一灯 雨夜の金平糖
――灯町の雨は、やけに甘い。
しとしとと降りしきる中、裏路地の石畳を叩く雨粒の音に紛れて、かすかに砂糖菓子の香りがした。
蒼原探偵事務所の窓辺で、その匂いを吸い込んだ男がひとり。
「……雨の味がするな」
黒髪をうしろでゆるく束ねた男――蒼原澪が、薄く笑って金平糖を口に放り込んだ。
机の隅には小さな皿。中には色とりどりの金平糖が、星屑みたいに転がっている。
「金平糖の味でありんしょう?」
湯気とともに声が降ってくる。
茶を注いでいた女は紅といった。赤い小紋に黒の帯、金の瞳。白い指先で急須を傾ける仕草ひとつにも、どこか花街の残り香がある。
「雨の日の甘いもんは、心を油断させんす。妖も人も、似たようなものでありんすよ」
その時、机の影からひょこりと、小鬼が顔を出した。手のひらほどの大きさ、角はまだちょこんと一本だけ。
その目が、澪の皿の上の金平糖に釘付けになる。
「澪、その金平糖……ひとつ、いや、ふたつ、いや、五つくらい」
「欲張りすぎでありんすよ、小鬼。三つまでになさいな」
「やった!」
「まだ許しておりんせんよ」
紅のにこやかな声と共に、小鬼の耳がぴしりとつねられた。
提灯の付喪神・灯助は天井でぶらぶら揺れながら、その様子を見て高笑いする。
「いやあ、今夜も平和でござるなあ、澪どの!」
「灯助、おまえ笑ってないで少しは照らしてくれないかい。暗くて文字が読めない」
「へいへい、任せてくだせえ!」
ぱっと灯りが強くなる。
その明かりの下で、澪は机の端の新聞をひらりと持ち上げた。
――《連続投身自殺か 被害者、いずれも「甘い味がした」と証言》
昨日までに三件。いずれも灯町内。
飛び降り、飛び込み、屋根から転落。遺書はなく、目撃者は口を揃えて語ったという。
『――落ちる直前、妙にうっとりした顔で、「ああ、金平糖の味がする」って……』
「ねえ、紅」
澪が新聞をひらひらさせる。
「なんでだろうね。死ぬ前に金平糖の味がするなんてこと、あるかな」
「おかしな話でありんすねえ」
紅は澪の横に腰をおろすと、そっと新聞に目を落とした。
金の瞳が、一瞬だけ細くなる。その目には、澪には見えない“糸”が映っている。
「……三人とも、“縁”の色が薄うござんす」
「薄い?」
「独りで食事をとり、独りで眠り、独りで涙を飲む者の色。人の世から、ちょいと外れたところに立っていた方々でありんした」
「ふうん。じゃあ、誰にも止められない場所にいた、ってことか」
「ええ。そこに、何かがつけ込んだのでありんしょうね」
紅の声が、わずかに低くなった、その時。
戸を叩く音がした。
助手の春太が転がり込むようにして出入口へ走る。勢いあまって戸に肩をぶつけ、灯助が「おっとっと!」と揺れた。
「い、いらっしゃいませ」
戸の向こうに立っていたのは、雨に濡れた警官服の男だった。まっすぐな背筋、眼鏡の奥の目は鋭く、表情は岩みたいに固い。
「蒼原。……相変わらず妖ばかりだな、ここは」
「ようこそ警部殿。そんな挨拶じゃお茶も出せないよ、五十嵐」
澪は気怠そうに立ち上がり、客用の座布団を指さした。
五十嵐宗司――警視庁特異課所属。灯町近辺で、妖絡みと噂される事件を扱う男。
「座らない。時間がない」
「そう言うと思ったでありんす」
紅がすっと湯呑をすすめる。五十嵐は一瞬たじろぐが、結局受け取った。
「本題だ。おまえも新聞を見ただろう、蒼原。連続投身の件だ」
「自殺じゃないのかい?」
「形の上ではな。だが三人とも、直前までそんな素振りはなかった。共通点は身寄りがないことと、金平糖の味という発言だけだ」
「金平糖、ねえ」
「特異課としても放置できん。だが正面から妖の仕業と公表するわけにもいかない。そこでだ」
五十嵐は澪を見据えた。
「あちら側にも顔が利く、おまえに頼みたい。真相を探れ」
「給金は?」
「請求書を回せ」
「いいね。よし、紅、出かける準備を」
「もう出来ておりんす」
紅は立ち上がる。いつの間に用意したのか、澪の外套を腕にかけ、提灯の灯助をひょいと掴む。
「春太、留守番よろしく」
「えっ、ぼ、僕も行きたいです先生!」
