二話:辻褄合わせと始まりの
この世は常に揺れながら、歴史を繰り返し、生死を繰り返し、循環を繰り返すことで均衡を保っている。その保持を目的に動作する、名も無き世界の機構は数多。中でも、世界を渡る者の間では常識な機構がある。それが、『辻褄合わせ』。
不思議なもので、蝶の羽ばたきが竜巻となる、一滴落とされた水滴の波紋が津波となる、そのような、僅かな歪みが思いもよらぬ惨事を引き起こすことがままある。
この原因と結果のプロセスは、時として世界の意図せずして起こり得るものであって、これらを放置してしまえば均衡など保てるものではない。よって歪みを整える、整合を目的とした機構、ルール、世界のシステムが存在し、それが世界を渡る能のある者達の間で、『辻褄合わせ』と呼ばれているのである。
『辻褄合わせ』があるからこそ、人が机から誤ってペンを落としても、地球の反対側で地震が起きることはない。石に蹴躓いても建物が崩壊することはなく、電柱にぶつかっても世界中の発電所がダウンするなんて惨事を招くこともないのである。
要は『辻褄合わせ』とは、歪みを受け止め無効化するクッション材のようなものなのである。この『辻褄合わせ』の応用によって、食人鬼は現代を生きているのだが、その話は後述。
とにもかくにも『辻褄合わせ』はそれほど重大な機構であって、狂いなどあり得ないのである。そして食人鬼に喰われた獲物は『辻褄合わせ』によって、喰われた記憶を消去された状態で世界の本線に戻され、残りの人生を過ごす、はずなのである。
だが、目の前の男は。
「あ、アイスコーヒー一つで。」
店員に飲み物を注文すると、先程までこちらに向けていた輝かしい目を再び向けてくる。鬼は溜息をついた。どうしてこうなったのか、訳が分からなかった。
頼むから俺を食ってくれなんて言ってくる男の、鬼の腕を掴んでいる手は梃子でも動きそうになかった。ただでさえトラックのクラクションが鳴り響いた後、通行人の目を集めている中で、男の発言は異様すぎる。仕方なく、先程まで鬼がいた店まで戻り、話の場を設けたのである、が。
「何なのだ御前は……何故我の正体が解る、何故我のことを覚えている、意味が分からぬ。」
「解る……とおかしいのか?」
「御前は我のことを覚えておらぬはずだ。御前らは知らぬだろうが、この世には『辻褄」
「『辻褄合わせ』、だろ? そう、それ聞いてたからおかしいなとは思ってたんだ。あんたに食われて、目覚めたら、何でか全部覚えてたからさ。」
間髪入れずに返された言葉に、鬼は眉をひそめる。何故此奴は『辻褄合わせ』を知っておるのだ。人間はこの世の機構すら理解せずに生きているはず。それを何故。
「……何故『辻褄合わせ』を知っている。」
「へ? あんたが話してくれたじゃん、覚えてねぇの?」
鬼は記憶を辿った。喰らう際、偶に興が乗って、尋ねてくる獲物に対し置かれている状況を態々説明してやることがある。この男にもしただろうか。覚えていないが、したのかも知れぬ。だが不可思議な点はそれだけではない。
「……我の姿は御前を喰らうた時のものと違うはずだ。我は人間を喰う度姿を変えているからな。仮に何かの間違いで御前が我を覚えていようと、我を判別することは不可能のはずだが。」
「ああ……確かにあの時のあんたは、二十代の女性って感じ、だったな。」
「……であるなら、何故我の正体が解るのだ。」
「んー……なんかこう、びびっと来た感じ。」
「あり得ぬ。」
「んなこと言われてもさぁ……わかったもんはわかったんだって。あっあの時の鬼だって、」
「あり得ぬ。」
「えぇ……」
ばっさりそう切り捨てる鬼の頭には、類似した案件など一つも引っかからなかった。まさか本当に『辻褄合わせ』が上手く機能しなかったというのか、狂いが生じたのか、いや、実のところあり得ないわけではないのだ。仮説はある。この男に対して『辻褄合わせ』が行われる必要がなかった、という仮説だ。だがそんなことがあり得るわけがない。食人鬼の喰らった獲物は、『辻褄合わせ』が行われると決まっているのだから。
あり得ない、そんなわけが。
「でも実際、あり得てるわけだし……なぁ、ここで出会えたのも、何かの縁だ、頼むよ、腹が空いた時でいいからさ、また俺のこと食ってくれないか?」
