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机の前に男子が立った。クラスの人たちがほぼそろうホームルーム直前のことだった。私はすでに席についていたので、男子の黒いズボンに視界を遮られている。何か用事があるのかな。でも特にこれと言って考え付かない。何か忘れちゃってるのかな。申し訳ないな。と、見上げかけたのと男子が挨拶したのは同時だった。
「おはよう漣!」
はきはきとしたよく通る声に肩がはねる。心臓をばくばくさせながら改めて見上げるとそれは神藤だった。クラスで、というかたぶん学校で一番かっこいい顔をしていて、勉強も運動もできるいい人。眉目秀麗、文武両道、明朗快活を地で行く人。それがどうして私に挨拶をしているんだろう……と戸惑いはするものの、明らかに目の合っている神藤をあからさまに無視するのも悪いので「お、おはよう」とどもりながら返す。
神藤は快活な笑みを浮かべた。え、なんだ? 私は怯み、目を逸らして彼の口元を見る。唇の左下に小さなほくろがあるぞ。などと思いながら、私はどうにか口元に小さく笑みを浮かべて笑い返す。すでにいっぱいいっぱいだ。
本当にこれはどういうことなんだろう。クラスの反応に耳をそばだてる。クラスの人気者がぼっちの私に話しかけたことに動揺が広がっているようだった。つまりこれはクラス全員でやっていることではなく、神藤が一人で決めてやっていることなのだ。
「体育祭のお疲れ会でカラオケ行くんだけど声かけてなかったなって思って」
誰かが「なんで」と声を漏らしたのが聞こえた。確かに「なんで」だ。私はいつも教室の隅にいるだけの、地味で静かなクラスメイト。みんなで集まって楽しく過ごそうという空間に連れ込んだところで、扱いあぐねてただただ気まずい思いをするだけだろう。
そういう思いをすることが分かり切っているから私は初めから頭数には入っていないし、私自身ようちゃんの世話があるからむしろそうしてくれるのはありがたい。全員にとってそれは暗黙の了解だと思っていた。現に体育祭はそういう風に回っていて、私だけハチマキの寄せ書きに参加していない。それについてクラスメイトたちも私も言及することはなかった。もちろん神藤だって。
しかし現在目の前にいる神藤は依然として快活な笑みをたたえている。まるで道徳の教科書に出てくるような表情。断られるなどとは夢にも思っていないだろう。でなければあんなにも笑えるものか。私は曖昧に微笑み返した。
「そうなんだね」
間をもたせるための相槌をうちながら内心頭を抱えた。神藤は四月から今までの短い間に私を除いたクラスの全員と打ち解けてみせるような完全無欠人間なのだ。
だから彼の優しさがこうして空回っている様子は私の目にはどうも不自然に見えた。神藤、お願いだから空気読んで。敢えて読んでないならちゃんと読んで。優しさで声をかけてくれたにしろ、私は全く嬉しくなかった。それどころか迷惑だとすら思っている。私がひとりなのは可愛い妹の世話に全力を注いでいる皺寄せだ。そしてクラスのみんなが私と一定の距離を保っているのは友達じゃないからだ。誰も何も悪くない。改善の必要はない。なのに。
「漣もおいでよ」
誘う神藤に曖昧に微笑み続けながら頭を切り替える。さてどうやって断ろう。神藤はにこにこ笑って待っている。断ったら悪いみたいな気分になってきた……いや、だからといって誘いを受けても今度はクラスでの居心地が悪くなるだろう。みんなでの楽しいパーティーになるはずが「漣のせいでやたら気を遣った気まずいだけの嫌な思い出」になるのだから。ていうか、ようちゃんを保育園に迎えに行くからそもそも行けない。
しかしなんとなくようちゃんのことを学校の人に知られるのは嫌だ。大切な妹に下手に興味を持たれたくない。話のネタにされるなんてもっての外だ。漣の妹なんだからものすごく地味なんだろうななんて、勝手な憶測で話されたりしたら許せない。ようちゃんは可愛くて明るくておしゃれな女の子なのだ。絶対に存在を明かしてなるものか。何か別に断りの理由を考えないと。考えを巡らせながら私はため息を飲み込む。
「……嫌だった?」
とはいえぱっと適当な理由が浮かぶはずもない。言いよどんでいると神藤の顔から笑顔が抜け、その代わりに戸惑いが浮かぶ。心臓がきゅっと縮み上がった。
「いやそういうつもりじゃない。ごめん……あっ先生、保健室行ってきます」
ちょうど教室に入ってきた先生に言い、呼び止めにも応じず私は保健室に逃げた。
