一話:再会の夏
夏の日差しに蝉の声。青天井に雲はなく。街道歩く人々も、汗拭きながら、溜息を。
梅雨が明け数日の今日、温帯地域と言えないほどの酷暑を記録し続けているこの国では、既にエアコンを稼働させている家も少なくない。
男女問わず日傘をさし、中には日焼け止めを丹念に塗りたくったのが匂いでわかる者までいる。冷を求めて建物に駆け込む者も、カフェでテイクアウトしたジュースを片手に歓談する者達の姿も、見慣れた風景となりつつある。
「……まぁ、我には関係ないが。」
気配を希薄にしたまま、メガネ越しに歩行者を眇め、そう呟くその姿。店先の空いた席に座っているのは三十代男性、しかしその正体、ヒトではなく。
査定するように人々を吟味する眼光は妖しく、わずかに開いた口元に見える八重歯は牙にも近く。やけに赤い舌。艶かしく唇を舐める様は、楼の遊女にも似て。
それもそのはず、この者は人に紛れながら、人と共に生き、そして人を喰らう、鬼、食人鬼である。
だがやはり……今季は暑いのか。汗ひとつかかぬのは流石に目立つ辺り、擬態が面倒だ。
暑くてたまらない、といった風を装い、わざと流した汗を拭う。不自然ない仕草でアイスウーロンを口にする鬼に、気温という概念はないも同然。暑さにも寒さにも強い体で、恒温動物の体感を理解し真似するというのはよっぽど面倒。
しかしそれでもヒトに化けるのは、彼らにとって意味のある行為だからである。
それは獲物の選別。より良い食にあずかるためには、まず獲物を知らねばならない、そのための行為が人間への擬態であった。古来より人間を餌とする食人鬼らは、人間社会に溶け込むことで世を知り、獲物を知り、そして本能のままに食にありつく生活を日々としていた。此奴もまた、その内の一鬼である。
「……おや、」
鬼の目が、ある一点を見つめる。その先に見えるは一人の男、スーツ姿に黒の手持ち鞄。見るからにどこぞの平社員と言える姿だったが、今日は平日、今は昼時。そしてこの通りは学生街とも呼ばれるほど学生向けの店ばかりが立ち並ぶ道路。白の夏服に切り替わった試験終わりの高校生達や、現代のふぁっしょんなるものを身に纏う画一的な大学生達が歩く中で、安い黒のスーツ姿は目立つものである。
だが鬼が目を止めたのは、それだけが理由ではなかった。
以前、我が喰った人間だ。
どれほど前か、半年、いや十年前? 時の感覚などとうに失ったほど長く生きている鬼に判断はつかなかったが、確かに以前喰った人間だと鬼は思い出した。首筋に『咬み痕』もある……だからといって、何があるわけでもない。
食人鬼は見とめた獲物を並行世界に連れ込んだ先で喰らう。その後獲物の魂は世界の『辻褄合わせ』によって世界の本線に戻され、肉体は再構築され、喰われた記憶を抹消されたまま生きることとなる。
あの男もそうなったのだろう。そして一度喰らわれた獲物には『咬み痕』がつく。『咬み痕』がついている人間を食人鬼は喰わない。それは掟、食人鬼らの暗黙のルール。つまり、鬼にとってこの男に興味を引くものはない、はずなのだが。
とぼとぼと歩く男、鬼は訝しむ。彼奴はあれほど疲れを溜め込んでいた奴だったろうかと。人間の本質を見抜く鬼の目に隠し事はできない。以前あの男を喰らった時も、鬼はその目で判断したのである。多少の疲労は蓄積していたものの、色艶の良さ、質感の良さは飛び抜けて良かった人間。だから決めた、だから連れ込んだ、だから、喰った。
だが……今のあの男はどうだ。顔色悪く、頰は痩け、膝を引きずるように歩いている。その上、匂いが……。
「……妙だな。」
人間にしては異質な匂いに顔をしかめつつ、鬼は立ち上がった。妙に気になる。我に喰われた後何があった。もう少し近づけばよくミえると思い、鬼は男に近づこうとした……その矢先。
歩みを止める男、その目が道路をなぞり、こちらへ向かってきているトラックを見やった、直後、ふらりとした足取りで道路へ飛び出した。
「っ!? おい待てっ」
「……へ?」
クラクションを鳴らしながらトラックが行き過ぎる。鬼は思うより前に男の腕を引っ掴んで歩道に引き戻していた。反射的行動、自身でもなぜそんなことをしたかわからない、だがそれより、鬼は男へ叫んだ。
「阿呆か貴様! 何を理由に道路に飛び出すなんざ、血迷ったか!」
そう荒げて、やっと男をよくミた鬼は困惑した。疲労と一言で言えば、容易いそれ、無感動、悲観、殺意、虚無、怠惰、自虐、諦観、失笑、虚勢、落胆、希死念慮……情報量が、予想外すぎて。
「あれ……あんた……」
男の声に気づかされた鬼は、まだ掴んでいた男の腕を徐に離した。初め男の目には光がなかった、というのに、どういうわけか、その瞳が輝き出していて。男が口にしたのは。
「あんた、もしかして……俺を食った鬼、じゃないか?」
今、何と言った……?
信じ難い発言に鬼が動揺したのも束の間、男は「やっぱそうだ、やっぱりあんただ、俺を食った鬼、そうだろ。」、そう続けて、鬼の腕をがっしり掴むと言った。
「なぁ、俺を食ってくれ!」
「……あぁ?」