序章
たりない、たりぬ。人混みを縫うように歩き、浅く息を吐いて。パーカーなる衣服の懐に突っ込む両手を握りしめる。血の出そうなほど爪が肌に食い込むがそんなものはどうでも良い。
口の中にまだ残る欠片、飲み込むのがもったいないばかりに舌の上で転がすも、溢れる唾液に嫌気がさす。やっと身体に温度が戻ってきたと思うたのに、やはり足りなかった、芯が冷える、悪寒が走る、体の震えが止まらぬ。
たりぬ、あれだけではたりなかった。だが先の人間は不味かった、食えたものではなかった。保存料の味が邪魔しおって、日々コンビニ弁当ぐらいしか口にしておらぬ肉はやはり不味い。そのくせ運動は欠かしておらぬ体つきであったが、であればまだ脂身ある奴の方がマシであった。いや、それもそれで、油ぎった身ばかりでは問題であるが。
最近の生者は忙しなさを理由に食を疎かにする連中ばかりで困る。口にするもの一つ一つが自身の身を形作っている自覚、今の世では希薄になっているらしいな、嗚呼苛々する。
お陰で近頃の我の食事は味のわからぬ饅頭を口にしては屑同然というような有様に、落胆することの繰り返しである。全く、嗚呼、冷える、骨身まで冷え痛みすら覚える。
早く見つけねば、次の人間を、次の、肉を、だが……あの者は駄目だ、疲労を抱えすぎている者は身が硬い、あの者も駄目だ、化粧が濃すぎる者はその身に薬品が染みついている、あの者も駄目だ、周りを欺き笑う者の血は腐っている、あの者も、あの者も、あの者も……待て。
……嗚呼、いた。しかも、おお、これは。
多少疲労は蓄積しているようだが、問題ない。身なりも最低限の整えであるが、問題ない。そんなもの気にならぬほどの、肉。色艶の良さ、質感の良さ、何よりその、匂いは……この頃嗅いだことがないほどの生に満ちている。
ほう……これまた奇妙な人間よ。これほどまでに潤いある匂いのする奴でありながら、その思考、生を疑い、死に近い人間であるなど。面白い。その肌はどれほど柔いのか、筋は、脂は、腑は、心の臓は……如何程に甘く、美味であるか。
「なぁ、其処な御前……嗚呼そうだ、御前だ……直之殿。」
名を言い当てられ驚くと同時に、我から視線を外せぬまま身動ぎもできぬ人間は、既に我の手中。周囲から我らのいる空間のみが切り取られる。いやに呼吸の音が響く人間の肩口で、囁きを。
「……暫しの痛みよ、何、我を楽しませてくれればそれで良いのだから……」
「その生の証、しかと味わわせてもらおう」