私がひとりになったのはごく自然な流れだ。部活に入らなかったし休み時間はいつも寝ている。よく噛まない癖があってお昼ご飯を食べるのも速く、昼休みもほぼ寝ている。授業中もただ静かにしているだけのタイプ。もちろん友達同士で楽しそうなところを見るといいなと思う。でも友達は相手あっての関係。私が勇気を出して声をかけて困らせることがあっては気まずい。それに何より私はようちゃんを最優先にしているから、きっと中途半端になってしまう。友達がいのない奴だ。
だから教室移動もお昼ご飯も一人で済ませてきた。担任の先生が面倒なことを言い出さないように、ある程度はクラスの人達と会話を交わしたり、休み時間の度に教室を出て適当なところで時間を潰したりしてきた。そういう態度を取っていたのがよかったのか、クラスに居場所はある。いじめられたりはしていない。友達がいないことを除けばそれなりに上手くやれていると思う。とても平和だったのだ。神藤に話しかけられるまでは。
翌日。人に見られるのを嫌って早く登校した。昨日の神藤の言動とそれに対する自分の態度を考えると、好奇の目に晒されるのは間違いないし、目の敵にされる可能性もなくはないと思う。できるだけ関わらないようにしたい。
いつもと違うスケジュールにはしゃいでいるようちゃんを開いたばかりの保育園に預け、いってきますのぎゅうをして、まだ腕や胸に残っているようちゃんの温もりを心の支えに学校に行く。朝も早いのに運動部のかけ声が小さく聞こえてきて、それだけで変に胸がどきどきした。
人もまばらな職員室で鍵を借りる。先生の心配そうな表情に気がつき、何か聞かれる前にとつい逃げ出した。そうしてクラスに到着すると荷物を手早く机にしまう。貴重品をポケットにいれて適当な教科書を片手に校舎の最上階まで上がる。非常口には鍵がかかっていないので簡単に屋上に出られた。いつもお弁当を食べている時とは違って始業前の屋上は静かで、涼しい風が気持ちいい。砂ぼこりでざらつく床を軽く払って腰を下ろした。少しだけ気持ちが落ち着く。教科書を開いて小テストの勉強を始めた。このまま放課後までここで一人で勉強してたいなんて、無理な願いと憂鬱な気持ちを抱えたまま、ホームルームぎりぎりまですごした。
人の多い廊下に居心地の悪さを覚えながら足早に通り過ぎる。教室には朝練後の運動部も担任の先生も揃っていた。ホームルームはすぐにでも始まるだろう。こっそりと自分の席に着く。少しだけ安心した。
「おはよう漣!」
「あ、お、おはよう」
それも束の間、神藤が昨日と同じようにわざわざ私の席まできた。今日はその友達の地村も一緒だ。相変わらず何を考えてるか分からない顔をしてるけど、目だけは違う。しっかりと私を睨んでいる。神藤と仲がいいみたいだし、やっぱり昨日の態度がよくなかったのだろう。
「はい、これ」
神藤はにっこり笑ってメモを手渡してきた。メモとはいってもルーズリーフを四つ折りにした簡単なものだ。それでもクラスの女子たちが小さな悲鳴をあげるには十分だったらしい。梅雨入りにも関わらず背筋がひんやりする。
「読んどいて」
神藤はそれだけ言うと席に戻っていった。地村は低く小さな声で「捨てるなよ」と言い捨てて席に戻る。冷や汗をかきながらそっと開いて中身に目を通すと、今日の日付とカラオケ店の名前と場所、部屋番号が書かれていた。綺麗な字だ。字までできるやつなのか。
元通りにたたんできちんと鞄にしまった。これで地村も文句はないだろう。先生の号令と共に全員着席。朝のホームルームが始まった。女子からの視線も男子からの好奇の視線も怖くて怖くて、ホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出して授業ぎりぎりまで戻らなかった。それを繰り返しなんとか二日目を乗り越え、放課後は保育園へようちゃんを迎えに行き帰宅する。カラオケにはもちろん行かなかった。
「おはよう漣!」
「おはよう……」
今日で三日目だ。一昨日と昨日と同じく、朝練を終えた神藤が私の机の前に立つ。カラオケに行かなかったから、さすがに悟って諦めてくれたかと思っていたけど。もしかしてこれから毎朝来るつもりなんだろうか。……無視しないのがいけないのかもしれない。しかし無視したくはない。傷付けたいわけではないのだ。
「今日昼めし一緒に食お」
「え、で、でも、」
お前は友達と食べるんじゃないのか。という旨の確認をする前にチャイムが鳴って、神藤は「それじゃ昼休み」と席に戻り、先生の号令がとぶ。私は起立しながら心の中で困惑していた。どうして急にお昼ご飯一緒に食べることにしたの? 神藤ってなんでも一人で決めちゃうの? そういう感じの人だったっけ?
