十一灯 狐火庵の灯と、見えない客
夜の灯町は、昼とは違う匂いがする。
炊き立ての飯の湯気と、川べりに流れる灯籠の蝋の香り。
狐火庵の暖簾からこぼれる橙の光は、まるで蛍のように通りを照らしていた。
――その茶屋の座敷に、今夜も“ひとり”の客が座っている。
◇
「また出たんでありんすか、藍之介殿」
紅がすっと座敷に上がり、扇子を開いた。
藍之介は茶釜の湯をゆるやかに混ぜながら、穏やかに微笑む。
「ええ、今宵もです。宵の口になると、あの椅子に腰を掛ける“影”がね」
指差した先には、窓際の席。
そこには誰もいないのに、茶碗がひとりでに湯気を立てていた。
金平糖の入った小皿も、ひと粒だけ消えている。
「……これはまた、風流な泥棒だねぇ」
澪は肩をすくめた。
「風流って問題じゃないですよ、先生!」
春太はすっかり腰が引けて、ぴたっと紅の後ろに隠れている。
「灯助がいりゃ明るいのに、今日は天井に置いてきてしまったね」
「へたれでありんすね、春太」
「ひぇぇぇ……姐さん、笑ってないで守ってください!」
そんなやり取りをよそに、紅が扇子をぱたぱたと扇ぐ。
その風に、茶碗の湯気がふわりと形を変えた。
輪郭を持ち始めた湯気は、やがて人の影のように揺らめく。
「……男の人、ですか?」と春太。
「ええ。だいぶ前に亡くなられた方でありんしょう。名は――『与兵衛』。この茶屋の常連でありんした」
藍之介がはっと顔を上げた。
「その名を、まだ覚えていらっしゃるんですか」
「ええ、よくこの庵の灯を見上げておりんした。
孫御が嫁ぐ夜、ひと言『幸せでいてくれ』と呟いたのを覚えておりんす」
紅の声は、まるで柔らかい風のように静かだった。
「それから、毎晩ここに来ていたのでありんしょうね。茶と甘味を楽しむように」
澪が湯気の影に向かって、ゆっくりと声をかけた。
「おじいさん、孫御は今もこの町で元気にやってますよ。どうやら新聞にまで名前が出るほどの働き者らしい」
影がかすかに震えた。
湯気が丸くゆがみ、空中で淡い光をこぼす。
「……そう、か。……なら、もう……」
その声は霧のように薄れ、茶の香りと共に消えていった。
◇
帰り道、春太が胸の前で両手を合わせて言った。
「なんか、またいい話でしたね。怖いのかと思ったけど」
「妖も幽も、怖いのは人の忘れ方でありんすよ」
紅が夜空を見上げながら答える。
「忘れられても、灯は消えない。けんど、思い出してもらえたら、もっと明るく灯るでありんす」
澪は金平糖を口に放り込み、柔らかく笑った。
「……なるほど。灯町の灯は、思い出で燃えてるのかもね」
「まったく、旦那さまは口がうまいでありんす」
「紅の真似をしただけだよ」
「まぁ、色男に言われたら悪い気はしんせんが」
紅が扇子の陰でくすりと笑い、
春太が「うわぁ、また夫婦漫才だ……」とぼやく。
そんな三人の頭上で、電柱にとまっていた烏が一声鳴いた。
その声が不思議と澪の胸の奥に響く。
――縁の灯が、少しずつ揺らいでいる。
誰にも聞こえないその呟きは、
澪の背中に冷たい風を残して通り過ぎた。
――明日の灯町が、今日と同じ明るさでありますように。




