十灯 灯町の朝と、金平糖泥棒ふたたび
――灯町の朝は、今日もやけに甘い匂いがした。
澪の探偵事務所の窓辺には、朝陽が斜めに差し込んでいる。
その光の中で、金平糖の瓶がきらきらと輝いていた。
「先生ぇぇぇっ!」
朝っぱらから叫んでいるのは、助手の春太である。
吊りズボンの肩紐をだらりと垂らしたまま、半泣きで机を指さした。
「瓶が! 金平糖の瓶が、空です! 一粒も残ってません!」
澪は筆を持ったまま、面倒そうに視線を向けた。
瓶の底を覗くと、確かに空っぽだ。
硝子の中で、ほんのひと欠けらだけがころんと転がっている。
「……朝から賑やかだね。泥棒なら警察へ」
「そういう問題じゃありませんって! 姐さんが怒ります!」
「ほほう、それは困る」
障子の向こうから、鈴の音がちりんと響いた。
紅が扇子をひらりと開き、静かに姿を現す。
「朝の金平糖は、旦那さまの活力でありんすのに……」
「ほらぁ……!」と春太が情けない声をあげた。
紅は澪の隣にすっと腰を下ろし、空の瓶を覗き込む。
「……手口がきれいでありんすね。粉も散っておりんせん」
「つまり、犯人は“食べずに消した”か、“消えて食べた”かだね」
「どっちでも泥棒ですってば!」
その時ーー天井から、呑気な声が降ってきた。
「へっへっへ。拙者は無実でござるよ、澪どの!」
見上げれば、提灯の灯助がぶらぶらと揺れている。
いつの間にか明かりを灯したまま、へらへら笑っている。
「いやぁ、金平糖が消える瞬間、拙者この目で見てたんでござる」
「おや、目撃者か。で、どんな奴だった?」
「影、でござる」
「影?」
「床に映る影が、瓶の中へすうっと手ぇ突っ込んで、気づいたら瓶の中が空っぽに……ほら、こんな具合に」
灯助が自分の身体をひょいと伸ばしてみせる。
春太は慌てて後ずさった。
「ひっ、ひぃっ!」
紅は扇子で顎を軽く押さえた。
その金の瞳が静かに光る。
「……影の主が、持ち主を失うたんでありんすね」
「どういう意味です?」
「影は付喪神の端くれでありんす。
けんど、主が亡くなると、縁が切れて“影”だけが残る。名も、形も、想いも忘れて、ただ“持ち主を探す”だけの存在」
「……つまり、金平糖を盗んだのは、人の縁を求めて?」
「そうでありんす」
澪は立ち上がり、上着を羽織った。
紅が扇子をたたんで、後ろにぴたりとつく。
「春太、灯助。狐火庵に行くよ」
「茶屋にですか?」
「あそこの影がいつも揺れてただろう? 今朝はどうだか、確かめに行こう」
「ひぇ〜……影の調査なんて怖いですよぉ!」
そんなやり取りをしながら、灯町の朝は始まった。
◇
狐火庵の座敷は、いつものように湯気が立ちのぼっていた。
藍之介が穏やかな笑みで迎えてくれる。
「おや、お早いですねぇ。お茶を出しましょうか」
「金平糖を盗む影がいるらしい」と澪。
藍之介の眉がぴくりと動く。
「やはり……。昨夜、ここでも妙なことが起こりました。夜の帳が降りたころ、ひとりでに椅子がきしんで、茶碗の湯がひと口、減っていたのです」
紅が静かに頷く。
春太はごくりと唾を飲み込んだ。
「そ、それって……お客さん、見えない誰かが飲んだってこと?」
「そうでありんす」
澪は空の席を見つめる。
茶の湯気がゆるやかに影の形をなぞる。
「……ここに座っているのかな」
ふと、紅がそっと扇子を影にかざした。
風が舞い、影がふるえる。
やがて、黒い影の中から、やせた老爺の姿がぼんやりと現れた。
「……ああ、孫の茶が、まだ……」
その声は弱々しく、まるで夢の中の独り言のよう。藍之介の顔がほころぶ。
「この茶屋の常連ですね。孫娘が嫁いでから、ずっと見守っていたんですよ」
紅が静かに微笑んだ。
扇子の先から光の粒が零れ、老爺の影を包む。
「もう大丈夫でありんすよ。孫御に、ちゃんと伝えんした。おじいちゃん、元気に茶を飲んでるよと」
影は穏やかに笑い、ゆっくりと薄れていった。
◇
帰り道。
春太が袖を握りながらぽつりと呟いた。
「……影にも、想いがあるんですね」
「そうだねぇ。忘れられても、縁はしぶとく残る」
「先生は……怖くないんですか? 妖と関わるの」
澪は笑った。
「怖くないさ。怖いのは、誰かを忘れてしまうことだよ」
紅が金の瞳を細めた。
「――まるで、昔の旦那さまのようでありんすね」
「昔の僕?」
「寂しがり屋で、優しいとこ。まったく、困ったお人でありんす」
その声音に、澪は少しだけ頬を緩めた。
◇
事務所に戻ると、机の上には新しい金平糖の瓶。
春太が照れくさそうに言う。
「狐火庵の藍之介さんがお礼にって」
「そうか、ありがたいね」
澪は瓶をひとつ開け、紅にひと粒渡した。
紅はそれを手のひらに載せ、柔らかく微笑む。
「……灯町の朝は、やっぱり甘いでありんすね」
外では、提灯の灯がふわりと揺れた。
その光はまるで、誰かが笑っているようだった。
――灯町に、今日も小さな縁の灯がともる。