礼をして着席。先生の話が始まる。メモを取りながらも考えるのはお昼のことだ。ため息を吐く。もしのこのこ行ったら確実に微妙な空気になるだろう。それは申し訳ないし、私だって嫌だ。せっかくのお弁当がおいしくなくなってしまう。作ってくれたおばあちゃんに申し訳ない。それもこれも全部神藤のせいだ。
連絡事項が終わると校長先生の講話が放送されて暇になった。メモの端っこにようちゃんの好きなキャラクターを描いて心を落ち着かせながら、こんな身勝手されて神藤の友達ってどんな気持ちで一緒に過ごしてるんだろうと考える。神藤は完璧な人だけど、でもこんな風になんでも一人で決めて笑顔で押し通すところに何も感じないのだろうか。いや何も感じないわけがない。それじゃあどうしてクラスのみんなと仲がいいんだろう。……もしかして、私にだけ?
思い至るとお腹の中心がスッと冷えて、微妙に息が苦しくなった。どうして? 私、何もしてない。関わってない。クラスでだって上手くやってた。クラスのみんなが気を遣わなくていいように、先生がクラスのみんなに気を遣わせなくていいように、ちゃんと立ち回ってた。神藤だって、ついこの間まで私のこと気にしてなかったじゃない。なのに、どうして? 標的にされるようなこと何もしてないのに。
一限目から三限目まですごし、四限目の終了数分前から動悸と胃痛で保健室に行った。養護の先生は「顔色悪いよ」と心配しながらすぐにベッドに入れてくれる。仕切りのカーテンが閉められるとほっと息をついた。お腹をさすり、だらりと大の字になる。まだ胸が嫌な鼓動を打っていた。でも教室よりはずっといい。
「……おばあちゃん」
安心して余裕の出てきた頭にまず浮かんだのは、お弁当を教室に置いてきてしまったことだった。水筒の中にわかめとじゃがいものお味噌汁をいれてくれたのに。今日はひじき煮をたっぷりいれてくれたのに。
私は頭まで布団をかけた。チャイムのくぐもった音が聞こえる。四限目が終わった。これから昼休みだ。神藤とその友達たちとご飯を食べずに済んだことに改めて安心した。でもお弁当は絶対どこかのタイミングで食べなくちゃ。おばあちゃんをがっかりさせたくない。
がらがらと保健室のドアを開ける音が聞こえた。続いてくぐもった話し声が聞こえる。こうして人の出入りもある以上お弁当を食べることはおろか、教室に取りに行くことすら難しい。こうなったらもう早退して公園で食べようか。少し我慢すれば学校から解放されるんだもの。荷物を取りに行くくらい頑張れる。
「漣さん、起きてる?」
「はい」
布団から顔を出しながら返事をすると、先生がカーテンを開けて入ってきた。
「お昼ご飯どうする? 食べられそう?」
「……分かりません」
「まだお腹痛い?」
「はい」
先生は心配そうな顔つきになった。病院にとでも言いだしそうな気配だ。あまり大事にされても困る。それでおばあちゃんに連絡がいったら心配させてしまう。
「……でも、一口だけでも、食べてみようかな」
「大丈夫? 頑張れる?」
先生は乗り気じゃなさそうだ。でもここで一口でも食べる様子を見せれば、食欲があるなら病院に行くまでもないと判断してくれるだろう。
「はい。教室にお弁当があるのでとってきます」
「それならさっきクラスの子が持ってきてくれたよ」
穏やかになりつつあった心臓がきゅっと握られた。何か言う間もなくカーテンのむこうに大きな人影が映る。
「漣。弁当なら俺が持ってきたよ。一緒に食べよう」
神藤だ。私は思わず先生を見る。先生はにこりと笑った。
「よかったね。ベッドで食べていいからね」
私は何度も首を横にふる。
「あ、あの人別に友達じゃないんです。むしろ嫌われてるっていうか、これも嫌がら
せで、むこうが勝手に」