「仕事は分けるものでありんすよ、坊や。事務所に妖と子どもだけ残しておいた方が、ある意味安全でありんす」
「どういう意味ですか姐さん!?」
小鬼と夢子と沙叉と灯助が一斉に「任せろ」と胸を張る(胸はないが)。
五十嵐は眉間をぎゅっと押さえた。
「……どうしてこう、まともな人間が少ない場所なんだ、ここは」
「妖の町だからね」
澪は金平糖を一粒、口に放り込んだ。
甘さが、雨音と一緒に舌に広がる。
――金平糖の味がした。
◇
最初の現場は、雑居長屋の裏手だった。
被害者は文房具店の店員。二階の窓から落ち、そのまま即死。
夜の路地はまだ湿っていて、石畳は墨を流したように黒い。
「ここだ」
五十嵐が足を止める。
紅がそっと、その場の“糸”を見るように目を細めた。
「……さみしい色でありんしたねえ」
澪はしゃがみ込み、石畳を撫でた。
そこには、小さな砂糖の粒が残っている。
「……砂糖?」
「検査したが、毒物の反応はなかった。ただの砂糖だ」
「金平糖を砕いたみたいでありんすね」
「被害者の部屋には、それらしい菓子は見当たらなかったはずだよね?」
「ああ。だからこそ気味が悪いんだ。まるで空気から甘さが湧いてきたようだ」
空気から甘さが湧く。
澪は上を見上げた。雨雲は低く、長屋の屋根は黒く濡れている。
……そこに、ふっと違和感。
「紅」
「ええ。おかしな“縁”が混ざっておりんす」
紅が澪の袖に指を添える。
彼女にしか見えない色彩が、夜気の中に揺れている。
「細うて白い糸。砂糖菓子みたいな甘い匂い。人の孤独に寄って来る、食いしん坊の妖でありんしょうね」
「人を飛び降りさせるほどの?」
「妖は、望まれたら応えるものでありんす。『もう消えてしまいたい』と舐める舌に甘い味を乗せてやる。あとは、その人が一歩踏み出すかどうか」
五十嵐が低く唸る。
「つまり、おまえは被害者にも責任があると言いたいのか」
「そうは申しんせん。ただ――」
「ただ?」
澪が立ち上がる。
金平糖の甘さと雨の匂いが、鼻の奥でまじりあう。
「この妖は、最後の一押をしてる。甘い言葉でね」
◇
二件目、三件目の現場も似たようなものだった。
小さな砂糖の粒。誰も買っていないはずの甘い匂い。
どの被害者も、身寄りがなく、毎日をただ消費するように生きていた。
「特徴がひとつ」
狐火庵の座敷で、澪は湯呑を片手に言った。
「皆、最近になって急に、“あの雨は甘かった”と言い始めてる」
「雨が甘い、ね」
狐火庵の主人、白狐の藍之介が湯を注ぎながら微笑んだ。
「耳にしたことはありますよ。ここ数日の夜、川辺の方でね、“砂糖の匂いがする”って」
「与平のところだね」
「ええ。河童の与平が、『妙なもんが川面で金平糖を浮かべてやすぜ』と」
「最初に言いなさいな、それを」
紅が呆れたように呟く。藍之介は申し訳なさそうに首を傾げた。
「本来は人を死に追いやるような妖ではないのですが……」
澪は残った茶を飲み干した。
「甘い雨は川から上がってきてる。孤独な人間のところへ」
「旦那さま、行きんしょう」
◇
川辺は、雨上がりの霧に包まれていた。
柳の枝から水滴が落ち、川面には薄く靄が漂う。
「おーい、与平」
澪が呼ぶと、水面がぼこりと膨らみ、甲羅を背負った影がひょっこり顔を出した。
「へい、旦那。こんな夜更けに珍しいことで」
「妙な金平糖を流してるのは、君の知り合いかい?」
「へ?」
澪が説明すると、与平は青くなって頭の皿を押さえた。
「そいつぁ雨糖でさあ」
「知っているんだね」
「ええ、まあ。昔っから時々出る、ちっこい妖で。人の涙を舐めて、代わりに甘い味をやるんでさ。寂しいやつぁ喜ぶもんだから、悪さしねえ限り、ほっとくのが筋って聞いてたんですがねぇ……」
「今回、ほっといた結果がこれでありんす」
紅が静かに言う。
与平は肩をすくめ、川面を指さした。
「ここらで見やしたぜ。呼べば来やす」
「呼べるのかい」
「寂しい気持ちを思い出せば、一発で」
「おや、それは困った」
澪は苦笑し、紅を見る。紅は澪の袖をきゅっと掴んだ。
「寂しさは、呼ばずともおりますからねえ」
