅は扇子を口元に寄せてにこり。
「旦那さま、ここの茶菓子は格別でありんす。あちきはここの狐火まんじゅうが好物でありんすよ」
「それは紅の腹具合に関係ありそうだ」
「女の腹は秘密でありんす」
「妖の腹もだろう?」
二人の掛け合いに、藍之介が目を細めた。
けれどその笑みに、いつもより少し翳りがあるのを澪は見逃さなかった。
「藍之介、疲れてる?」
「おや、分かりますか。狐火庵にしては珍しく、妙な客が来ましてね」
「妙な?」
「ええ――“百年前の約束を果たしに来た”と仰る」
その一言に、紅の扇子がぴたりと止まった。
「……百年越しの約束とは、随分な浪漫でありんすな」
「浪漫ならいいんですがね。あの方、面を被っておられるんですよ。狐の面を」
◇
その夜の更ける頃。
狐火庵の灯がやや暗くなった時分に、件の“客”が現れた。
面は白地に朱の縁取り。
着物は深緋の色。
そして、手には古びた巻物のようなものを持っている。
「……約束を、果たしに来た」
掠れた声だった。
藍之介は穏やかに頭を下げる。
「ようこそおいでなさいました。約束とは――?」
「百年前。おぬしの先祖、“白狐の藍理”が交わした契り。人と妖が互いを助け合う証として、百年後に“灯を返す”と。……その灯を、受け取りに来た」
紅が静かに息をのんだ。
「“灯を返す”――とは、命の灯でありんすか」
「妖にとっての“灯”は命も同じ。契約の証を返すとは、命を渡すということだ」
「そんな……。藍之介はただの店主でありんすよ!」
紅の声に、面の客が首をかしげた。
「契りに名は関係ない。血が続く限り、約束は受け継がれる。白狐の一族なら、百年前の借りを返さねばならぬ」
藍之介は黙っていた。
代わりに、湯のみをひとつ差し出す。
「お茶でもどうです。昔話をするなら、口を潤した方がいい」
「……茶など」
「お嫌いですか?」
面の下で、客がわずかに息をついた。
やがて、手を伸ばし、湯のみを取る。
「百年前――おぬしの先祖が、わしを封じた。その際、“百年経てば、解く”と約束した。わしはずっと待っていた。地の底で、灯が消えるまで」
「それで今夜、灯町に現れたと」
「そうだ。だが、おぬしはどうやら“約束を忘れた”ようだな」
空気が一気に冷えた。
紅の髪がかすかに揺れる。
「旦那さま、あやういでありんす」
澪が小さく頷く。
藍之介は微笑んだまま、湯のみを置いた。
「百年前の藍理――わたしの祖先は、確かに妖の“怨火”を封じたそうですね。ですが、封じたのは敵意からではなく、“共に在るため”だった」
「……?」
「怨火さま、覚えておいでですか? あなたが人の村を焼こうとしたとき、藍理がこう言った。“あなたの灯は、憎しみの色ではない。温める火に戻しなさい”と」
沈黙。
面の下から、わずかな息音が漏れた。
「……あの時の言葉、覚えている」
「では、私たちは、まだ約束の途中なんです。奪い合うんじゃなく、共に生きるための約束を、続けなければならない」
「続ける、だと?」
「はい。灯を分け合う形に」
藍之介の声は穏やかだった。
紅が扇子を閉じ、澪に目配せする。
「旦那さま。妖の灯は、共鳴でありんす。ひとつが穏やかなら、もうひとつも静まる。試してみんしょう」
「やってみるか」
澪が立ち上がる。
灯助が天井から「了解!」と声を上げ、部屋の灯をすべて落とした。
暗闇。
藍之介の掌が、かすかに光を帯びる。
紅の手がその上に添えられる。
「怨火さま。あなたの灯は、消えることを望んでおりんすか?」
廓詞の響きが、闇の奥に届いた。
面の下から、苦しげな声。
「……わしは、ただ、忘れられるのが怖かった。炎も、誰かに見てほしかっただけだ」
「ならば、その灯を、温める火として残しましょう。寒い夜に、茶を沸かすための火として」
紅が微笑む。
藍之介の掌の光が、面の客の胸に触れた。
次の瞬間、狐火庵の空気がふっと柔らかくなる。
面が静かに床に落ち、中から淡い光が一つ、舞い上がった。
「……おぬしらの言うとおりだ。火は、燃やす為だけにあるのではない。照らす為にもあるのだな」
「ええ。狐火庵の火は、灯町の為にある」
光は笑うように揺れ、藍之介の灯と溶け合い、ひとつの暖かな炎となった。
◇
数刻後。
紅が湯呑をすすりながら、しみじみと呟いた。
「旦那さま、妖の心とは不思議なものでありんすねえ。憎しみも恋も、みな火のよう」
「火は、使い方次第で人を焼くし、人を温めもする」
「どちらを選ぶかは、その手の温かさ次第でありんす」
澪は笑い、金平糖を口に放り込んだ。
ほんのりとした甘さが、焙じ茶の香りと溶け合う。
「藍之介。今日の茶は、いつもより旨い気がする」
「そりゃあ、怨火さまが少し混じってますからね。苦みが消えました」
春太が目を丸くする。
「ひぇっ、飲んじゃっていいんですか、それ!?」
「おや、悪いものじゃありませんよ。恋の味がちょいとするかもしれませんが」
紅がふふと笑い、春太はますます赤くなった。
「旦那さま。恋の味、覚えておきんすよ」
「……あいにく、僕の舌は金平糖専門でね」
「甘いのも、恋のうちでありんす」
紅が目を細め、湯呑を傾ける。
その笑みは、茶の湯気の奥でほのかに霞んでいた。
◇
店を出る頃には、雪がやんでいた。
灯町の空には、月が丸く光っている。
「旦那さま」
「ん?」
「あちきも、百年後の約束を交わしておきんしょうか」
「どんな約束だい」
「百年後の灯町でも、またご一緒に金平糖を舐める約束でありんす」
「……それは長いな」
「妖にとっては、ほんの一夜でありんす」
澪は少し笑い、紅の肩に雪の粉を払った。
「じゃあ、その約束は破らないようにしよう。君が忘れない限り」
「忘れないでありんすよ。だって、旦那さまは、あちきの灯でありんすから」
狐火庵の暖簾が、風に揺れた。
中から漏れる橙の灯が、ふたりの背をやわらかく照らす。
――灯町の夜は、今日も穏やかに、金平糖のような甘さで包まれていた。