小声で訴えると先生は目をまるくして、あろうことか微笑んだ。そして「ちょっと待ってて」と神藤に声をかけてからカーテンを閉め、内緒話を楽しむようにこそこそと私に囁いた。
「きっと漣さんと友達になりたいんだよ。でも全然タイプが違うでしょう? それ
で上手に声をかけられないだけなの。少しだけでもいいから考えてあげたら?」
私は絶句して先生を見た。そんなはずはない。神藤は私を標的にしているに違いないのだ。暗黙の了解を無視したら教室の空気がああなることくらい分かるはずだ。そしてそれによって私がどうなるかも。その上であんなことをして、私が自分のことをどう思ってるか分かってるくせに素知らぬ顔をして、今だって勝手に私の鞄を漁っておばあちゃんのお弁当を持ってきて。周りは『優しい神藤君』の行為に疑問を抱かないし、私が鞄を漁られてどう感じるか興味を抱かない。神藤の誘いを受けないことで非難されるのは私の方。周りを利用したり優しさを装った嫌がらせをしてるのは神藤なのに、悪いのは全部私にされる。そんなの神藤はやりたい放題じゃないか。
「い、いや、だって、先生。勝手に私の鞄を開けてお弁当を」
「漣さん」
先生は困り顔で呆れたように私の名前を呼んだ。
「心配でいてもたってもいられなかったんだよ。鞄を開けられたのは嫌かもしれない
けど、気持ちをくんであげてね」
どうして。先生は私の返事を待たず、カーテンを少しだけ開けて「無理させないでね」と言った。それから改めて私を見る。
「髪ぐしゃぐしゃだよ」
「せ、せん――」
先生はカーテンを開けた。咄嗟に髪を押さえる。カーテンの外には私のお弁当と大きなお弁当の二つを持った神藤がいて、保健室の出入り口には地村が立っていた。髪を押さえつけている私に神藤はきょとんとしたが、すぐ笑いかけてくる。
「具合はどう?」
「ま、まあまあ、かな……」
神藤の前で横になっているのも嫌で、片手で髪を直しながら体を起こす。
「はは。直ってない直ってない」
神藤はベッドにお弁当を置き、ナチュラルに私の頭に手を乗せてきた。怖い。思わず目を逸らした先に地村がいた。地村は微動だにせず見返してくる。愛想笑いをして目を逸らした。その間に私の髪を直し終えた神藤は、にこにこしながらベッドの横のパイプ椅子に座る。背の高い神藤にすぐ傍に座られると圧迫感があって、胃のきりきりが復活した。神藤は「弁当小さいな」と言いながら私の膝にお弁当を置き、地村に声をかける。
「漣いいってー」
いいなんて言ってない。けれど今さら断れない。そうこうしているうちに地村が保健室に入ってきた。隣のベッドからパイプ椅子を引きずってきて神藤の隣に座る。その手には安売りの菓子パン一つと紙パックの野菜ジュースだけ。男子のお昼ご飯にしては少ない気がして少し心配になった。そういう体質なら普通の量なのかもしれないけど……。
「何見てんだよ。食いたいの?」
「あ、ご、ごめん」
謝って俯く。自分のお弁当が目にうつった。猛烈におばあちゃんが恋しい。少し泣きそうになってしまった。
「恐いよ地村」
「え……ごめん、神藤」
神藤が地村を注意する。地村の狼狽えた声に慌てて顔を上げた。いや、私も悪かったんだよ。
「あ、の。じっと見たりしてごめんね、地村君」
「うん」
地村は私を睨みながら頷いた。怒ってる。私はさっと俯き、お弁当の包みを解いた。お弁当箱の蓋を開ければ閉じ込められていたおいしそうな香りがふわりと漂う。一人で食べられないのは残念だけど、おばあちゃんのお弁当を食べられるのは嬉しい。神藤と地村の会話を念のために聞きながらおばあちゃんの手料理に舌鼓をうった。
「漣のかぼちゃうまそうだな」
「え? あ、かぼちゃ……おいしいよ」
「自分で作ってんの?」
「おばあちゃんが作ってくれたの」
「へぇ、いいなぁ」