その時だった。
ふわり、と甘い香りが強くなる。
霧の中に、小さな光の粒が揺れた。
それは金平糖の形をしていた。
透明な粒が、ふよふよと宙を漂い、澪たちの周りを回る。
「おや、来おった」
与平が身をすくませる。
「……これが、雨糖?」
粒が澪の頬に触れる。瞬間、甘さが舌に満ちるような錯覚。
『さみしいの? ねえ、さみしいのでしょう?』
澪の耳の奥で、囁くような声がした。
紅がすぐに澪の手を握る。
「旦那さまに触れんじゃありんせん」
浮かぶ金平糖の粒が、もぞもぞと形を変える。
現れたのは、小さな童のような妖。目はとろんと甘く、髪は雨のように滴っている。
「やだなあ、怖い顔しないで。ボクは甘くしてあげるだけだよ。みんな、喜んでくれるもの」
「三人、死んでいる」
澪が静かに言う。
雨糖は首を傾げた。
「だって、寂しいって言った。消えたいって言った。だから、甘くしてあげた。痛くないように、怖くないように、ふわふわにして」
「ふわふわにして、そのまま落としたんでありんすか」
「ボクは、肩を押しただけ」
紅の瞳が細くなる。
「妖は招かれなきゃ入れない。けれど、一歩を踏み出す手伝いをしたなら、それはもう共犯でありんすよ」
「やだなあ、お姉さん。ボク、悪くないよ。だって、ボクを呼んだのはあの人たちだもの」
「そうかもしれない」
澪は頷いた。
「けどね、甘くしてあげるって言葉には責任がある」
「責任?」
「君は甘さを与えた。でも、その甘さで目をつぶらせて、選ぶ時間を奪った。残された人たちからすれば、奪われたんだよ」
雨糖は暫く黙っていた。
やがて、ぽとり、と涙のような砂糖の粒が落ちる。
「……寂しい顔、好きじゃない。甘くしてあげただけなのに」
「なら、もっと上手にやりんしょう」
紅がふっと微笑む。
「今度からは、落とす前に離れなさいな。甘い慰めだけして、あとは人の足に任せんす。それなら責任は半分で済みんす」
「半分?」
「残り半分は、人の寂しさの責任でありんす」
澪が続ける。
「それと、この町で勝手に人を死なせるのは、いただけない。もしまた誰かを落としたら――」
「ら?」
「特異課と僕たち探偵事務所が黙っていない」
雨糖は小さく身を縮める。
「……わかった。ごめんなさい」
その身体が、再び金平糖の粒にほどけ、雨に溶けていく。
「与平。見張っていてくれるかい」
「へい。今度は気ぃつけやす」
◇
後日、五十嵐へ報告がなされた。
「つまり、おまえは妖に説教してやめさせたと言うのか」
「そういうことになるね」
「証拠は?」
「死者はもう出ません。それで充分でありんしょう」
紅がにっこり笑う。五十嵐は額を押さえた。
「……正式な書類には書けん話だ」
「書かなくていいさ。君の頭の片隅に、甘い雨の記憶だけ残しておいて」
「やはり妖関係の事件は苦手だ」
そう言いつつ、五十嵐は帰り際、机の金平糖を一つつまんだ。
春太が目を丸くする。
「五十嵐さん、甘いもの食べるんですね!」
「非常時だ。糖分補給だ」
「ふふ、悪うない趣味でありんすよ」
◇
夜。
探偵事務所の窓を、静かな雨が叩いていた。
「……ねえ、紅」
「なんでありんす?」
「もし僕が、甘くしてくれって頼んだら、君はどうする?」
紅は少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑む。
「あちきは、旦那さまに金平糖を一粒渡しんす」
「それだけ?」
「ええ。それを舐め終わるまで、生きていてくれとお願いしんすよ」
澪は笑った。皿から紅色の金平糖をひとつ摘まみ、口に放る。
「じゃあ、何粒か余分に用意しておいてもらわないと」
「幾らでも。あちきと旦那さまの縁がある限り、甘さは尽きんせん」
灯助が天井から、「おあとがよろしいようで!」と声を張る。
小鬼が金平糖をねだり、猫又の沙叉が澪の肩で喉を鳴らし、座敷童子の夢子が柱にもたれて居眠りを始める。
妖たちの笑い声と、雨の音。
そのあわいで、澪は静かに目を細めた。
――灯町の雨は、やっぱり少し甘い。
それが、人と妖が共にいる証なのだ。




