五話:夜の昔話
この鬼にとって、夜は好ましい時間であった。木の葉のざわめきや川の香が夜を塗り、山から降りる風が戯れの如く肌を撫ぜていく。獣達の遠吠えに合わせて月が雲から顔を出した時には、無類の感動を覚えたものである。
また闇に潜みやすく、光に相手が眩まされやすいのも好ましい。闇の中でも鬼の目は利く。その瞳は、燐光にも似た妖しさを放っていて。その光に引き寄せられ、惑わされた者は数知れず。
嗚呼なんと懐かしい。我にとって夜は好ましい時であったのだ……昔は。
現代のこの国で、自然の趣を真に味わえる環境は急速に減りつつある。ガラス張りや灰色のビル群が立ち並び、アスファルトに覆われた地は水を吸わず、人の手の入った緑が申し訳程度に植えられているが、多種多様な生物の繁殖地には到底なり得ず。街は昼と変わらぬ明るさで、鬼の目を隠さずとも全く人間に怪しまれなかったこと幾度。
世は循環を繰り返しながらも移りゆくもの、変化し続けるもの。これしきのことで目くじらを立てるほど鬼も狭量ではない。だが外に出れば瑞々しい香りを吸い込めた時代を知っている鬼からすれば、やはり昔は良かった、などと老獪が呟くようなことを考えてしまっても、致し方なく。
この国は変わった。千年前の姿を過去のものとし、新たな時代へと突き進む速度を緩めることを知らない……その変化に合わせ、鬼共も、変わらねばならない。
「眠れぬのか。」
木々の葉の擦れる音、ではなく、時計の針の音が微かに響く室内、カーテンの隙間から差し込むは、外の街灯の明かり。胡座をかき本を読んでいた鬼が顔を上げ、呼び掛ければ、部屋の端の布団の上で、もぞりと動いた直之が呻いた。
「眠くないんだよ……二年前から不眠症でさ、医者から眠剤処方されてるけど、効かねぇ時はほんとに効かない。そのくせ頭ふわふわするし……まぁ、もう慣れたけどさ……」
直之が鬼の方を向く。目の合った鬼が見つめ返していれば、「きれいだなぁ……あんたの目……」なんて呟く声が聞こえて。
「綺麗、か。この目にそのように感じた人間共は大概、我の手に転がされていたものだ。」
「じゃあ俺転がされてるわ……はは。もう俺、あんたの虜みたいだからさぁ。」
「安い口説き文句は他所でやらぬか。」
「本気だってば。なぁ、もっとこっち来てくれよ……」
息を吐き、仕方なく直之の傍まで向かった鬼が腰を下ろす。それだけでも満足そうに笑う直之の目は、どこか虚ろに揺れている。処方されているという眠剤、直之が飲む姿を鬼が見た際、直之は薬剤の袋に一粒と書いてあったところを三粒飲んでいたが、まぁ、鬼の知るところではない。
「シン、なんか話聞かせてくれよ。」
「語り部なぞしたことがない。」
「昔話とかさ、鬼の間でもちょっとした小話の一つくらい、ないのか?」
「……」
そんな馴染みない行為がおいそれとできるとも思えぬ。そう考えつつも、鬼はいくらか逡巡して、口を開いた。
「つまらぬ話であろうが、一つある。」
「ん、聞きたい聞きたい。」
そう見上げてくる仕草が、まるで母親の語りを聞く子どものようだと感じながら、鬼は訥々と話し始めた。
舞台は都から遠く離れた地の、小さな村。細々とした生活の中でも身を寄せ合って暮らす人々は、長らくある土着の神、鬼神を信仰していた。山の奥に位置する古い祠は、しめ縄を巻いた大きな岩にひと回り小さな殿舎を乗せ、その中にある石に『癸眞』と刻まれているのみの簡素な造り。傷だらけで、風化しているために彫られた字も薄く、落ち葉の溜まりやすい立地にあったため周囲も雑然としていて。
側から見れば、神の居所とは到底思えないほど粗末な祠だった。だが村の人々は毎朝掃除を欠かさず、参拝に足繁く通う者も多数。年の初めには祠の前に村一同が集まり、一年の無病息災豊作祈願を行う祭りを開いていた。