かぼちゃ、食べたいのかな。でも神藤の大きなお弁当箱にはバランスのとれたメニューがぎっしり詰まっている。かぼちゃをあげるとしたらまず地村にあげるべきだろう。
「漣は料理しないの?」
「料理っていう料理はしないかな。ホットケーキ焼いたりとか、その程度」
「ホットケーキって料理じゃないの」
地村の声と言葉に体の芯にぎゅっと力が入る。咄嗟に愛想笑いをすると神藤が頷く。
「思った。フライパンとか使うし」
「全然料理だよね」
地村が睨んでくる。私は慌てて頷いた。
「そ、そうだね」
「でもなんかさ、ホットケーキが料理じゃないって女の子ぽくていいよな。ささっと
作れちゃう感があって」
神藤がじっと私の目を見ながら言う。作ってきてほしいなってことだろう。無茶だ。神藤に手作りのお菓子を渡すなんてクラスとの溝が決定的なものになってしまう。きっとそれが神藤の狙いなのだろう。思い通りにさせるものか。
「そ、そんなたいしたことないよ。私にとっては混ぜて焼くだけだから……玉子焼き
と違って勝手にまるくなってくれるし。誰だってできる」
「まあ粉があればね。でも漣が一番うまそうなの作りそう。ふわふわしてて外がサク
サクのやつ」
「そ、そうなんだ」
「何引いてんの」
地村が睨んでくる。私は「そんなことないよ」と言って、もう喋らなくていいようにひじきを口に運んだ。なじみのある味が口いっぱいに広がって少しほっとして、
「は? 引いてたし」
尖った地村の声にすぐに体が強ばった。仕方なくひじきを飲み込み、私はおずおずと口を開く。
「そ、そんなこと……あっ、そ、そういえば、どうして今日は私とお昼ご飯食べよう
と思ったの?」
私が折れない限り終わらなさそうだ。そう咄嗟に判断して話題を逸らす。
「それは僕も思った」
地村も気になっていたのだろう。あっさり便乗してきた。少し怯みつつ神藤の返事を待つ。神藤は一瞬の間をおいて「昨日の話をしようと思って」と言った。
「カラオケのこと?」
私は箸を止めて白々しく尋ねる。メモまで渡してやったのにどうして来なかったんだと問い詰められるのかもしれない。心配したんだよなんて善意にくるんで。……そしたら具合悪くてって言おう。内心冷や汗を流しながら言い訳を用意しておく。
「漣昨日来れなかったろ? だからどんなことしたのか話したくて」
思ってたのと違う、と驚いたのも一瞬だけで私は曖昧に微笑んだ。なるほどね。わざわざ私が行けなかった会の話をすることで、疎外感を与えようという魂胆だろう。
「楽しかったね」
地村の相槌に神藤は楽しそうに話し出した。私は食事を再開しながら黙って聞く。神藤は合間合間に「漣も来ればよかったのに」とか「次は漣も来てよ」とかクラスの空気を一切無視した発言を挟んできた。全部曖昧に笑って流す。地村の前で行くとも行かないとも言いたくなかった。
「全部食べ切れたな」
最後のかぼちゃを口に入れてもぐもぐしていると神藤は嬉しそうに私の頭を撫でた。急に触られたことに驚いて言葉を失い、にこにこしている神藤と黙って見つめあう。
「なんか言いなよ」
地村が私を真っ直ぐ睨みながら言った。私は慌てて「少し驚いただけ。ありがとう、神藤くん」とよく分からないままお礼を言い、お弁当箱とお箸を片付けた。
「全部食べました」
用があるからとひとりで保健室に残り、先生に全部食べ切れたことを報告する。先生は嬉しそうににこにこしながらうんうん頷いた。
「きっと楽しかったんだよ。食欲ってそういうところからもわいてくるからね」
「違います。おばあちゃんの料理だけが癒しだったって言うか」
「そうなの? いい子そうに見えたけどな、神藤君」
「私もそう思います。クラス中みんながあの人の言うこと聞くし。だから困ってるん
です。今まで全く関わりのなかった私に急に構ってくるようになったので、女子の