またこれだ、我のことを覚えておきながら、喰われた際の記憶がありながら、この男はあろうことか食ってくれと願ってくる。
鬼の目に隠し事はできない。だがどんなに鬼が男をミてもその理由、いまいちさっぱりで、何故そんなことを願ってくるのかわからない。この世を生きてきて千年を超える鬼でも、お手上げだった。
「わからぬ、それがわからぬのだ、何故御前は我に喰われたいなどと願うのだ。喰われた記憶は、人間にとって苦痛の何者でもないはずであろう。」
そう告げると、男はいくらか躊躇いを見せた。言葉を探していると言う方が近いかも知れない。店員がアイスコーヒーをテーブルに置いて去ると、男が意を決したように話し始めた。
「俺、死のうと思ってたんだ。」
「それは解っておる。死のうなどと思うていなければ、トラックの前になど飛び出さんわ。」
「あー、はは、そう、だよな。うん、なんかさ、もう、いろいろいと疲れちゃって、もう無理だなって、耐えらんねぇやって、それで、死ぬなら最後に、あんたに食われてぇなって。」
「……待て、話が急だ。何故にその思考に至ったのだ。」
「あんたに食われる前に言われた言葉がさ、俺、すっごく、嬉しかったから。」
何か思い出すように、へらと笑う男はいくらか泣きそうで。その言葉を呟くように声に出した男に、鬼は首を傾げる他なかった。なぜなら。
「あれ……これも覚えてない?」
「いや、それは常日頃我が念頭に置いているものだが、それが何故御前を喜ばせ、捕食される側へ、無抵抗に享受したがるまでになるのかわからぬ。」
「ううん……ただ嬉しかったからなんだけどなぁ……いやそんなことはいいんだよ、お願い! もう一度だけでいいから、俺を食ってください!」
「無理だ。」
「そんな!? 熟考の余地は!?」
「無理だ。」
言い捨てれば唖然とする男に、鬼は二度目の溜息を吐いた。あまり獲物との対話など覚えているものではないが、流石に『咬み痕』の話まではしていなかったか。
「無理と言ったら無理だ。御前は一度我に喰われた証、『咬み痕』がある。」
「かみあとって……」
「首のそれだ。」
男が軽く襟元を捲り、あ、これ? と溢す。そこには痣のようなぼんやりとした赤い痕が覗いている。
「これがあると……食えないってこと?」
「『咬み痕』のある人間を我らは喰わぬ。そういう掟だ。よって我が御前を喰らうことはできぬ。」
「そんな……慈悲は……?」
「鬼に慈悲などない。」
男ががっくりと肩を落とす。わかりやすく落ち込むほどに望んでいたとは、もはやこの男、相当頭が参っているのではないかと鬼は思う。肉に牙の突き刺さる痛みは激痛、獲物は鬼が喰らう間に痛みで気絶しているのがほとんどである。だがそういえば、思い出してみると、この男は他の獲物に比べると、かなり耐えていた、ような。
「わ、かった……じゃあ……一ヶ月、いや、一週間、いや三日でいい!」
「何の話だ?」
「三日、三日だけでいいから、あんたに俺と一緒に生活してほしい!」
「あぁ?」
「そしたら悔いなく死ねるから! 食ってもらえないならせめてあんたと過ごしてみたい! 頼む! 流石に生活にまで縛りはないだろ!?」
今度は何を言い出したかと思えば。頭を下げてくる様は誠心誠意持って頼んできているのがありありとわかる。鬼にとってそれはどうでもいいが、この男といくらか過ごすことで、今回の件の不可思議が解明されるやも知れない、とは思うわけで。加えて人間と過ごす、という点に、些か魅力を感じた鬼は断る理由がなくなった。
「……はぁ、相分かった、三日だな。そのくらいならいてやらぬこともないわ。」
「っしゃぁ感謝します! あ、俺沢田直之、ナオって呼んでくれよ。あんたは?」
「我に名などない。あっても悪名だろう。」
「えぇ? さっき我らって言ってたじゃん、他にも鬼いるんだろ? 周りから呼ばれてた名前ねぇの?」
問われて、古くに呼ばれていた名を想起する。遠く、儚く、懐かしきかな、今は亡き地の、祠の。
「……シン、とは呼ばれていた。」
「ん! じゃあシン、よろしく。」
笑っている目の前の男に向けて、ソレを望むことはできないだろうが。