この祠は、代々ある家系が守人兼祈祷師を務めていた。普段は祈祷師のみが、鬼神の声を聞き、鬼神と語らうことができた。だが稀に、鬼神が村人達にその御身を朧げではあれど晒す時があった。それが、度々村を襲う『厄災』との戦闘時である。
空が厚く黒い雲に覆われ、豪風の唸るような足音と、稲妻のように鳴り響く刺又の鈴の音、何よりその巨木より大きな御身、鬼神が祠のある山から降りてくるのが見えれば、それは厄災が村に来ている証拠。
その度に村の人々は祠までひとっ飛びで逃げた。鬼神が刺又を振るう轟音に畏れつつ、厄災が此度も鬼神によって追い払われるよう村一同で祈っては、空が晴れたことで戦いの終わりを知り、皆で抱き合って喜んでいた。
そんなある日のことだった。祈祷師の家系の者達が、一人、また一人と病に倒れた。人々は何か鬼神を怒らせてしまったかと震え上がったが、その病は次第に村の者達をも襲い出し、ついには病に倒れた者達が次々に死んでいったために、村は恐慌状態となった。その空に突如響いたのは笑い声。厄災であった。
厄災は何度挑んでも勝てないこの村の神に痺れを切らし、だったらじわじわと苦しめてやろうと、前回の戦いの際、村の地に毒を仕込んでいたのである。鬼神は怒った。それも御身を燃やし尽くしそうなほどの業火を纏いながら。
戦闘は五日五夜続いた。鬼神は卑怯な厄災をこれでもかと懲らしめ、ついに厄災は二度とこの村には来ないことを誓い、逃げていった。空は晴れた。戦いの終わりに人々は歓喜した。
だが、その時初めて、人々は鬼神の姿をはっきりと見てしまった。筋骨隆々傷だらけの体は歪み、手に持つ刺又から全身までをも包む青い炎は、冷酷なまでに冷たく。そしてその顔、怒りの刻みつけられた表情は、此奴こそ厄災と言われても違わない、それほどの醜さで。
以降、年に一度の祭りは開かれなくなった。祠の掃除をする者も、参拝に訪れる者もいなくなった。先の厄災の病で祈祷師の家系も途絶えてしまったために、鬼神の声を聞く者もおらず。村の人々の間では、それまで崇めていた鬼神を、忌み嫌う意を込めて、『邪鬼』と呼ぶようになった。
「――え? ちょっと待てよ、鬼神様は村を救ったんだろ? なんで忌み嫌われるんだよ。今までずっと信じてきてた鬼神様を、いくら初めて見た姿に驚いたからって、そりゃねぇだろ。」
「人間というのはそういうものよ。どんなものも度が過ぎれば拒絶したがる。気味悪さのあまり信仰心を失う話など、珍しくもないわ。」
「だからってさぁ……えぇ……それで? 鬼神様はどうなったんだよ。」
「……さぁな。」
「さぁなって。ここまで結構濃密な話だったのに。」
「御前が鬼の間の小話と言ったのだろうが。さぁもう寝ろ。夜は長い。人間にとって睡眠不足というのは体に響くのだろう。」
「いや、だから眠れないん、だっ、て……」
直之の額に鬼が手を置けば、直之の声が失速する。いくらか抵抗していたが、瞼がゆるりと閉じて。数分後、規則正しい寝息が聞こえ出して、鬼は額から手を離した。
『――癸の衛、眞よ、我らを護りし、我らが崇めし神、癸眞よ、何卒、我らの祈りを聞き届け給へ、何卒、その御声を、我らに賜び給へ――』
懐かしき声は、今も思い出せる。あの者が、我と話した最後の祈祷師だった。鬼神である我を死ぬまで信じた、最後の……。
「……いかんな、長話が過ぎたか。」
眉間を揉み、長く息を吐く。鬼には似合わない感傷的な感情を隅に追いやり、目を閉じて。
例え人との繋がりが薄れていっても、悲観的になることはない。鬼を信ずる者がいる限り、我らは存在し得るのだから。