やきもちとか男子のネタの対象にされてクラスにいづらくなったんです。あの人は
頭がいいのでこうなることが分からないはずがないんです」
「……それは……」
先生は眉を下げた。最後まで言わなかったけど、何を言おうとしているかは分かる。ああ、大人でもそう思うんだ。やっぱりいじめだよ。
先生は、いつでも保健室に来てベッドを使って構わないと言ってくれた。学校に避難場所ができたことに少し安心する。何が神藤の気に障ったのか分からない今、とにかく堪えて神藤の出方を窺おう。そしてクラスの総意に沿うような過ごし方をしよう。自分にできるのは今のところそれくらいしかない。
保健室を後にして階段を上がる。教室のある階に着くと、廊下の壁に地村が寄りかかっていた。悪いことに、その反対側の壁際では別のグループが何か話している。教室に行くにはあのグループと地村の間を通り過ぎなければならない。
少し待ったがグループがどく気配はないし、地村も全く動かない。もしかしたら神藤を待っているのかもしれない。そこに思い至ると、諦めて地村をやり過ごそうという気になった。
遅すぎず速すぎず、普通の速さを意識して歩く。目線は前方のどこか遠い場所にやった。とにかく意識していることに気付かれまいとした。これ以上地村の機嫌を損ねるのも嫌だった。
「ちょっと来て」
「え?」
すれ違いざまにかけられた言葉に思わず立ち止まる。振り返ると地村は階段へ向かう所だった。行くべきか迷いながらその背中を見送る。なんの疑念も持たずに地村についていくことは少なからず抵抗を覚えた。
「うわ……」
地村は階段下で振り返りこちらを見る。相変わらず何を考えているか分からない乏しい表情だったが、目は確かに怒っていた。仕方なく地村に着いて行く。地村は何度か振り返って私を確認した。ショッピングモールの妹を思い起こさせる行動だったが、そんな可愛いものではない。
それにしても一体どういうつもりなんだろう。地村は階段をのぼりきり、校舎の最上階に来た。迷わず非常口から屋上に出て中央で立ち止まる。その後に恐々と続いて私は非常口に立った。
「あの……どうしたの? こんなところまで」
「なんでそんなに離れてんの。普通喋るときは近くにいるもんだろ」
「ご、ごめん」
仕方なく傍まで行った。地村は私が一定距離まで近寄ると頷く。それはいいよってこと……? 私は恐々と足を止め、地村の大きな口を見た。
「どうして神藤にあんな態度とったの。適当に笑って流してただろ」
「……ごめん」
地村の舌打ちに肩がはねる。
「僕に謝ってどうすんの」
もう一度謝ろうと口を開いた瞬間、地村が私のお腹を殴った。わけもわからずお腹を押さえて俯く。気持ち悪さでめまいをおこし、バランスを崩して尻もちをついた。
「あんなによくしてもらっておいてなんなの。何様のつもり」
地村はお腹を庇う私の手ごと、爪先でお腹を蹴る。
「神藤が嫌いなの。生意気」
「ち、違う。そんなことない」
吐き捨てるように言う地村に自然と体を縮こまらせながら必死に否定した。すると今度は頭を蹴られる。目がちかちかする。耐えかねてその場に崩れ落ちると、唇を床に思い切りぶつけた。口の中に血の味が広がる。地村は私の前に回り込んで、今度は顔を庇う手ごと私の顔を爪先で蹴った。気が済むと今度は何度も私を踏みつける。一回一回が重い。恐怖と体中の痛みで涙が滲む。
「違うわけないだろ。じゃなきゃあんな風にしない。泣いててもわかんないよ。何
様なの」
「ほ、ほんとなの。話を、き、聞いて!」
「……何」
必死に声を上げると地村は足を止めた。とはいえその足はまだ私の脇腹にのせられていて苦しい。
「私こんなだし、なんで声をかけてきたのか分かんなくて……そ、それで……し、
しかも急だったの……神藤君と一回も喋ったことないのに」
