四話:藁どころか、鬼にすら
本当に買い出しに行ってきたらしい直之は、おどつきつつも帰ってきた。それを迎えた鬼は、しばらくにやつきながら直之を揶揄った。といっても少々、距離を縮めてみただけである。部屋のどこへ行くにも直之の後ろを歩き、夕時には飯を頬張る直之の隣に座り、現在は食器を洗う直之の手元を背後から覗き込んでいるだけ……である。
「……っ、ああ近いっ! 距離が近い! なんなんだよ急に! 今食器洗ってんだって! おいシン!」
「んん? 我はただ、我と過ごしたいという御前の望みを叶えてやっているだけだが?」
「からかってるだろ! ただでさえ暑いんだから離れろって! どうせ弄ぶだけ弄んで食ってくれないくせに! ひどい! 薄情者! 鬼!」
「鬼だが。」
「ああそうだったな!」
訂正、まとわりついているが正しい。鬼は非常に楽しんでいる。昼までけろっとしていた人間が、今ではたじたじになりながら困り果てた顔をしているからだ。
とりわけ快いのは直之からする匂い。腹が鳴りそうになるのは耐えねばならないが、それよりもこの匂い、神気にも似た気配を独占している優越感が、たまらない。
神気を纏った存在を鬼が喰らった際の結末は、ほぼ決まっている。清き神気が体に適合せず、苦しみもがき、その上天罰が下り餓鬼へと失墜させられてしまう。餓鬼の飢えは底がなく、食えばなんとかなる食人鬼の飢えとは比にならないほど激しい痛苦に満ちている、というから恐ろしい。
だがそれでも、神気は鬼共の目に魅力的に映る。その穢れの無さから生まれる芳醇な香りもそうであるが、時として神気は、鬼を神に格上げするためだ。
だがそのようなこと、限りなく運が良いものでなければあり得ない。それも既に『咬み痕』のついた人間を態々喰らう鬼など、まずいないだろう。
そうはわかっていても、やはり美味な匂いがする。他の鬼であれば飛びついてでも喰らってしまいそうな誘惑的匂い。直之から漂うは神気のようで神気ほどの芳しさはないというのに、傍にひっつき続けている鬼が唾を飲むのは、これで何度目か。
「ったく……あ、シン泊まっていくんだから寝る場所いるよな。」
「宿泊は確定なのだな。」
「どこで寝る? 俺床でも良いけど。」
「我に夜の睡眠は不要だ。御前は寝床で寝よ。」
「……鬼って睡眠取らないのか?」
「必要不可欠ではない。緑鬼は惰眠を貪るが。」
「羨ましい、俺も惰眠を貪りたぁい。」
夕食後の食器洗いを終え、直之が両手を上げ伸びをする。ふと、思い出したように言った。
「あ、緑鬼って、鬼は五種類いるってやつだよな。えっと、赤青黄緑白だっけ。」
「赤青黄緑、黒だ。白鬼もいるが、其奴は黄鬼と同等の鬼だ。」
「ふぅん、シンは何色なんだ?」
「……青だ。」
「青か、へぇ。」
言いながら、直之は黒の鞄の中身をがさがさとゴミ袋の中に突っ込んでいる。燃えるもの燃えないものを丁寧に分けているところ几帳面だが、それは確か。
「御前、仕事なるものはもう良いのか。」
「いいんだよ、どうせシンと過ごし終わったら死ぬんだし。それに、俺クビになったからさぁ、シンと再会できたあの日……はは、ひどい話だよなぁ、入ってみたらブラック企業、仕事の持ち帰りは常、残業は必須ただし残業代は出ない、それでもこき使ってくる上司先輩達には献身的に、冷たい同僚後輩達でも遅れを取らないよう勤めてきた、つもりなのに、ラストは突然の大規模リストラのターゲットだ。転職の猶予はもらえず、サポートもなく、はは、笑わないとやってらんねぇよ。」
最後に鞄を袋に突っ込み、直之は両手を払って立ち上がる。へらへらと笑っているが、それらが御前を希死念慮にまで追い詰めた原因であろうと、解っている鬼は笑う気も起きない。
この男、幼くして身内には先立たれ、友という友もいないまま孤立した日々を送っていたらしいとはミえていたが、なるほど孤独は死より息苦しく、更に抗う精神すら潰されるほどの仕事量をこなし続けていれば、限界などとっくの昔に超えているもので。
「……俺死にたいんだよ。もう疲れた、こんなに頑張っても無価値を突きつけられるような社会、生きていられない、生きていたくない。でも……シンならさ、俺の生きていた時間に意味を見出してくれるだろ。あの時、俺が生きてたから、あんたの食糧になった。あんたを満たすために俺が必要だったってことになるだろ。自分勝手であんたを振り回して悪いとは思ってる、けどさ、最後くらい、もう一度、俺の人生意味があったってさ、思いたいんだよ。」
顔を上げるその目には光が宿っている。純真で、歪な、日向と暗闇が混じり合ったような目。嗚呼、きっと。
「なぁシン、」
藁どころか、鬼にすら縋りたくなる人間というのも、いるのやも知れぬ。
「……俺のこと食ってくんねぇ?」
「無理だ。」
「……そこはさぁ、空気読むとかしてくんねぇの?」
「全く物分かりの悪い奴だな、無理と言うたら、無理、なのだ。御前が死を望んでいようがいまいが、救いを求めていようがいまいが、『咬み痕』のある人間を鬼は喰わぬ。疾く諦めよ。」
「ちぇーっ。はいはいそうですか。俺不貞るもんねーっ。風呂入ってくるもーん。」
ばたばたと風呂場へ向かう直之を騒々しいと思いつつも、その声、些か覇気が無いことには気づいていて。虚勢を張っているのが手に取るようにわかり、流石に、言い過ぎたか、などと。鬼らしくもないことを考えている自身を、鬼は人間如きに馬鹿馬鹿しいと、鼻で笑った。