必死に説明するとようやく地村は足をどかした。こわごわ窺うと地村の目は心なしかまるくなっている。神藤に声をかけられて喜ばない人間に会ったのが初めてなのかもしれない。今なら落ち着いて話を聞いてくれるかも。
「友達にああいう態度する人のことを悪く思うのは当然だよね。ごめん。でも本当
にどうして声をかけてくれたのか分からなくて、クラスのみんなとグルになってい
じってきてるわけでもないみたいで、どうしたらいいのか分からなくなって……
そ、それであんな態度とったの。だから神藤君が嫌いとかそういうわけじゃな
い」
地村の返事を待ったが、地村は黙ってしゃがみこみ、いつもの顔で私を見ただけだった。今何を考えてどんな気持ちでいるのか分からない。
「……ち、地村君はもし私みたいなのが友達の友達になったら困らない?」
縋るような思いで言う。すると地村は目元を緩め、うっすらと笑った。
「困らない。神藤が選んだ人だし」
なぜそこまで自信満々に神藤を信じることができるんだろう。何もしていない私を急にいじめてくるような人間なのに。
「僕も昔はお前みたいに思ってた。入学式で神藤が声をかけてくれた時、罰ゲームか
何かで暗いやつに話しかけてるのかなんて疑ってた。でも違ったんだよ。優しさに
我慢できなくなって突き放しても嫌味を言っても、中学の時孤立してたような人間
だって話しても、神藤は絶対に僕をバカにしたり見捨てたりしなかった。ねぇ、
分かってよ。神藤は嫌なやつじゃない。根っからのいいやつなんだよ。だから僕
は、それから、やっと、……」
地村はそこで言葉を切り、潤んだ目を瞬いて涙を除いた。私は見てはいけないものを見ている気がしてそっとよそを見る。少ししてから続いた「初めて」という言葉で再び地村を見た。
「僕もクラスの一員なんだって思えた」
「神藤君を信じられるようになったんだね」
「あの神藤が仲良くするだけの価値が僕にはあったんだ。神藤の傍にいていい資格
があったんだよ」
「……そんな言い方」
地村のことが心配になった。そんな私を見て地村は小さなため息をつく。やはり刻み付けられた恐怖で体の中心に変に力がはいるが、自分のことをそんな風に言ってしまう地村のことが純粋に心配な気持ちはくじけずにあり続けていた。
「始めは怖いな。分かる。でもお前は神藤に声をかけられた人間なんだから、自信
を持って誘いにのればいいんだよ。他の連中と違ってお前にはその価値があるん
だ」
地村は優しく言った。諭すような口調だった。少なくとも怒ってはいない。ゆっくりと自分の体から力が抜けるのを感じながら、つまり地村の中では神藤に声をかけられた人間は特別ってことなのかと結論して、私は少しだけ呆れた。確かに神藤は顔も成績も性格もいいけど、それにしてもずいぶん仰々しい言い方だ。
「……地村君は神藤君に救われたんだね」
返事に困ってとりあえず呟くと地村君は大きく頷く。
「神藤は僕を見つけてくれて僕を見てくれた。……だから僕は何があっても、死んで
も神藤の友達で、味方でありつづける」
「それじゃあ親友だ」
地村君は首を横に振った。
「僕なんかが神藤の一番にはなれない。わきまえてる。僕はただの友達だよ」
「地村君ほど神藤君のことを考えてる人はいないと思うけど」
体の痛みが落ち着いてきてゆっくり体を起こす。地村はすかさず私の背に手をまわして助けてくれる。その手つきが存外優しくて、さっきとの落差からなんだか妙な気持ちになった。
「神藤君だって分かってると思うよ」
「そうかもしれない。でも僕なんかが親友じゃ神藤の格が落ちる。僕はずっとずっと
ずっとずっと友達でいられればそれでいいよ」
「……そっか」
格とか気にしないでいいと思う。でもそんなことを言ったら地村はまた怒るだろうから、私は一つ相槌を打って自分の制服の砂ぼこりを払った。